第五話
「リシェアオーガ・ルシム・ファムアリエ…ですか。」
ルシェルドとアルフェルトが、旅の準備に自室に帰った頃、リシェアオーガの支度の為に、彼の部屋に残ったフェリスが、ぼそりと言った。
「嘘は吐いていない。神聖語では、私の事を示す。」
「ですが…。」
「心配には及ばぬ。この世界では、向こうの神聖語を知る者はいないし、何の力も無い様だ。…違うか?」
そうですが、とフェリスは続けたが、まだ何か、渋った表情を浮かべていた。
元々神聖語…向こうの世界の神が創り、神殿のみが使う言語には力が無く、只の文字と言葉に過ぎない。この世界でも同じ様で、名乗った時に、何の影響も見受けられない事から、リシェアオーガはそう判断した。
だが、意味を知る者は、それを良しとしなかった。
「私は、何も…その名にしなくても、と言いたいのです。
【ルシム・リュージェ・ファムエリシル】か、【シアエリエ・ラムザ・ルシム】、
【シュアエリエ・ファームリア・シーラ・ルシム】でも、良かったのではないのですか?」
「あまり長いと、貴族の様な特級階級に、思われるからな。
だから敢えて、短い方にした。」
「では、他意は無いのですね。」
他にも、とある御仁への当て付け、という意味はあったのだが、リシェアオーガは、目の前のフェリスを説得する為に頷いた。
仕方ありませんね、と納得するフェリス。渋ったような表情だったのは、その神聖語の意味で、不機嫌になっていた所為だった。
「…但し、私は絶対に、その名前を呼びません。何時もの通り、リシェア様かオーガ様、若しくは、リシェアオーガ様と呼ばせて頂きます。
神の騎士、聖騎士である以上、リシェアオーガ殿とは、呼べませんから。」
強い意志を映した眼差しを向け、微笑ながらリシェアオーガに断言する神官に、彼は苦笑して良いだろうと答えた。
全く…、この神官の忠義には、敵わない。
だが、それすらも喜ばしく思う、リシェアオーガであった。
そんな折ふと、疑問が湧いた。
今、彼が着ている物は、白を基調にした、神官騎士団の服の旅用の物。自分が神の騎士・聖騎士なら、着替えなくて良いのか?と。
その問いに、心配は無いと、フェリスは答える。
神に仕える聖騎士の服装は、基本、神官騎士と変わりない事。
違っているのは、騎士の階級を付ける左肩の飾りと外套の留め具が、仕える神の紋章となる事と、外套の色が神殿の色ので無く、その神を示す色になる事。
つまり、この神殿の騎士の外套は、灰色に近い潤色であるが、リシェアオーガは、ルシェルドの色である、黒紅色のそれを身に纏う。
只、ルシェルドの聖騎士は、滅多に生れ出無い。2・300年に一度、出現すれば良い方だった。
「そんな希少な者なら、かなり目立つのでは無いのか?」
「いえ、少ないからこそ、ルシェルド様の色は、極僅かの神官と聖騎士にしか、知られていないのが現状です。然も基本が、神官騎士服なので、神官騎士に間違えられる事の方が多いのです。」
「つまり、判り難いか。…巫女より、目立たない可能性が高い。」
「そういう事になります。」
成り行きとはいえ、目立たないに越した事は無い。自らの剣を帯刀しようとしたリシェアオーガは、そこに描かれた物が、この世界に実在しているのかを問った。
フェリスはそれに対し、実在してはいないが想像上の動物として、少数の好事家に親しまれている事を告げた。
「まあ、一般的で無いのですが、北方の国では、腕の良い剣士が好んで装飾に用いる事があると、ライジュに聞いた事があります。」
