ゆかりちゃん
ふと見上げると天王寺という文字が見えた。彼女は天王寺という苗字だったんだな……。扉の無い彼女の部屋を覗きこむと、僕の部屋と同じような殺風景さがあった。生活用品というものが一切なく、あるとすれば詰まれた段ボール箱だけだ。考えれば分かるはずだった。いくら扉がないとはいえ、他人を住まわせるなんてない。彼女もまた僕と同じ引っ越してきたばかりだったんだ。
吹きぬける風が首筋を撫でると身震いし、情けない牡蠣のように身を縮めて床に貼り付く。
「どうしたの、そんな情けない牡蠣のように体育座りして。そのまま畳に張り付いて動かなくなる気なの?」
「えーと……天王寺さん。どうしてここに?」
「ゆ・か・り・ちゃ・ん! 私の部屋だもの、忘れ物くらい取りにくるでしょ?」
「ノックも声かけもなしですか」
「入るわよー」
天王寺さんが僕の頭を叩いて熱の無い声で流す。
「もう入ってるじゃないですか、それになんで僕の頭を叩くんですか」
「君がノックしろっていったんじゃない」
「叩くものはほかにあるでしょう?」
「いい音が鳴るのね。きっと空洞なのね」
さらっとひどいことを言って、段ボール箱から寝巻きらしき服を取り出して僕の部屋へ帰っていった。天王寺さんはいっさい振り向かない。
大家さんは扉の交換工事まで1週間はかかるって言ってたな……。それまでこのままなのだろうか、そのままだろう。とりあえず僕は気を取り直して貝殻から抜け出し、扉の替わりになるものをボストンバッグから探した。出てくるのはお気に入りのシャツやズボンだけ。カーテンでもあればいいのだが、天王寺さんに奪われてしまった。そう、いま僕の部屋にある。しかたないから、横縞模様のシャツを扉に貼り付けるとこにした。これでとりあえず1週間は過ごせるだろう……なんとか。
「ねえ、なんでこんな所に汚いシャツ貼り付けてるの? 現代アートのつもり? ダサいからやめなよ」
「天王寺さん……僕は男子だけど、やっぱり生活が丸見えだと落ち着かないからこうやって隠してるんです」
「だから、ゆ・か・り・ちゃ・ん!! 苗字で呼ぶなんてナマイキなのよ」
「えーと……ゆかりさん、あのですね……」
「ゆかりちゃん! ゆかりさんだと可愛くないでしょ。君って気も使えないお馬鹿さんなの?」
「ゆかりちゃん、また何か忘れ物ですか」
「ううん、暇だから構いにきてあげたの、何か楽しませなさいよ」
これは確実に”構いにきた”ではなく、確実に”構いにもらいにきた”じゃないか。面白い話なんてお笑い芸人じゃあるまいし、持ち合わせてるはずがない。僕はこのまま天王寺さんの玩具になる覚悟を決めた……。