賭け
「雷蔵!あの餓鬼二人知らない?」
「永久と翊鎖?知らないけど」
「あの二人、また逃げたわ」
紅をささずとも赤く潤んだ唇を尖らせ、料亭の玄関口を見つめる鶴霧は、深く長い溜め息をついて厨房の台に寄り掛かった。
捲った袖から伸びる細くしなやかな白い腕を組んで、店に出す料理の下ごしらえをしている雷蔵を険しい顔で眺めながら、「あの悪餓鬼共、もう中に入れてやらないんだから」と雷蔵にも聞こえる声で呟くと、体から怒りを放出させながら店へと戻っていった。
「怒ってるだろうなぁ、女ってあんなに恐いものなのか?」
両脇に並ぶ建物を好奇心の目で忙しく見回しながら大通りを進む翊鎖の言葉に、隣を歩く永久が頭巾の内側で笑みを浮かべた。
「さぁ、でもお前の兄貴の方がよっぽど恐い」
「ハハッ、兄貴は怒鳴らないからな…、あっ!!甘味処だ!永久、寄ろうぜ!」
服の裾をグイグイと引っ張って甘味処へと無理矢理行こうとする翊鎖を引き寄せ、諭すように鼻をつまむと、永久は見えない口を動かして小さな声で言った。
「市と呼べと言っているだろう、いい加減慣れろ」
弾くように翊鎖を離すと、永久は甘味処へは寄らずにそのまま大通りを進み始めた。
「難しいんだよ…。なぁ、寄ろうぜ?あそこの団子が上手いって客が話してたんだよ」
「無い」
「え?」
「もう金が無い」
小走りで追い付いた翊鎖に、永久は振り返らずに言った。
「何でだよ!鶴…、朝音から小遣い貰ったじゃねえか」
「それは、もう何日も前のことだろ」
「う゛〜」
「…戻るか?手伝って小遣い貰って…」
分かり易くぶすくれた翊鎖に話していた永久は、何かに気が付いたように言葉を止めた。
「市?おい…」
「仁、竹刀を振るう音が聞こえる!」
喜びを含んだ声を上げて聞こえない音の方へ顔を向けた永久は、翊鎖に「行こう」と告げると、引き寄せられるように歩き出した。
大通りを横切り、畑道を進んでいくと、くっきりと木々が左右に分かれた間に石段が三段階になって聳えていた。
「こっちで合ってるのか?」
「任せろ」
見えない笑みを浮かべる永久に続いて分厚い石段を登って行き、一段目と二段目を登り終えると、翊鎖は力尽きたように階段の踊り場に寝っ転がった。
「あと少しだぞ」
口元の頭巾をずらした永久が言うと、額に汗を流し胸を上下させる翊鎖が叫ぶような口ぶりで言った。
「もう無理だ!お前一人で行けよ」
「…いや、いい。……下りるか?」
目は上を、耳は竹刀が空を裂く音に向けたまま永久が呟いた言葉を体を起き上げて聞いた翊鎖はため息を吐き、まだ整っていない息のまま石段に足をかけた。
「お前の小遣い、全部俺が使うからな!」
「好きに使え」
上を睨みつけて上がる翊鎖の横顔に微笑みかけながら、永久も蒸し暑い頭巾を整えて階段を進んだ。
へばる翊鎖よりも先に上へと着くと、そこは石畳が二手になっており、一つは真っ直ぐ先に続いておりまた上に階段が伸びている。
もう一つは右に向かって伸び、道には傍に生える木々が覆い被さっていて先を見ることは出来なかった。
「…」
「はぁぁ、疲れたー」
膝に手をついて石畳に汗を落とし、体を仰け反って空を仰いだ翊鎖は一息ついて顔を服で拭った。
「で?音の場所は……っげ!?何だよ!まだ階段があるじゃねえか!まさか、登るなんて言うなよな!」
大きな猫目を丸くして驚く翊鎖に、頭巾の若者は真横に続く木々が被さった道を指差した。
「こっちだ」
まだ昼前のはずなのに進む道は暗闇のようだった。
だんだんと陽が見えるようになってくると、周りにあった木々が捌け、大きな屋敷のような建物があり中からは威勢の良い声が聞こえてくる。
「ここか…」
「そうみたいだな。仁、水が湧き出てる」
敷地の隅の方に石が複雑に積まれた場所があり、曲線を描いた水がそこから湧き出して石で出来た水瓶のようなものに潜り込んで広がっている。
絶えず湧き出る水を受け入れても、溜まった水は溢れることなく保っている。
「飲めるか?」
「あぁ、奇妙な匂いもしない」
歓喜の声を上げた翊鎖は貪るように水を口に含んだ。
充分に口を潤した翊鎖は水を顔から浴び、首を振って水気を払うと長い前髪をかき上げた。
永久も少量口に含んで潤すと、絶え間なく聞こえる声のする屋敷に近づいた。
屋敷の横側へと回ってみると、稽古場の戸は開いており中の様子が丸分かりだった。
何列にも並んだ門下生が竹刀を振るい、威勢の良い声を上げて何度も同じ動きを繰り返していた。
「ぉお!籐桐にもあったんだぜ?道場」
「へぇ…」
「俺らより強い奴はいなかったけどな」
「まぁ、そうだろうな…」
「……ん?」
聞き返した翊鎖の言葉に、永久は稽古を受ける門下生達を眺めたまま目を逸らすことなく答えた。
「お前ら兄弟は強いからな…」
「でも、お前の方が強いだろ」
「……なぁ、仁ー「おらぁぁぁ!!もっと声をだせぇぇぇ!!」
永久の言葉を遮った怒声が、辺りを囲う森の中にまで響き渡った。
その声の方へ顔を向けると、開かれた戸が集まった場所から、大柄の屈強そうな三十代の男の後ろ姿が現れた。
竹刀を肩に乗せた男は、戸の近くにいたまだ幼さの残る少年に近寄ると、手にしていた竹刀を彼に向けて振り下ろした。
バシィィィッッッン!!!!!
竹刀は少年の肩に思い切り当たり、悲鳴と痛みに顔を歪めながら、その場に崩れた。
その惨劇には目もくれず、周りの青年達は自分も彼の二の舞にならないようにと、竹刀を降り続けている。
「何て奴らだ」
翊鎖の言葉に永久も頷いて同意を示した。
「おいっ!!起きろ!!」
男は涙を溜めてうつ伏せに横たわる少年の腹めがけて、足を振り上げた。
「……っ!!……え?」
痛みに備えて固まっても、男からの衝撃がなかった少年は固く瞑った目を開いた。