ライジュといえば……確か、神殿騎士団の隊長だと、告げた男だったな…と、リシェアオーガは思い出した。彼がここに来る前に、修行と称して、各地を回っていた事をフェリスは告げた。その際に北の方へも行ったので、フェリスの持つ短剣の装飾の龍を見て、その事を教えてくれたそうだ。
ここの神官は短剣を持たないのに、それを隠し持つフェリスに驚きながら…。
まあ、当然、その理由を聞かれましたが…と、フェリスは付足した。
「短剣を持つ本当の理由は、この世界の神官では無い事でしたが、それを話す訳にはいきませんので、騎士の出である故にその未練と、答えておきました。」
リシェアオーガ達の世界でも、限られた神官しか、所持出来無い短剣。
その神官が一人の神──然も、特定の3神うちの誰か──に仕えるという、証でもあった。勿論その装飾は、仕える3神によって異なるが。
只、リシェアオーガの剣は、様々な種類の龍の文様があり、目立つ事請け合いだった。考えた挙句、鞘の部分だけ、布で隠す事にした。柄にも金と銀の龍はあったのだが、まだ目立ち難かった。
勿体無いと、呟くフェリスを後目に、白い布を強く巻きつけた。旅に出るなら、出来るだけ目立たない方が、良いというのは、リシェアオーガの信条でもあった。
まあ…既に、目立つ御仁が一緒なのだから、余計に目立ちたくないのが、本音である。
支度が整ったリシェアオーガ達の部屋に、支度が出来上がったらしい、ルシェルドが入ってきた。相変わらずの黒尽くめであったが、長い長衣から、動き易い騎士のような服になっていた。
首まで詰まった長袖の、すっきりとした形の黒い中着とズボン、その上には見た事もない文様──四弁の花弁を持つ、一輪の花を中心に蔦が絡んだような円形の文様──が、胸の辺りを赤く彩っている、襟と袖のない膝丈の短い黒の上着。
手足には装飾の全く無い、簡素な黒い長靴と手袋。
そして、それらを覆う、これもまた黒い外套。
相変わらず、闇から出て来たようだな…と、感心しているリシェアオーガへルシェルドは近付き、彼の外套の留め具と、左肩の飾りを付け替えた。
それは、ルシェルドの上着にある、文様と同じ形の物を赤い石──ガーネットみたいな色の石で、紅炎石というらしい──で、作った物だった。
「これは私の紋章だ。一応、私の騎士という事だから、渡しておく。」
留められた紋章を指で辿り、その色を見て、血の色みたいだと、リシェアオーガは呟いた。 これを受けて、破壊神らしいだろうと、自嘲しながらルシェルドは答える。
彼の言葉を聞き、自分に相応しいのかもしれないと、リシェアオーガは神妙に思った。
向こうの世界の、自分に付けられた二つ名を、思い起こす様な色…。
想いに耽る彼を、廊下側の扉をノックする音が、現実に戻した。出発の準備の出来たアルフェルトが、呼びに来たらしい。
「一応、馬の用意が、出来たらしいですのが…。」
問題ありげな言い回しに、フェリスが反応した。
「何か、問題があったのですか?」
「…その…オーガ様の馬なのですが…まあ、来て貰えば、判ります。」
そう言うアルフェルトに連れられ、彼等は、馬小屋に向かった。
近付くにつれ、辺りが騒がしくなって行く…。
最初に目に入ったのは逃亡しているらしく、自由無人に走り回っている、薄いベージュ色の毛並みの月毛の馬であった。周りには、それを捕まえようとする人の群れ…だが、中々に機敏な馬らしく、容易に捕まらない様子だった。
リシェアオーガが、あれがそうなのかと問えば、苦笑交じりの、肯定の言葉が返された。
とんだ暴れ馬らしい。
馬に乗る事が出来るのかと、問うアルフェルトに、リシェアオーガは、出来るとはっきり肯定した。彼には話さなかったが、向こうの世界では、自分の馬がいたのだ。
