#007 不幸体質
自分の体温が上がって行くのを感じる。もくもくと立ち上る煙のように心の中を満たしていく不安。晴れる事のない気持ちに、どうすることも出来ずにいた。
二人の間に会話はなく、神田は気まずいと思うわけでもなく運転に集中していたし、春は指のささくれをいじっていた。
信号が赤から緑に変わり、アクセルを踏んで徐々に車のタイヤが回る。丁度、十字路の真ん中を通ろうとした神田の車がいきなり速さを増した。
春は、俯いていた顔をあげ何事かとフロントを見ようとしたが、車体がカーブを描いて止まった。あたりにタイヤのキューというネズミが這い回り鳴く声のように響く。驚く暇もなかった春はただ、目を大きく開ける事しかできずにいた。
十字路を通り、直進しようとした神田の左から信号無視のトラックが猛スピードで二人の乗っている車に激突しようとした。神田のとっさの判断で車のスピードを上げ、二人の体に傷を負う事は無かったが、車のバンパーは見事に弾き飛ばされぐちゃぐちゃになっていた。
信号無視のトラックは歩道のイチョウの木に衝突して止まった。
「大丈夫か?」
神田は、心臓を押さえて荒い呼吸をしている春に気づき普段とは違う荒っぽい口調で問う。春は、全然大丈夫ではなかった。また、始まったと何かを悟った。
「おい、しっかりしろ」
神田は春の肩を掴み数度揺らすが、虚ろな目で荒い呼吸をして神田の声は届かない。神田の先ほどの事故に動揺して普段の言葉遣いが出ているが、春の様子は事の起こりに対して異常な程である。
春は自身の体を抱きしめ目をギュッと閉じて、深呼吸を三度繰り返しゆっくり神田の方を見た。
「か、んださん」
血が引き青白くなった春の顔に一筋冷汗が伝った。
「無かったことにしてください」
神田は意味が分からなかった。一瞬、この事故の車の弁償は出来ないから事故は見なかったことにしてほしいと意味かと思ったか、春の顔を見ると全く違うようにも見えたし、このタイミングでそんな事を言うような人には見えなかった。
「何がですか?」
神田は、眉を寄せて聞き返した。
「この…このお仕事の件です。やっぱり、無かった事にしたいんです。それじゃあ」
春は、手の甲で顔を伝った汗を拭いシートベルトを解除して車から降りた。「お、おいまて」と神田は行き成りの春の言葉に驚いた。
桜子とも仲が良さそうで、春自身もこの仕事に対して積極的な姿勢が見えたのにいきなり無かったことにしたいということに神田は納得がいかなかった。何しろ、あの桜子が気に入った女性というのは珍しい事であり、春のような人を再び見つけるのは中々難しいので、この機を逃したくなかった。
車から降り、歩道を俯いて歩き出す春を追いかけるべく神田も車から降りて掛けた。
「北原さん!」
神田は春の腕を強引に引き上げて自分の方を向かせた。
「北原さん、どういうことか聞かせてくれないと分かりません」
春は、ずっと俯いたままで長い黒髪で隠れて、顔は見えなかった。ただ、小刻みに震えているのが掴んでいる腕から伝わって神田は腕を掴んでいた手を解いた。
「やりたくなくなったんです」
神田は、子供っぽい事を言う春に何故か怒りは無かった。しかし、理由が分からないのではこちらも諦めきれない。
「どうしてですか?」
春は神田の言葉にだんまりだった。神田は母親に起こられたけど、素直にごめんなさいと言えない子供を待っている気分になる。
「嫌なんです…」
「どうして」
根気強く春の言葉を待つ神田は、責める事なく春から話してくれるまで春のつむじを見つめていた。
「言いたくないです」
「それは困ります」
嫌だとばかり言う春に神田も頭に熱いものが上り始めた。
「理由も分からず、やらないというのは可笑しい」
「可笑しくてもいいです。すみませんでした。お願いしますから…お願いだから、無かった事にしてください。お願い…」
消え入りそうな声で、神田には得体のしれない春の抱えている心の痛みと叫びが伝わってきた。このまま、春を一人で送ってしまっていいのだろうか。彼女は何をそんなに抱え込んでいるのだろうか。
