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彼女との青い思い出

作者: 古川まこと

 ―――彼女との出会いはその浜辺だった。


「こんにちは」


 ―――黒いセミロングの髪は、潮風の香りをまとわせ軽やかに踊っていた。


「良い天気、ですね」


 ―――白いワンピースが、まるで天使の羽を思わせるくらいに眩しかった。


「こんな日は、なんだか懐かしくなります」


 ―――彼女は、…そう。笑っていた。



 *


 今年で28になった。

 車で一時間と走らせれば、俺の母親の馴染みの病院があり、そこで二歳年下の妻と娘が待っている。

 一体俺は、何をしているのだろうか。

「ねぇ、何ぼーっとしてんの?」

「え?」

 俺は思想に耽る頭を無理やり現実に引き戻した。

 顔を上げれば、前を行く彼女が柔らかく微笑んでいた。

「何か思い悩むことでもあったの?」

「そうじゃ、ない・・・」

 言葉を濁らす俺に、彼女は面白そうにくすくす笑って「そうなんだ」と言った。

 その言葉と、彼女の可愛らしい笑顔に俺は頭を掻いた。

 まだ成人していないであろう彼女。

 出会ったのはいつの話か。そんな事も忘れてしまいそうなくらい、彼女は俺になついていた。

 “なついていた”という言い方はおかしいと自分でも思う。だが、今日出会ったばかりである事を考えると、どうしても“なついている”という言葉が出てしまう。

 もうこの際、なついているかいないかの話はどうでもいいだろう。

 問題は今日出会ったという事だ。

 なぜ彼女は今俺と居る?

 そして俺もそれをなぜ許している?

 こんなこと妻に知られたら、大惨事になるだろう。

「なんで困った顔してるの?」

 まただ。

 俺は無理矢理に思想から抜け出し、顔をあげた。

 すると、真っ黒でそれでいて透き通ってるような、まあるい瞳が俺の前にあった。

「わ!」

「そんなに驚かなくても」

 くすくすという彼女の笑い声は、まるで波に転がる小さな桜貝だ。

「そりゃ驚くだろ」

 俺はいろんな思いを込めて溜息をつく。

「ねぇ、それより、日差しが強くなってきたからどこかで休もうよ。私アイス食べてみたいんだ」

 それよりとは随分なもの言いだ。

 驚かせたのはそっちであろうに。

 だが俺はもう30近い大人だ。彼女のそんな気まぐれも、この真っ青な海に流そうじゃないか。そんなことを思いながら、俺は彼女の会話に付き合い続ける。

「食べてみたいだなんて、まるで今までに食べた事がないみたいな言い方だな」

 からかうように、呆れるように。自分でもどちらかは分らない。だがどちらでも良い。思ったことを口にして、ななめ前を歩く白いワンピースを見た。

 彼女はひらりと足を止め、にこりと笑い小首をかしげる。

「初めてだよ?」

「は?」

 俺はきっと、目を丸くしてだらなしなく口を開けていたことだろう。


 青いソーダーアイスが、風鈴の音に紛れシャリシャリと音をたてていた。

 小さな海の家は、俺と彼女と店主の婆さんだけ。

 素晴らしい海日和ともいえる風景を、俺を含むたった3人が満喫していた。

 これは貸し切りともいえる人気のなさだった。

「昔は子供たちが沢山遊びに来たんだけどねぇ。親子連れやらカップルやらで。最近はめっきり人が減って、…全く。今どきの若いもんはどこで遊ぶって言うんだろうね」

 俺たちがアイスをほおばっている後ろで、ここの店主はそんな事をこぼしていた。

 どこで遊ぶって、今ならテレビゲームやパソコンがある。きっと子供たちにしてみれば、こんな塩臭い水につかって体を焦がすより、涼しくて快適な室内にこもって平べったい画面に向き合っていることの方がよっぽど楽しいのだろう。

 まぁ、こんな田舎、里帰りからは少しずれたこの時期、人がいることの方が珍しいのだろう。

 ぼと、っという音とともに、隣から「あっ」という小さな声が聞こえた気がした。

「あ〜あ。落ちちゃったね」

 見れば、青いアイスが俺の足下で半分液体と化していた。

 彼女はいつの間にか自分の分をきれいにたいらげていた。

「アイスおいしかったよ。ごちそうさま」

「どーも」

 彼女の笑顔がまぶしい。

 俺は自分の足もとに消えていくアイスの残骸に、足で砂をかけながら思い出す。

(そう言えば、あいつとも昔、ここでこうして一緒にアイスを食べたっけ)

