さくら
しかし僕は大事なことを忘れていた。天王寺さんに構っている場合ではない。僕は平穏無事にここで過ごし、充実した高校生活を送ることが目的なのだ。下の部屋の住人にも挨拶をしに行かなければならない。いや、平穏無事に過ごしたいからこそ、天王寺さんの茶々を処理しなければならない。近隣住民と仲良くしたいという思惑は僕にとんでもない葛藤を与え、ひとり勝手に苦しむ。
「ねえ、面白い話はないの?」
無遠慮な天王寺さんは追い討ちをかけてくる。
「ゆかりちゃんは学生さん? 僕と同じくらいの年齢に思えるけど」
話に詰まったとき突然する天気の話くらい苦しい。
「そこの高校に入学が決まっているの。ようやく煩わしい家族と離れられたと思うと清々した気持ちね」
「じゃあ僕と同じだね。一緒のクラスになれるといいね」
思ってもないことが自然と口から出る。少し大人になったんだろうか。いや、きっとその場しのぎの防衛本能が働いただけだ。家族の話には触れないほうがよさそうだ。
「女の子の一人暮らしは不安は多いんじゃない?」
「多少はね。これでも空手は習っていたの、一応茶帯だったのよ」
黒帯は聞いたことあるけど茶帯ってなんだ。
「茶色ってなんか強そうだね」
「黒帯が初段以上で茶帯が一級くらいかしら」
きっとめちゃくちゃ強い。天王寺さんはふと立ち上がり、ダンボール箱から茶色の胴着帯を僕に見せた。それをすぐにしまうと、違うダンボール箱から参考書のような分厚い冊子と筆記用具を取り出し、すぐ僕の部屋へと戻っていった。天王寺さんは振り向かない。
僕は深いため息とついたのち、振り返って窓の外を眺めてみた。すると正面の公園は桜が見事に咲き誇り、はらはらと可愛い花弁が舞っていた。ベンチにはカップ酒を片手に花見をする人や、子供が駆け回る姿を見つめる母親、顔に新聞紙を乗せて昼寝をしている人。僕は立ち上がり窓の外に上半身を出してみる。風に運ばれた桜の花弁が頬を撫で、くすぐったい気持ちになると同時に春を感じた。春といえば出会いと別れの季節、中学時代の友人とは離れて寂しい気持ちでいっぱいだが、いつでも連絡は取ることはできるし、遊びにいくことも出来る距離だ。だから僕にとっては春とは前者の方だろう。天王寺さんとの出会いは置いといて、これから学校で出会うだろう新しい友人や、先輩、そして先生。なにもかもが希望に満ちている。不安がないわけではないが、それ以上にこの新しい生活に期待を膨らましてる。”ヴェルサイユ宮殿”はいまでこそ天王寺さんに乗っ取られてしまったが、来週になればこの壊れた扉も直るし、僕も元の部屋に戻れるだろう。
顔に張り付いた花弁を指で弾くと部屋の中へ体を戻し、気持ちを入れ替え挨拶の続きに出かけることにした。




