第一話
山の麓の里では、もう春の景色になっているが、この小高い山の中腹にある、石造りの神殿はまだ春遠い…。
建物や庭の、あちらこちらに雪が残り、そこに住んでいる人々の肌に、まだ寒さを与えていた。
そんな神殿の廊下を、一人の青年が歩いている。年若き神官である青年は、何時も通り、長い廊下を書庫へ行く為にゆっくりと歩いていた。
装飾の全く無い、白い簡素な神官服に身を包み、この世界では珍しい色の、優しそうな紫の瞳と、肩より少し長い薄緑色の髪を持つ青年…。
こんな姿でも生きて来れたのは、彼がこの神殿から外に出た事が無い為であった。
もし、他の場所だったら、今の生は無かったかもしれない。
それ程、この世界での神官の権威は、大きい物であった。
ふと、青年は、何時もより明るい事に気が付いた。
この時期は、早朝でも少し明るくなっていて、灯が無くても歩ける程になっていたのだが、今日に限って、この廊下は真昼の光が照らしたようであった。
青年は急いで、光の漏れる場所に向かう。
そこは【巫女召喚の間】と、呼ばれる部屋だった。もしや、と思った青年は、その中に入る。
床の中央には、召喚の為の魔方陣が書かれてあり、それが光を発していた。光が収まると、魔方陣の上に、一人の人物が倒れていた。
長い金髪を床一面に広げ、旅装束のような服を着た、少年に見える人物であった。
瞳は閉じられており、意識を失っているようであったが、ゆっくりと上下する肩で、命に別状が無い事が判った。
見たところ、怪我も無い様であった。青年は急いで、その人物を抱き上げ、その顔を見た。
「……何故…貴方が…?!」
驚愕の表情が、青年の顔を彩った。しかし、直ぐに元の顔に戻り、少年を別の部屋へと運んでいった。
【巫女召喚の間】は、何事も無かったかのように、何時もの静けさを取り戻していた。
大きな窓から真昼の光が満ちた、こじんまりとした部屋…だが、決して貧相で無い家具で飾られた部屋の、窓辺にある寝台に、少年は寝かされていた。
『…此処は…何処だ?…』
少年が薄っすらと、その青い瞳を開け、周りを見渡した。見たことも無い装飾を施された、白い家具、建物の造り、そして、自分が身に纏っている布類…。
見知っている物は、寝台の傍らにおいてある、自分が持っていた薄茶色の、小汚い皮袋のみ。
少年が着ていた衣服も、何者かによって着替えさせられ、白い寝間着のような物になっていた。
寝かされている寝台から上体を起こし、自分の意識を外に広げた。だが…少年が感じたものは、自分のいた世界ではないという、確証だけであった。
『如何したものか…。』
少年は一人、考え込んでしまった。ここが何処であるか、何故、自分がここにいるのかさえ、判らない状態で、どう行動しょうか…と。
ふと、少年は面を上げ、人の気配がした扉の方に振り向いた。
「御目覚めですか?巫女様。…いえ、リシェアオーガ様。」
そこには、少年を運んだ青年の姿があった。先程着ていた、簡易な神官服で無く、白い布に薄い金色の、蔦の様な植物の刺繍を施され、決して華美ではない程好い装飾の、細い肩口と広い袖口を持つ、神官服を見に付けていた。正式な服・礼服のようであった。
青年は、その姿で両膝を折り曲げ、両腕を袖の中で組み胸前に挙げて、恭しく頭を垂れた礼をしている。
この礼は、ここでの最上級の敬礼の仕方であった。
彼は、少年・リシェアオーガに対して、それを無意識にしていた。
リシェアオーガは、その礼がどんなものか、判らなかったが、青年の言葉に驚いた。
自分の知らない世界で、何故この青年は、自分の名前を知っているのか、自分が普段から使っている言葉と、同じ言葉を使っているのか…と。
リシェアオーガの考えを察したのか、青年は、後者にだけ答えた。