 懐かしい思い出。

 数年前の、妻との思い出だ。まだ結婚する前の、青春とも呼べるやわらかくて暖かい思い出。

 妻のくすぐったい笑い声が耳の裏によみがえった。

 ―――潮風って、なんかおいしそうな匂いがする。

「ねぇ、」

 声に呼ばれ、俺は隣に座る彼女を見た。

 彼女は海を眺め、眩しそうに眼を細めてこういった。

「潮風って、なんかおいしそうな匂いがする」

 寄っては引いてく波の音と、たまに聞こえる海鳥の声。

 遠くに見える入道雲と、白くくっきりと浮かぶ飛行機雲。

 キラキラと光る水面を見つめ、俺はあのころを思い出し、小さく微笑んだ。

「―――そうだな」

 あの頃と同じ返答を彼女に返し。


「あのね、花火・・・してみたかったんだけど」

 遠慮気味な彼女の声に、俺は隣へ視線をやった。

 そこには小さくうつむいた彼女の頭。

「してみたかったって、まさかまたやっと事無いって奴か?」

「・・・ぅん」

 彼女はこくりとうなずく。

 夜までまだ日は長い。そんな事を思って、俺はある事に思い当たった。

 一体いつまで俺はこうしているつもりだったのだろうか?

 そう。俺はいつまで彼女と居るつもりだったのか。今日初めて会った女性と、なぜこうも俺はなじんでしまっているのか。

「どうしたの?」

 突然足を止めた俺に、彼女は不思議そうな視線を向けた。

「い、いや。・・・妻に知られたら、と思ってね」

 俺は苦虫を噛むようにそう言う。

 彼女はその言葉を聞くと、パチリと目を瞬き、一拍置いて「ぷっ」っと噴き出した。そしてくすくす、くすくす、と笑いだす。

「大丈夫。大丈夫だよ。**は、***の事キライ?」

「まさか!好きだ!」

「愛してる?」

「ああ!」

「そっか、そっか。ふふ、ふふふ、ありがと」

 くすくす、くすくす、と彼女は楽しそうだった。

 なぜ彼女にお礼を言われなきゃいけないのか、全く理解できなかった。それとともに、胸を張って“好きだ”とか“愛してる”という言葉を口にしたことに、少しの恥ずかしさを覚えた。