神田は俯いている春の頭を鷲掴みにして持ち上げた。ぐぐぐっと力を入れ頭を持ち上げると、春の足が熱いコンクリートから離れようとしている。春は驚いて神田の腕をつかんだ。
「離して?!何!?」
「何をそんなに不安がってるんだ?!」
じたばたする春を一度床に下ろし鷲掴みにしたまま神田は怒った。
「関係ないじゃん!?わ、私がやらなくても他の人を見つければいいでしょ!?怒る事?!」
「そんな事を言ってるわけじゃないだろ!」
「じゃあ何を言ってんのか分かんない!!この手を離せ!」
「離したら逃げんだろ!!」
「当たり前だよ!!」
「開きなおんじゃねーよ!」
「う、うるさい!」
神田の腕を掴み突っぱねようとしたり叩き落そうとしたが神田も意固地に春を鷲掴みにしている手を強めた。
「痛い!!」
「話せ!何なんだ、駄々捏ねやがって!」
「駄々じゃない!!離しやがれ!痴漢じゃーー!」
「うっせー!雇用主に痴漢はねえだろうが!」
神田は左手を春の後頭部に回し右手で口を塞いだ。春は、もごごと何かしゃべるが口ごもって伝わらない。
「これで逃げられたら俺も堪ったもんじゃねえよ。何故辞めたいか正当な理由を話すならこの手を離してやる」
春はもごごと言いながら神田の右手を剥そうという手を離し、暴れるのを止めた。暴れるのを止めた春から手を離そうとしたが、諦めず逃げようとした春の腕を浮かんだ。
「お前は構って欲しい猫か!」
「猫が人間の言葉喋れるかーー!」
春は、どうにか腕を掴まれた手を剥そうとしたが無理だった。
「いい加減にしろよ!」
さっきまでとは打って変わって低く太くなった神田の声にピクリと体が跳ねた。暫く、右のイチョウの木の根元から生えた雑草を見ていた春は神田を見上げた。
「不幸体質」
「はあ?」
「だから、不幸体質だって言ってんでしょうが!」
ぽかんと口を開けて神田は春を見下ろした。
「昔から、そうなの。何をしても失敗ばかり、そのうち周りも不幸にしちゃうの。関心を持ったり、仲良くしようとしたら、その人達が傷つく」
神田はこめかみを掴み、はあと一つ溜息を吐いた。
「おい、そんな事かよ…」
「そんな事って何?馬鹿にしてるの?」
「さっき、起きた事故のせいでやりたくないとか言ってんのか?」
「そうだけど」
何の迷いもなく言い放つ春に、神田は今度は一度両手で顔をふき取る。
「この事故はお前のせいじゃないだろ。悪いのは完全にあのトラックだ」
「そんなの分かってる。でも、そのトラックを引き寄せたのが私だって言ってるの」
「自意識過剰だろう」
「あんたは何も知らないからそんな事言うんだ…」
「分かるわけねーだろ。お前の事知らないんだから」
「いいよ。そのまま知らなくても!これでいいでしょう!?もう、話したんだから」
じゃあねと春はくるりと元行く道を歩き始めとした。
「俺は別に不幸だとか思ってないけど」
春は、神田のその言葉に歩む足を止めた。神田に背を向けたまま春は言う。
「今はね。私とずっといるとその内、本当に後悔するよ」
寂しい言葉だった。
「そんなの今はわかんないだろ。何も起きないかもしれない」
「それこそ屁理屈だよね」
春は顔を神田に向け一言言った。
「あんたが死ぬかもしれないのに、今は分かんないなんて言える?」
風が春を包むように吹き上げた。黒い髪は巻き上がり、寂しそうに笑う春の顔を半分隠した。
春は思っていた。神田に会ってから自分に降りかかる不幸がさざ波に変わり、そして波が引くように無くなっていたから、もしかしたら不幸体質が治ったのかと。
でも、それは、春の勘違いであり、大きな津波が押し寄せてくる前の静かな海であって無くなったわけではなかったという事。
神田は、春の切ない笑みに何も言えなくなっていた。心から苦しんで寂しそうに一人で全て抱え込もうとしている人を見た事が無かったからだ。もう一度春の腕を掴んで、そんなことはないと言える自信が無かった。