サザエ
その青年は流されていた。
周囲に――人生に。
つめたい、光のない所を転がっていた。
それでも、寂しくはなかった。
――お喋りをする相手がいるのだから。
「このままじゃいけない」
等と思わなかったから、気楽だった。
誰かに会う――そして次。
たまに、誰もいない時がある。
それでも、遠くから、おしゃべりが聞こえる。
それに耳を澄ましているだけで、楽しかった。
たまに、怒りをおぼえることもあった。
それでもそれは、人生に対する不満ではなかった――なぜなら、遠ざかれば、和らいだから。
――感情が根絶されることなどないのだが。
ある日、さまよっていると、会った。
――とても、うつくしいモノ。
ただ、それは動かない――返事をしない。
青年は、いろいろ、試した――結果は同じだった。
最後に、
「残酷だ!」
と、とげとげしく、なじった。
しかし、それは何も言わない。
だからただ、悲しんだ。
そして、青年は自分に蓋をした。
青年は動き続けなければならないから、別れの時が来た。
最後の最後まで、うつくしいモノは沈黙を崩さなかった。
流され続ける人生の中で、青年は、いろいろなモノを見た。
それぞれとの出会いは楽しく、不快であった。
そして、たまに、思い出す――あの、うつくしかったモノ。
再び出会うことを求めていたが、その様な機会は与えられなかった。
ある日、青年が目覚めると、
「からだが浮かび上がっている」
青年は、そこまでの高みに来たことはない――しかし、さらに上昇する。
ふ、と隣りを見ると、同類がいた。
浮かび上がりながら、おしゃべりをする。
とても楽しかった。
青年は、楽しい原因が、おしゃべりをする相手の性格にあるのか、浮かび上がることにあるのか、わからなかった。
しかし、
「楽しいことには変わりはない」
結局、その相手と結ばれることになった。
そして気づく。
「からだが乾いていく」
そして、地に足がついた。
青年はその日、腹を空かせて帰宅した。
パートナーは笑顔で迎えた。
「今日の献立は、サザエだよ」
ごはんと味噌汁の椀のそば、サザエが、ころん、と一個、転がっていた。
出来立てなのか――汁が口から滲んでいる――沸騰している。
爪楊枝で蓋をあけようとする――が、簡単にはいかない。
あいて中身を取り出した時、青年は思い出す――むかし出会った、うつくしかったモノ。
早速、食べてみた。
青年の初恋は、<サザエのつぼ焼き>である。
大部分は黒く、にがい内臓で――味付けの醤油さえも、にがさを増す。
内臓を切り取っても、界面にあった残りが、弾力のある身に、にがさを、ほろり、と添付する。
そして、それは大人の味なのだ。
そして、大人だけがその味を好むのだ。
そして、そこにあるものは味だけではないのだ――郷愁である。
それは――海の塩辛さ。
そして、それはビールによくあう。
それは、他の貝と違って、味噌汁に入れても、出汁があまりでない。
もう子供は寝たか、尋ねると、パートナーは、
「寝た」
と答えた。
パートナーに、
「食べ終わったサザエのからは、捨てないでくれ」
と頼んだ。
明日、金平糖を買ってこよう――久しぶりに、子供とバトルだ。