第十一話
リシェアオーガは、真っ直ぐ自分の部屋に向かおうとするが、水の気配に足を止めた。
右手に見える庭からする、水の気配。先程来る時は、気にも留めなかった気配。
誘われるままにリシェアオーガは、その気配のする方へ向かう。月は弓の様に細く、微かな光で地上を照らすのみ。
普通の人間なら闇に目を奪われ、歩くのが困難な時刻であるのに、彼の足取りは昼間の様に確かな物であった。
やがて、庭の中腹辺りであろうか、大きな噴水が現れた。その噴水の水面にリシェアオーガは、手を触れた。水は他へと流れいて、常に新しい物らしく、清らかで澄んでいた。
それを確かめると、更に手を沈め、内なる力を込めて、心の中で言霊を唱えた。
『水鏡よ。我が世界の姿を、その身に映せ。』
本来なら、何事かを映す筈の水面は、満面の夜空とリシェアオーガの姿を、映すばかりであった。
何度繰り返しても、結果は同じ。
ティルザが言っていた、【閉ざされた世界】が現実の物だと、リシェアオーガは確信した。
「頼みは、この腕輪だけか………リーナ……届いてるだろうか…。」
右腕にある、金色の腕輪を握りしめ、リシェアオーガは呟いた。
『皆、無事でいてくれ。そうでなければ、私は…この世界を…。』
続く筈の言葉は、リシェアオーガの心の中で儚く消えて行った。
俯く顔、閉じられた瞳は、どの様な表情を彩っているか、誰にも判らなかった。
噴水の傍で、どの位佇んでいたのだろうか、何かの感覚がオーガにある事を伝えた。
顔を上げたリシェアオーガは、溜息と共に呆れた顔になっている。
「ティルザ…あの馬鹿が。やはり、遣りおったか。」
そう呟くや否や、リシェアオーガの姿が、噴水の前から消えた。
後には、何事も無かった様に水は流れ、広い庭に潤いを与えていた。
神殿の裏庭にある、木々の生い茂った所。後もう少しで神殿の外、白い塀の外に出る場所で蹲る者がいた。闇に溶け込んで判り難いが、紅い髪が地面に流れていた。
「ぐ……何で…こん…なこ・・と・・に…。」
息を切らし、言葉にならない言葉が、男の喉を震わせる。細い体からは冷や汗が滲み出て、纏う服を濡らしている様であった。
ふと、その息苦しさから、解放されたかと思うと、体の上から声がした。
「この馬鹿者が。早々に遣りおったか。」
聞き覚えのある、威圧感の塊の声が耳に届くと、男は一瞬にして顔を上げた。見上げて窺えるのは、金髪に飾られた美しい顔、厳しい光を宿す青き瞳。
「どう…して…アンタが…。」
驚きと痛みで、言葉が上手く綴れない。畏れが全身を駆け巡るが、男は対面している人物から、目を離せなかった。
「ティルザ…。一応、生命はある様だな。」
「…ルシム…ラムザ・シアエリエ…。」
恐怖で引きつる声に、リシェアオーガは、不敵な笑みを浮かべた。
「言ったであろう、罰を与えると。私から離れようとすれば、全身に激痛が走る。」
「?!!」
無言で、再び驚愕するティルザ。ゆっくりとリシェアオーガの手が、彼に延ばされた。
彼は咄嗟に、殺されると思い、目を瞑るが、伸ばされた手は、優しく彼の髪を撫でた。
不思議に思い目を開けると、心配そうなリシェアオーガの瞳が、飛び込んで来た。
「馬鹿者。警告は聞くものだ。
無事だったから良かったものの、最悪発狂か、生命を落とす所だったぞ。」
リシェアオーガの言葉に、不穏な気配を感じたティルザは、彼に問った。
「……本当か?」
「私が、気付かなければ…な。」
悪戯な笑みを浮かべた、リシェアオーガに答えられ、ティルザは一気に脱力した。
彼が気付かない訳は無いと、判ったのだ。
忍び笑いを始めたリシェアオーガを前に、ティルザは大きな溜息を吐いた。
相手の方が、一枚も二枚も上手だと、やっと気付いたのだ。
「ちょっと、聞いていいかァ?」
「ん?何をだ?」
「俺、帰り道、分かんねェけど…アンタは分かんのォ?」
「判らないが…大丈夫だ。目印がある。」
と言い終わるのが早いか、リシェアオーガはティルザの服を掴み、一気に飛んだ。一瞬にして、神殿の建物の外から、その内側に移動をする。
着いた先は、部屋の中の様であったが、どの部屋か、ティルザには判断出来無かった。
「オーガ様、一体、如何されたのですか?」
その声にティルザは、どの部屋にいるのか判った。
ここは、フェリスとアルフェルトの部屋だった。見る限り、アルフェルトの姿は無い。
「この馬鹿が、逃亡を図った。
まだ誰にも、気付かれていなかったから、大事にはならなかったが。」
「そうですか…ティルザさんが…。」
フェリスが珍しく、冷ややかな目で、ティルザを見つめていた。
「フェリス、そう責めてやるな。ティルザとて、何も知らずに、巻き込まれた口だからな。」
「何の事だァ?」
リシェアオーガの言い草で、ティルザは何を意味しているのか判らず、それを尋ねる。
彼の質問に、フェリスが答える。
「ティルザさん。貴方は今、オーガ様の従者で通っています。」
「みたいだなァ。」
「ですから、今回の様に逃亡されたら…「コイツに迷惑がかかる。」………いいえ、貴方の身の安全が、保障されません。」
再度、言われた事が理解出来無かったらしく、ティルザは頭を傾げた。フェリスの言葉に、リシェアオーガが続けた。
「つまり、私に迷惑が掛る事は無く、そなたに疑いが掛るという事だ。」
「疑いだァ?」
「そう、神殿に…いや、世界に仇為す者の疑いが…だ。」
世界に仇為す者と聞いて、ティルザは頬を引き攣らせ、不快な表情を浮かべた。彼に取って【世界に仇為す者】と称される事は、不本意極まり無い事。
今取った行動は、そんな輩の仲間だと、思われる事になるものだった。
「俺は……世界に仇為す者の奴等と、つるむ気、ねェ!
