#006 幸せは平等
私の人生において、こんなに運が良かった事があっただろうかと春は考えていた。面接と称した桜子とのお茶会は中々ゆったりした時間だ。すると、3時を知らせる鳩時計から間抜けな鳩が顔を覗かせては引っ込みを繰り返し、数回繰り返すと自分の巣に隠れた。
すると、正面玄関の引き戸が開き、ばあちゃんと呼ぶ声が聞こえた。
「あら、来たようね」
静かな足音が居間に近づいてくると背が高くて目つきが少々悪い神田優が顔を見せた。
「あ、どうもこんにちは」
春がいる事に気づき、神田があいさつすると、春もこんにちはと一言言った。
「ばあちゃん」
神田が桜子を呼ぶと全て分かったように桜子は「春さんは住み込みで働いてくれることになりました」と言って立ち上がった。
「こうしてはいられません。優さん、引っ越しの手配をしましょう」
「気が早いよばあちゃん」
「いいではありませんか。もっと春さんと仲良くなりたいもの、歳よりはいつ死ぬか分からないのですから」
「そう言うなって…」
神田はすぐさま携帯を取り出すとどこかに電話を掛けた。
「あの…私はいつからこちらに?」
神田が電話を切ったのを見計らってトントンと神田の腕を叩いた。
「今日です」
「え?」
「と言いたいところですが、北原さんの都合もあるだろうし無理はしなくてもいいです」
すると桜子が優を腕を掴み、少し怒った口調で言った。
「春さん!今日でもいいのですよ。私は早い方が嬉しいわ!」
「ばあちゃん…無理を言うなって」
「だってーおばあちゃんは明日にも死んでしまうかもしれないのよ!!ねえ、春さん!!」
桜子を止める神田と春に迫る桜子。まるで終わらない押し相撲をしているようだった。
「あの…引っ越し業者に連絡しても急には来てもらえないですよね…私は、桜子さんが望む通りにしてもいいと思ってるんですけど…」
すると、桜子は目を丸くして春の手を握りしめ「春さん…」と言いニッコリ笑った。それに対して、神田は駄々を捏ねる子供に悪いことを教えた近所の学生に対して叱れないような困った顔をして溜息を吐いた。
「それに関しては問題ありません。友人に引っ越し業者をしている者がいますので。先ほどの電話も彼に掛けたんです」
「えっ」
春はここに来てから驚いてばかりだ。神田は結局、人が困っていると助けるしその通りにしてくれる。そして、引っ越し業者の友人がいる事にも少し驚いた。
「じゃあ、行きますか」
「どこにですか?」
春は言葉の意味が分からず神田に聞き返した。
「北原さんの家です」
「本当に今日引っ越すんですか?」
「いいんですよね?」
普通なら、引っ越し業者を数分前に頼んでも来てくれないのに、電話一本で来てくれる友人を持つ神田に不安を感じた。こんなにテンポ良く事が進んだことは今までに無かったからだ。本当に、住み込みで仕事をしてもいいのだろうかという心配が春の心臓の鼓動を早くする。
逆に聞き返されたが、春は曖昧に答え、神田の目を見つめた。この人は何者で、どうして幸福をもたらすのだろうかと。しかし、目を見ても千里眼があるわけでも心を読めるわけでもない春は神田が良い人か悪い人かは分からなかった。ただ、目を逸らすことなく春と見つた神田に、少なくとも騙そうとしているわけではないだろうと思った。
桜子が、見つめ合う二人に耐えかねてパンと一つ手を打つとお店から追いやった。
外に出ると神田は車に乗るように助手席を開け、春が乗り込むのを待った。
「不安ですか?」
「はい」
神田はガシガシと自分の頭を掻いて春から視線を逸らした。気まずい雰囲気が二人の間に流れる。神田はたぶん悪い人ではないだろう。でも、今までの不幸続きの人生の中でこんなにも穏やかで何もない時間は初めてだったから不安が倍増しているように感じた。
「神田さんが怪しいとか、そういうのじゃないんです。ただ」
「ただ?」
春は指のささくれを暫くいじり、顔をもう一度上げた。
「こんなに順調でいいのかなって」
神田は春の言っている言葉の意味の全てを理解することは出来なかった。しかし、今までの春の人生が大変だったことは言葉から読み取れる。
「いいんじゃないですか?幸せは誰もが平等にあるものですし。さあ、どうぞ」
神田は車の中に座るように春を促した。春は、軽く頷くと黒くて柔らかい車の座席に収まる。
まだ、納得はしていない。こんなにうまく行くはずがないと春はまだ疑っていた。