であい
今日ここから、僕の新しい生活が始まる。お洒落な家具や気の利いた生活品など一切ないイグサの匂いだけが漂う六畳間だけど、僕にはヴェルサイユ宮殿並みに格調高く感じられる。南向きの窓からは終日陽光も差し込んでくる、勉強するには困らないだろう。ひとつ不安があるとすれば、初めての一人暮らしであることだ。いつもは空腹を感じれば母さんが絶妙なタイミングで好物のクッキーを用意してくれていた、一体どんな読心術を心得ているのか、アレだけはどんなに勉強をしても分かることはないだろう。分からないことがあれば父さんに聞けば何でも教えてくれた。だけど今日からは一人でやっていかなければならない。父さんも母さんも僕が高校への進学が決まったと同時に結婚16年目にして始めてのハネムーンへ旅立ってしまった。連絡はくれるそうだがいつ帰ってくるか分からない、広い家にただ一人でいるのも寂しいし、せっかくだから学校の近くに部屋を借りてもらった。まあなんにせよ、不安も大きいけれどそれ以上に新しい生活に希望を膨らませているんだ。
何事もスタートダッシュが肝心だ、ご近所さんとは仲良くしておきたい。現代社会では近所付き合いが希薄だと言われてはいるが、僕はそのへんもしっかりしておきたい。これからの学校生活はもちろん、卒業して大学での生活、はたまた社会人としての僕に影響を及ぼしてくるかもしれないからだ。コミュニケーション能力として。たしかに億劫ではあるけど今の内に克服しておきたい、未来の自分のために……。まずは隣がいいだろう、気の利いたお土産などないが、誠意のこもった挨拶をすれば受け入れてくれるに違いない。勇気を振り絞って隣の玄関をノックしに行く。
(このアパートにはインターホンがないんだな……)
――応答は無い。
留守なのかなと思ったけど、どうやら人は中にいるらしい。古びた玄関扉の亀裂からちらつく影を感じる。
(気付いていないのかな……?)
もう一度ソフトにノックしてみる。――反応はない。
きっと居留守を使われているんだろうと僕は思った。きっと何かの勧誘だろうと思われたのだ。
「ごめんくださーい、隣に引っ越してきた大和と申します。ご挨拶に……」
――なおも反応はない。
よっぽど人嫌いなお方なのだろうと思い、立ち去ろうとすると、はやり亀裂からちらつく影を感じる。僕は思った。
もしかしてここの住人にはなく、泥棒でも入っているんではなかろうか……? ノックしても声を掛けても反応はしないのに、扉のすぐ向こう側では人の気配を感じる。きっと”仕事”を終えた泥棒がさっさと退散したいのだが、僕がここにいるから出るに出られず、玄関の前で右往左往しているに違いない。だから影を感じるんだ。へたにここにいたら僕の身は危ないかもしれない。でも、ここに悪がいるのに放置したまま部屋に戻れるだろうか……? いや、戻れない。僕の中の正義がそれを許さない。
勇気を振り絞って亀裂へ顔を近づけ、中の様子を窺うことにした。
白い紐のようなものが揺れているのが分かった。それにあわせて何かが揺れている。
――もしかして自殺!?
あんな細い紐で首はくくれないと思うが、さらに目を細めると首らしき箇所にその”白い紐”が括られているのが分かった。間違いない。苦しくてケイレンしてるんだ! まだ間に合う!
「早まっちゃいけませんよ! すぐ助けますから!」
鍵がかかって空かなかったが、この薄い扉なら破壊して突破できそうだ。
亀裂へ思い切って蹴りを入れると簡単に破れた。
僕の目に飛び込んできたのは白い肌から湯気をだしながら、イヤホンで音楽を聴いている可愛い女の子の姿だった――。