乗馬が出来る事を確認したアルフェルトは、彼に、その馬の事を簡単に伝えた。
名前はエルムド、この馬しか、乗り手の決まっていない馬がいないという。
風の様に自由に駆け回っている姿は、その馬のプライドの高さを物語っているように見えた。
「エルムド。」
高過ぎず、低過ぎないリシェアオーガの声が、その馬の名を呼んだ。澄んだ美しいそれは、周りの人々は元より、走り回っていた馬まで、その動きを止めた。
手の平を上にした右手を、ゆっくり馬に向かって差し伸べ、おいでと続ける。
当の馬は、真っ直ぐにリシェアオーガを見つめ、何かを確かめたような態度をした後、静かに彼に近付いて来た。そして、差し伸べられた手に頬を預け、甘える様な仕草をする。
リシェアオーガは、その首に腕を回し、優しくエルムドの鬣を撫でた。
「短い間だが、宜しく頼む。」
馬だけに聞こえる様、小さな声を出すと、かの馬は嬉しそうにリシェアオーガの頬へ、自分の頭を摺り寄せる。
この光景に、辺りは更に静まり返っていた。あれ程、人を乗せるのを嫌がった馬が、只一人の人間の、名を呼ぶ声だけに反応し、それに好意で答えたのだ。
「凄いな、そんな特技まで、あるんだ。」
「昔っから、何故か、動物に好かれるんだ。 特技と言われれば…そうなのかな?」
感心したアルフェルトにリシェアオーガは、不思議そうな顔で答えた。実際は、自分の本質だと判っていたが、普通に振る舞う以上、余計な事は言わないようにした。
口は災いの下でしかなかったし、面倒事はなるべく避けたかったからだ。
一方、ルシェルドは、何と無く判っていた。
今まで巫女であった者は、向こうの世界の神の祝福がある故に、全ての生き物に好かれる。
前の巫女達と同じ、【リルナリーナ】という名の、愛と美の女神の祝福を受けた者が、目の前にいる事を再確認した。
まあ、着飾って黙って立っていれば、リシェアオーガも、それなりに美しく見えるのだろう…多分。
本人に自覚は全く無いが。
リシェアオーガの馬が決まったところで、一同の馬が揃った。
ルシェルドのは全体が闇に近い黒の青毛、フェリスのは鬣と尾が黒く、全体が薄茶色の河原毛、アルフェルトのは全体が黄褐色の栗毛、3者3様の毛並であった。
他の3頭が来た時、月毛のエルムドが、リシェアオーガを隠す様に3頭との間に入ってきた。一種の、独占欲の様にも見える行動で、すっぽりと隠された当のリシェアオーガは、仕方無い奴だな…と思い、エルムドに声を掛けた。
「この世界での私の騎乗馬は、お前だけだ。他の馬には乗らない。安心しろ。」
掛けられた言葉を理解したのか、ゆっくりと道を開けるエルムド。
すると、他の3頭がリシェアオーガに近付き、順番に鼻を突きだし軽く彼に挨拶をしする様に、頬を摺り寄せた。
「…ルシェルド様の…あの、気難しいエセオシーオまで…。」
呆気に取られるアルフェルト。
フェリスとルシェルドはというと、その光景を微笑ましく見ていた。
フェリスにとっては見慣れた光景。
ルシェルドにとっては初めて見る、リシェアオーガの優しい微笑み。
慈悲に溢れた笑みに、ルシェルドは、暫し見惚れていた。
再びエルムドが、リシェアオーガと3頭の触れ合いの、邪魔をするまで。
馬の背に各々の荷物を乗せ、彼等は神殿を出発した。
表向き【巫女を捜す事】、本当は【巫女の命を狙う者からの逃亡】の旅立ちであった。
アルフェルトの暇な同僚と、手の空いた少数の神官達に見送られ、彼等は神殿を後にした。
波乱を含んだ旅は、こうして始まりを告げたのである。
取り敢えず、第一章が終わります。
次回からは、第二章に入ります。……まだまだ先は永いです……(^_^;)