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#003 サクラコ餡子

また違う『春』との出会い。

家に帰り、玄関先でストッキングを脱ぐと春はそれをごみ箱に突っ込んだ。ペタペタとわざとらしく足音を立てて進むと、6畳の小さな部屋に段ボールが山積みになっていて埃っぽさを払い布団に倒れ込んだ。


「今更だよね」


北原春の不幸は今始まったことではない。その不幸は周りをも巻き込むと思っている。


疲れた体は泥のように布団に沈み重たい瞼のも徐々に閉じていった。



―――――――☆彡――――――――――


北原春が目を覚ましたのは、次の日の明け方だ。白み出した空が見え、ベランダに出ると昨日の暑さとは違い澄んだ空気が肺に広がった。凝り固まった体をグッと上に伸ばし深呼吸すると、もやもやとした気持ちが少し和らいだように感じた。


シャワーを浴び終わり、自身の顔を鏡を通してまじまじと見ると、ここ最近の春の顔の中で一番調子が良かった。十分な睡眠を取ったためか隈は引き、血色も元通りだ。


冷蔵庫にある納豆と豆腐の賞味期限を確認し、残り一つの卵をフライパンに割って落とした。冷凍庫を明け冷凍ごはんをレンジに投げ込み温めると、丼ぶりに全て突っ込み醤油とごま油を一かけして立ったままかき込む。


「うっま!」


何も考えず、ただ目の前にある丼をかきこみ、胃が満足すると勇気とやる気が湧いてきた。


ここからの春の行動は早かった。4か所に履歴書を送り、面接を受けに行った。


一つ目は、靴メーカ。ここは、一次審査から落ちて面接すら受けてもらえなかった。

二つ目は、文房具の部品を製造する会社。残念だが、面接での周りの圧に押され不採用。春はこの時初めて文房具オタクを目にした。

三つめは、インテリアの家具を販売する本社の受付嬢。面接まで行ったが、やはり27歳は受付嬢にしては歳が行ってるようで周りは全員、大学を卒業したばかりの初々しさを持つ女性ばかりだった。

四つ目は、ジュエリー会社。ここも事務員の若い女性が多いようでまた不採用。


北原春の2週間はあっという間に惨敗で終わった。スーツ姿に長い黒髪を後ろできっちり締めた春は夏の暑さと自分がもう若くないのだと実感した。


「まだ30まで三年もあるのに…」

その言葉は独り言であり、夕方の歩道橋に人影はないので誰も春の言葉に「お前はばばあ目前だぜ」なんていう人はいない。


歩道橋の階段を下ろうと手摺りに手を突いたまま進むと、階段の最初の段にうずくまっているおばあちゃんがいた。

急いで駆け下りた春は、おばあちゃんの背に手を置き覗き込んだ。


「おばあちゃん。大丈夫ですか?具合悪いんですか?」


春が話しかけると切りそろえた短い白髪のおばあちゃんは顔をあげて、にっこりと笑った。

「ええ、大丈夫ですよ。少し、疲れてしまったの」


春は自身の鞄から帰る途中に買ったポカリのキャップを捻り、おばあちゃんの手に握り込ませる。


「おばあちゃん、これ飲んでください。今日は暑かったから熱中症になりかけてるんだろ思います」

「ありがとう」


おばあちゃんは春のポカリを大事そうに両手で持った。ごくりごくりと何度か分けて飲むと、ポカリを春に返す。


「ありがとう。若いお姉さん。とても助かりました」

「いいえ、大変な時はお互い様です」


春は、久しぶりに優しい気持ちになった。だいぶ前から座り込んでいたように見えるが、誰一人おばあちゃんを助けようとしていなかった事には怒りを感じるが、顔色が良くなったおばあちゃんを見たらそんなことはすっかり頭からなくなっていた。


