松の以前
「この文は、松殿が私宛に書いたものです。松殿はご自分が毒に侵され、死が近いことを勘付いておられたのでしょう。この文には、ご自分が死んで、残された皆様についてのことが書かれております」
「じゃあ、風蔵という姓は、松さんからの置き土産ということでしょうか」
「ええ、おそらく」
死が近い人間があそこまで平然としていられるのだろうか。
翊羽の後ろで話を聞いていた永久は、松の見せない微かな異変に気がつかないでいた自分を恥じた。
「ふっ、役立たずだな…」
誰に言うでもない永久の小さな笑いと漏らした呟きは、隣の座る翊鎖だけの耳に微かに聞こえていた。
「じゃあ、籐桐様からの任務ではなかったのか」
「前々から、松殿との文通でお二人のお話を聞いておりました。本当は松殿に呼ばれた際に、永久と一緒に籐桐へ赴くはずでしたが、店を空けるわけにもいかず、しぶしぶここ貝切に残りました」
「…えっと、…」
戸惑う翊羽に、鶴霧が微笑んだ。
「松殿と永久と私の三人は、以前ここ貝切でこの店を開いて暮らしておりました。まぁ、その前は各地を周りながら…色々としておりましたが、ここは落ち着いた土地でしたから私と永久はここに根を張るものだと思っておりました。ですが、松殿はさすらうのが定めだったのでしょう、いつの間にか、ご自分だけで貝切を出て行ってしまったのです。そして籐桐様にお会いした」
「そういうことでしたか…」
話を聞き終え、納得したように微笑む翊羽の後ろから、胡坐をかいた右膝に肘を置いて頬杖をついた翊鎖が口を開いた。
「それじゃあ、俺達はこれからどうするんだ?また籐桐に戻るのか?」
「いいえ、ここで腕を磨けと書かれております。籐桐への加勢が必要とあれば、向こうから使いが来るでしょうし、貝切は腕に自身のある者が集う土地です。松殿に前々から連絡を頂いておりましたので、上の部屋の準備は整っております」
「どうぞ」と案内された部屋は、綺麗に整頓され、今すぐにでも生活できるような状態だった。
「店は夕刻からですので、それまで暫しお休みになられては」
「ありがとうございます。これから、どうぞよろしくお願いします」
襖を閉じるまで、鶴霧は笑みを絶やさなかった。
「本当に綺麗な人だな。どっかの誰かとはまるで違うぜ」
「仮面の美しさにばかり気を取られていると、後で痛い目に遭うぞ」
ニヤニヤと笑う翊鎖に一言言い放つと、永久は窓の桟に腰を下ろし、酷く険しい目付きで外を眺め始めた。
「そういえば、松さんの姓って聞いたことなかったな…」
鶴霧から渡された松からの文に目を通していた翊羽の懐かしむような声色で呟いた言葉に、畳の上で仰向けに寝っ転がっている翊鎖が欠伸をして潤んだ目を擦りながら言った。
「松さん、自分のことは全然話してくれなかったもんな」
「…いろいろ聞きたかったな。…永久は知らないのか?松さんの姓」
折り畳んだ文を仕舞った翊羽が、寝そべる翊鎖にちょっかいを出されてイラついてる永久に声を掛けると、彼は目を泳がせてから小さく『木下』と呟いた。
「木下って、お前が貰った姓と同んなじじゃん」
「…自分が使ってた姓を、松は俺に寄越したんだろ」
翊鎖が驚きでちょっかいを止めた瞬間、永久は十七にもなる悪餓鬼を畳に押さえ付けながら、表情を出さずに言った。
唯一出された永久の伏せた目は、乾いたように冷え切っている。
「そんな言い方するなよ。松さんは永久に姓を受け継いで欲しかったんだよ」
翊鎖に関節技を決めている永久は、翊羽の言葉を聞いて更に力を強めた。
「松は場所によって名を変えていた。…だから、別に『木下』という姓が特別ってわけじゃない」
「素直に喜べよ…あぁぁぁぁぁぁぁ!!!、痛い痛い!」
一段と強くなる力に、翊鎖の顔が痛みに歪む。
「特別じゃなかったら、お前にー「翊羽」
突き刺さるような永久の目つきに、翊羽は口を噤んだ。
泣きそうな表情で痛みに耐えている翊鎖を離した永久は、窓辺へ寄ると、外に目を向けたまま口を開いた。
「翊羽、今日は血が流れる…」
「敵か!!」
喜ぶ翊鎖に視線を向け、しっかりと首を縦に振ると永久は続けた。
「まあ、用があるのは鶴霧にだろうけど、さすがにあの数は相手に出来ない」
「そんなにいるのか?」
「前々から鶴霧にちょっかい出してた奴。ずっと前の土地から付け回してたから、一回松と半殺しにしてあげて分からせたつもりだったんだけど…」
「永久にしてはよく喋ったな」
ニッっと歯を出して翊羽に笑いかけた翊鎖に、永久は腰を踏み付けて黙らせた。
「うぅ〜…。強い奴いるかな?」
永久を見ながら発した翊鎖の言葉に、死にたがりの子供が頭巾の中から笑みを返した。