「この世界の言語は、不思議な事に、貴方様の世界と同じなのですよ。」
優しさを含んだ青年の言葉で、納得したリシェアオーガに、彼は持っていた物を渡した。それは衣服であった。
「寸法は合っていると思いますが、着方は御判りになりますか?」
「大体、判る。」
手渡された衣服を広げながら、リシェアオーガは言った。
白いそれは、青年の着ている神官服と同じような装飾を施され、華美ではないが、高貴な美しさを誇っていた。だが、如何見ても、女物にしか見えなかった。
そう言えば先程、【巫女様】とか呼ばれたなと、リシェアオーガは思った。
何の巫女かは知らないが、巫女と呼ばれるのは、大概女性のはず…用意される服は、当然女性物である。だが、リシェアオーガは何の躊躇も無く、その衣服を身に纏い始めた。
それを見届けると青年は、この部屋から静かに出て行った。
着替え終わったリシェアオーガは、青年が退室した事も気に掛けず、再び部屋の中を見回した。
部屋には、頑丈な鉄格子のはまった大きな窓と、青年が退室した扉と…それとは別にあと1つ、窓の左側の壁にも扉があった。
ゆっくりと青年が退室した扉に近づき、その取っ手に手を掛けた。
しかしというか、想像通りというか、それはガチャガチャと音を立てて回るだけで、一向に開く気配は無かった。何時の間にか鍵が掛けられていたのだ。
リシェアオーガはやはりと呟き、今度は窓の左側の扉へと進んだ。こちらの扉も、同じ様に鍵が掛かっていると思い、警戒しながら、その取っ手に手をかけた。
『ガチャリ』と、予想に反して、呆気なく扉は開いた。
リシェアオーガは用心時ながらも、ゆっくりと、その扉の先の部屋に入って行った。
そこは、黒石で作られたらしい煉瓦の壁が一面を飾り、少々豪華な柄の、薄緑の絨毯が床に配置され、簡素なではあるが、しっかりした作りの寝台と家具が納まっていた。
まるで、高貴な囚人を閉じ込める為の、部屋の様だと、リシェアオーガは思った。
先程までいた極普通の部屋と、全く別の雰囲気を醸し出しているその部屋には、さっき会った青年とは別の、一人の青年が佇んでいた。
背が高く、長い腰まである直毛の黒髪と、鋭い眼光の、闇色に近い深い緑の瞳を持つ青年…。
装飾の全く無い、闇色の広い袖口の、長衣のような服に身を包み、何かを考えているかの様に見えた。 ふと、彼の目線が、リシェアオーガを捕らえる。
白い巫女服に身を包んだリシェアオーガに一瞬、驚いた様な目をしたかと思うと、直ぐに悲しげな目へ変わった。
「また…か…。」
と小さな呟きが、彼の口から漏れた。それを聞き留めたリシェアオーガは、青年に歩み寄った。
「またかとは、如何いう意味だ?」
近付きながら問う、リシェアオーガを恐れるかの様に、青年は、ゆっくりと後退りして行く。その行動を、不思議に思った彼は、歩みを速めようとした…が。
「それ以上、私に近付くな!…でないと……。」
と言い終わる前に、青年の態度が一変した。今まで逃げ腰だったのが、リシェアオーガに向かって突進して来たのだ。
不意を突かれたリシェアオーガは、青年を躱す事が出来ず、飛びつかれた勢いで、壁に激突してしまった。
リシェアオーガの右の耳元でバキ、ボリ、と咀嚼の音が響いた為、自分が如何いう状況に置かれたか、咄嗟に判断出来た。
そして、事もあろうか、自分の右肩に喰らい付いている青年の頭を、力任せに引き剥がしたのだ。
『バキ・ボキ・ベキ・ベキ…バリバリ…』
骨や肉が引き千切れる、嫌な音が、部屋中に響き渡る。
獲物から、引き離された事に気付いた青年は、再びリシェアオーガに、喰らいつこうとしが、
あまり手加減していない、リシェアオーガの足蹴りを喰らい、逆に反対側の壁へと、吹き飛ばされていた。