「あの、良かったら荷物持ちます。まだ、具合悪いと思うし、このまま一人で帰られるのは危ないと思うし…」


普段の春なら、人を助ける余裕も時間も無かったが、面接は全て落ちてこの後の時間は有り余っていた。しかし、初めての人助けをしようと声をかけたが恥ずかしくなり段々声が小さくなる。


おばあちゃんは照れて顔を引いている春をジッと見てにっこりと笑った。


「助かるわ。お願いします」

おばあちゃんはそう答えると、手摺りを使ってゆっくりと立ち上がった。着物を着ているせいか小柄で痩せ形のおばあちゃんでも可憐で古き良き日本を感じる。春は自身のバックを肩に掛けなおし、おばあちゃんの足元にある風呂敷を持ち上げた。


ずっしりと重いそれは小柄のおばあちゃんが持つにはだいぶ重い気がする。


「お名前をお伺いしてもよろしいですか?」


幾分も年下の私に丁寧な口調で言うおばあちゃんだが、全く堅苦しくなくて逆におばちゃんの優しさを増長させた。


「北原春です」

「春ですか。素敵なお名前ね。もしかして、春生まれかしら?」

「はい」


春は自身の誕生日で、そう経ってない悲しい気持ちを思い出した。姉の三月の事を。


「そうですか。私の名前は桜子(サクラコ)と言うのよ。お揃いね」


おばあちゃんは、小さな手で口を隠しほほほと笑って見せた。


「私この名前が大嫌いだったの」


昔の思い出話を始めるおばあちゃんの顔は、言葉とは裏腹にその時を懐かしみ、変わらず優しい笑顔のままだ。


「どうしてですか?」

「学校の男の子が私の事を桜子餡子って呼ぶのよ。酷いでしょう?おいしそうだっていつも言って、当時お気に入りだった赤いビー玉が付いたゴム紐を盗んでいくの」

「好きな子をいじめる小学生ですね」


思ったことを素直に口にした春に、怒ることもなく静かにクスッと笑ったおばあちゃんは、そうねと言って続けた。


「でも、必ずその日のうちに返してくれるんです。私も悪い気はしなかったわ。あの時は私も彼の事が好きだったからかしら」


ふわふわの綿菓子に包まれているようなそんな思い出だ。


「素敵な初恋ですね」

「ええ。でも、厳しかった父が彼と仲良くするのを許さなかったわ。だから、偽名で葉書のやり取りはしてたけれど」


おばあちゃんは言葉を止め、一度立ち止まり春を見上げたので春もおばあちゃんに向き直った。するとおばあちゃんは風呂敷を優しく撫でて悲しそうに笑った。


「彼、一年前に亡くなったの」


おばあちゃんの笑顔は、春が会社の同僚や上司、後輩に何でもないという風に笑うそれと同じように見えた。


「悲しかったですか?」

「悲しい…。悲しいという一言では言い表せないのが人の心でしょう。誰かが亡くなって涙が出る人と出ない人がいるけれど、私は出なかったの」


おばあちゃんはハンカチで自身の額の汗を抑えるとまた歩き出した。


「心は空っぽで涙が出なかったの。心臓はしっかり痛かったわ。痛くて痛くて痺れる位で、感覚が麻痺してしまったようでした」


どうしてか春にはおばあちゃんが自分の姿と重なって見えた。


「今も痛いですか?」

「ええ。人は忘れる生き物だと言うけれど、そんなに簡単には大切だと思う人が亡くなった悲しみは消えないわ。でも、今は彼との思い出が私の生きる支えになっています」


(私もいつか、そう思えるだろうか)


「あら、もう家の近くだわ。ここで大丈夫です。ありがとう」


春は、おばあちゃんにどうしたらそうなれますかと聞こうとしたが、もう家についてしまったようだった。


「重いのに大丈夫ですか?」

「大丈夫よ。ここを曲がれば直ぐに家なの。本当にありがとう綺麗なお嬢さん」

「い、いえ。こちらこそ。お話とても良かったです」


春は、初めてお嬢さんと言われて少しドキリとした。




サクラの季節になったような温かいものを心に感じた。






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