 俺はどうしたものかと彼女を見る。

 本当に楽しそうだ。そしてどこか嬉しそうにも見える。

 彼女は、ひとしきり笑うと、満足そうに「ふぅ」と息をついて、俺を見上げた。

「ごめんなさい。私の我儘につき合わせて。でも、あと少しだけ付き合ってほしいの」

 俺は「はいはい」と疲れたように頷き、彼女はまた面白そうに小さく笑った。

 次は勿論、花火だろう。


 ぱちぱちとカラフルな火花が飛び散る。

 真昼の花火。なんて滑稽な図だろう。

 それにも関わらず、彼女は夢中でその火花を眺めていた。

「きれいだね」

「…そうだ、な。昼間の花火も悪くない」

 これは嘘ではない。

 滑稽であると思う。だが、夜に見るのとは違う表情があり、これはこれで見ものだった。

「ねぇ、」

 彼女が俺を呼ぶ。

「花火の煙って、」

 いつかの妻の声が蘇る。

 ―――いろんな色に光るんだね。

 彼女の声が記憶の中の声とリンクした。そしてダブった。

 俺の持っていた線香花火が、ぽとりとその朱い玉を落とした。

「………それは、ただ、花火の光が当たってるだけだろ」

 少し間を置いたものも、俺の声は平常を保ってそう言った。

 だが、言った内容は、あの頃と全く変わってはいなかった。

「そっか、」

 彼女は微笑みながら花火を眺める。

 日はまだ高い。


 花火をすべて使い切り、日も少し傾いてきた。

「ねぇ、あっち行かない?」

 彼女が指さすそこには、丸太がいくつかひもで縛られて寝かされていた。

「あそこは、」

「どうしたの、行こう!」

 楽しそうに駆けて行くワンピースを目の端に、俺は不思議な気分に頭をぼんやりとさせられた。

 今日は一体どうしたのだろう。

 知らない彼女と一緒に浜辺を散歩し、アイスを食べ、花火をし、昔を思い出し。

 彼女は一体どうして俺と居るのだろう。

 俺はどうして彼女と居るのだろう。

 彼女といると、どうして落ち着くのだろう。


 ざー…ざー…、っという波の音に、丸太に腰掛けた俺と彼女は耳を預けた。

 心地のいい、青のメロディー。

 さー、っと吹き抜ける風に、彼女の髪が軽々と揺れた。

 左の首筋が露になり、耳の下に小さなほくろを見つける。

「前も、ここでこうしたの覚えてる?」

 彼女の問いの意味がわからなかった。

「前も、ここにこうして座ってた」

 眩しそうに海を眺める横顔。

 俺は妻以外の人間と、ここでこうして座った覚えなどなかった。

「覚えて、るよね?」

 俺の脳裏に、懐かしい浜辺の音色が響き渡る。


 *


 いい天気だった。

 青い空に浮かぶ、白い入道雲。

 隣にはあいつが座り、2人で静かに海を眺めた。

 相変わらず静かな浜辺で、日曜だというのに誰もいなかった。

『ねぇ、』

 あいつは俺の右手を取り、そっとその手を―――


 *


 そうだ。

 いたではないか。

 あの時、確かに俺と妻以外にもう一人いた。

 だが、その人物がここにいることはあり得なかった。

 そうだ。ありえない。

 俺は今一瞬頭に浮かんだ考えに首を振る。

 そんなはずはない、と。

 だって、俺はまだその人物に会った事もないのだ。俺だけじゃない。だれもその人物にはあったことなどないはずだ。

「ねぇ、」

 隣から彼女が呼びかける。

「覚えてるでしょ?」

 彼女はほほ笑む。

「あの時、初めて貴方が私に触れてくれた」

 俺はこの言葉にぴたりと思考を止めた。

「いつも、あの人が撫でてくれる手とは違う、温かくて、大きな手。堅くて、たくましくて、でも、どこか怯えてて」

 潮の香りと、暖かな大砲の香り。

「まるで触ったら壊れちゃうみたいに、私の事をなでるの。とっても優しくて、穏やかなにおいがした」

 深い海底から眺める太陽は、淡く輝き、ゆらゆらと揺れる。

「とっても気持ち良くてね、あの人の子守唄も大好きだった」

 彼女は幸せそうにほほ笑んでいた。

 俺の横で。

 まっすぐ前を向いて。

 幸せそうに。

 嬉しそうに。

「毎日、毎日、空きもせずに話しかけてくれて。貴方も、あの人も、とっても大好きだった」

 俺はもう考えることをやめていた。

 ただ、純粋に彼女の話だけに耳を傾け、気持のよい初夏の香りに、そっと目を細めた。

「本当に大好きだったから、もっと一緒にいて、もっといろいろしたかったから」

 「ねぇ、」と彼女の呼びかけ。


「お父さん、って呼んでもいいですか?」


 俺はそっと微笑んで、彼女の頭に手を乗せた。

「もちろん」

 彼女のまなこから涙が溢れだす。それでも微笑みをやめようとしない。

 あいつに似た真黒な瞳。あいつに似た二重の瞼。あいつに似た少し赤みのある頬。

 今思えば、彼女が誰なのか、答えは見るからにそろっているではないか。

 彼女は涙にぬれる頬をぬぐおうともせず、向日葵を思わすような笑顔でこう言った。


「ありがとう、お父さん」


 白いワンピースは、潮風にかき消され、俺の前から消えた。



 *



 静かな病室。

 医師は俺たちにこう告げた。

『お子さんを産めば、奥さまは間違いなく命を落とすでしょう』と。

 妻が選んだのは、“彼女”の誕生だった。

 だが、“彼女”が生まれることはなかった。

 流れた子供。左の耳の下。俺は確かに小さなほくろを見つけた。

 なぜだろう。

 そこでようやく、涙があふれ出てきた。


「声が聞こえたの。『ありがとう』って」

 彼女は呟く。

「こんなはずじゃ、なかったのにね」

 窓から差し込む日差しに、彼女の頬を伝う滴が光った。

 涙を流しながらも、微笑むことをやめようとしない姿は、“彼女”の事を思い出させた。

「あの子、私をお母さんって、呼んでくれたの」

 白いカーテンがふわりと揺れる。

 日差しに透けて、あわく光を宿す。


 海の音が小さく聞こえた。

 昼間だというのに、花火の音が聞こえる気がする。



最後まで呼んでくださった方、本当にありがとうございます!

こんなありきたりな話ですが、感想、批評等頂けたら嬉しいです。

でわ、お目汚し失礼しました。

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