自らの傷から流れる、大量の血が、部屋の絨毯を紅に染めて行く中で、リシェアオーガは、巫女の意味を悟った。
【生贄の巫女】…咀嚼される為の巫女。自分がその巫女に、選ばれたのだと。
流れゆく血によって、リシェアオーガの息は、徐々に荒くなって行き、その音だけが、自身の耳に届いていた。
焼け付く痛みから、反射時に無傷の左手で傷を押さえ、少しでも血の流れを止めようとする。
そんな折、廊下側の扉の辺りから、足音が聞こえてきた。ドタドタと急いで走ってくる大勢の足跡と、微かに聞こえる、先程の青年の叫び声。
勢い良く開け放たれた扉に、あの青年神官の姿があった。 彼の目に、最初に映ったのは、右肩からドクドクと、大量の血を流し続けているリシェアオーガの姿だった。
何が起こったか、直ぐに悟った青年神官は、後からノコノコと、やって来た老神官達に向かって、怒鳴りつけていた。
「貴方々は、何をやっているんですか!! もう少しで、大変な事態になる所だったんですよ!」
だが、床を血で染めているリシェアオーガの姿は、既に【大変な事態】が起きていると、思わせた。
老神官達は、『生贄の巫女が決まった。』、『前代未聞じゃ!男の巫女か?!』等、口々に言ってざわめいていた。
その声を聞いたリシェアオーガは、耳障りだと、思っていたが、この場に蹲った状態のまま、立ち上がる事も、彼等を叱咤する事も出来無いでいた。
それもその筈、流れ続ける大量の血液、骨が見え隠れする右肩の傷、しかも、リシェアオーガの呼吸は、かなり荒々しいものになっていたのだ。
彼の様子は、誰が見ても、もう生命の灯火が、薄れつつある様に映った。
そんな彼に、神官の青年は駆け寄った。
青年の、大丈夫ですか?という問いかけに、儚い微笑を浮かべ、
「大…丈夫…だ。」
と、消えそうな声で答える。その時、リシェアオーガに蹴り飛ばされた青年は、気が付き、彼の酷い姿を目にした。
驚き慌てた様子の青年は、ゆっくりと、リシェアオーガ達に近付いて来る。
「私は…取り返しの付かない事を…して…しまった…。」
落胆を含んだ小さな呟きは、リシェアオーガと若い神官の耳に届き、彼が正気を取り戻した事を知らせた。
リシェアオーガの傍に近寄った青年は、血の気が失せた彼の顔を見つめ、止血をしようと、自らの着ている黒い衣装を引き裂こうとした。
「心配…ない…直ぐに…治る…。」
言葉とは裏腹に、そう思えない姿のリシェアオーガが、口を開き、静かに両目を閉じる。
すると、傷を抑えて血染まっている左手と、床から紅い色が消え、酷かった傷も見る見る間に無くなっていった。
「治癒が出来るのか…。」
傷を負わせた張本人の青年は、再び驚きながらも、安堵の声で言った。それに頷き、答えたのはリシェアオーガでは無く、神官の方であった。
「この御方は、治癒の力を御持ちになっておられます。ですが、あまり御無理をさせたくはありません。」
自分の事を良く知っている青年神官に、リシェアオーガは、もう疑問を持たなかった。何故なら、リシェアオーガの右腕にある金色の、極小さな装飾文様の施された腕輪と同じ物を、この青年神官の左腕に見つけたからだった。
『そういう事か…。』 と、リシェアオーガは思った。
立てますか?と問う神官に、首を横に振り、連れて行くように促す。
「傷は癒えたが、思った以上に力を使い過ぎた。済まぬが、連れて行ってはくれないか?」
そう言って、青年神官の方に両手を差し出しだすと、その手に導かれるままに彼は、リシェアオーガを腕の中に抱き上げ、彼を隣の部屋に運んで行った。
彼等の背を闇色の髪の青年は、静かに見送った。
そして、彼等が自分の部屋から去った後、小さな呟きを漏らした。
「また…この時が来るのか…。…もう…来なければ…良かったのに…。」
彼の声は静かな部屋に溶け込み、消えていった………。