あのクソ神の狂信者の奴等と、一緒にされたくねェ!!!」
怒りを露にして、放たれた言葉は、リシェアオーガの返答によって、覆された。
「そなたが思わずとも、我の傍から離れると、疑われる。
だが、我が傍なら、奴らに一矢報いる事も可能だ。」
一矢報いる…その言葉にティルザは、目を見張った。
出来るなら、そうしたい。だが、本当に出来るのかという想いが、心の中を過った。
その胸中を悟ったのか、フェリスがオーガに申し出た。
「オーガ様。アルフェが帰ってくる前に、ティルザさんへ、伝えておきたい事があります。
承諾して頂けますか?」
許すの意味で、頷くリシェアオーガ。それを、笑顔で受け取るフェリス。
ティルザは息を呑んで、彼の言葉を待った。
「ティルザさん。貴方に、伝えておく必要のある事柄があります。それは、オーガ様の事です。」
「…これの?」
リシェアオーガを指さし、尋ねるティルザに、何時もと変わらない微笑を添えて、フェリスは頷き、質問をした。
「食事の時、オーガ様が名乗られた名前を、覚えていますか?」
「確か、リシェアオーガ・ルシム・フェムアリエ…フェムアリエ・ルシム・リシェアオーガだっけ。」
「その意味を、お解りですか?」
頷いてティルザは、答えた。
「一応は…あのクソ神への、当て付けだろうォ?」
「まあ、そうい事にしておいても、構いませんが、オーガ様は、もう一つ、名前を名乗っておいでです。」
「?」
「ルシム・リュージェ・ファムエリシル・リシェアオーガと。」
「!!!ファムエリシル・リュージェ・ルシム・リシェアオーガ!!
な・そんな…大それた事を!!そんな冒涜なんて…」
「冒涜ではありません。真実です。」
フェリスは、【真実】と言う言葉で、ティルザの驚きを、きっぱりと切り捨てた。驚いた眼でリシェアオーガの方を向くと、無言で彼は頷いた。
突き付けられた真実に、ティルザの頭は冷静さを失っていたが、心の隅で、納得している自分がいる事も、認識しているようだった。
「ティルザさん。この世界の方々は、この事を知りません。」
「…他言無用って事か…。」
「宜しく、御願いします。」
フェリスの声に、冷静さを取り戻したティルザは、再びリシェアオーガの方に向き直った。
彼の目の前に腰に下げていた剣を置き、自らの左膝を付き、左手の握り拳を胸に当て、右手の先を地面に付け、頭を垂れた。
そう、前にフェリスがした敬礼の剣士版を、ティルザは、行ったのだ
「知らぬとはいえ、数々の御無礼、申し訳ございません。」
打って変った言葉遣いに、リシェアオーガは苦笑した。
「知らなかったのだから、仕方が無い。
ティルザ、無理はするな。何時もの方が、そなたらしい。」
「…ですが…。」
「そなたの気が、済まないのであれば、今後、手を貸してくれれば良い。
我が望むのは、それだけだ。」
「御意。」
「ティルザ、敬礼はもう良いぞ。それと、アル達の前では、今まで通りでな。
でないと、気付かれる。」
「…承知じゃねェ、わ・かりやしたァ~。」
元の口調に戻ったティルザに、リシェアオーガは、穏やかに微笑んだ。
それで良いと、心の中で喜んでいた。
「俺って、リシェアオーガ様の従者でしたっけェ?」
まだ敬礼を崩さない状態で、ティルザが尋ねた。そうだと頷くリシェアオーガ。
すると、真剣な眼差しを彼に向け、ティルザは再び頭を垂れた。
「我が、不変の忠誠を、貴方へ。その証に、この剣を捧げます。」
そう言うと、敬礼の為に床へ置いた剣を両手で捧げ、リシェアオーガの目の前に差し出した。リシェアオーガは暫し無言だったが、この言葉を真摯に捉え、ティルザに問い掛けた。
「ティルザ、剣士が剣を捧げる事は、自らの一生を、主に捧げる事となるのだぞ。
我で良いのか?」
「彼奴等に、報いる事が出来るなら、本望です。」
帰って来た答えに、リシェアオーガは、剣を受け取らなかった。
不思議に思ったフェリスだが、次に取った行動で納得した。
剣では無く、ティルザの頭に利き腕を置いた。それは、誓いの保留を意味する行動だった。そして、言葉を告げた。
「一時の感情でのそれは、受け取れない。
だがこの先、そなたが本心から剣を捧げる気になれば、その時は受け取ろう。」
「リシェアオーガ様…。」
絶句するティルザに、リシェアオーガは優しく告げた。
「そなたが心から、我を主と求むのなら、我はそれを受け取る。だが、今では無い。
そなたは我を、主として求めていない。助力を求めているだけだ。判るなティルザ。」
本心を突かれて、顔を上げるティルザ。手にした剣に視線を落とし、落胆したかの様に見えた。
「…バレバレか…。」
ティルザの呟きに、当たり前だと、笑いを伴ったリシェアオーガの声が返った。愉快そうな声は、フェリスにも微笑を誘い、釣られてティルザも笑っていた。
そうして、白き神殿の夜は、更けて行ったのだった。




