第七話「過去の足枷」
翌日の朝、僕は世廉の部屋に向かった。
『浅葱園』の廊下に、人の気配はなかった。無人の廊下に朝日が射し込んでいる。
導茉はもう来ているだろうか。ふとそんなことを思った。導茉は『浅葱園』の近くに借家で暮らしているらしい。
こんな時間に世廉の元へ行く理由は一つだ。――陽斗と永久を殺した犯人の手がかりを伝えるためだ。
一応昨日「明日の朝行くから、鍵をかけないでおいてくれ」と電話で言ったが、返答は空虚さを感じさせる声だった。
陽斗は『友達』だった。『友達』の死は何よりも深く世廉の心を抉るのだ。今の精神状態は普通ではないはずだ。
世廉の部屋。扉の前に立つ。――やけに、静かだった。
「入るぞ」
扉に手をかける。――開かない。
「世廉、開けてくれ。寝てるのか?」
――沈黙。
返事が、ない。
「世廉! 世廉!! 返事しろ! おいっ!!」
叫びながら扉を叩く。
周りの部屋から園児が出てくる。それでも世廉の返事はない。
「お~い。爽やかな朝に何騒いでるのかな~?」
肩を叩かれた。声から察するに夕鵺先生だろう。気の抜けた口調である。振り向くと、やはりそうだった。朝だというのにいつものように真っ黒なサングラスをかけていた。
「世廉が、世廉が返事しないんだよ!」
「寝てるんじゃないないのかい? まだ朝も早い。レディの眠りを妨げるもんじゃないぜ」
「こんな叫んでんのに、返事しないのはおかしいだろ!」
「......それもそうだね。しょうがない、マスターキーを使ってあげますか。でも、これを使うとあの人に怒られんるんだよね......」
「早くしろよ!」
僕は焦れったくなって、夕鵺先生からキーを奪って扉に認証させる。――開いた。
「世廉!」
中に駆け込む。部屋はそれほど広くない。ベッドにはいなかった。まさか、部屋にいないのか? そう思った時、音がしていることに気付いた。
――水の音。
「風呂場か?!」
風呂場の扉を開ける。
そこは、真っ赤だった。その中心に世廉がいた。
その左手首から、深紅が流れていた。右手にはカッターナイフ。衣服も赤く染まっていた。シャワーの水がかかっていて、傷口は鮮やかな赤色――
「世廉! しっかりしろ! おいっ!」
抱き抱える。――息はあった。世廉は、微かな声でに何か呟いていた。
「......ごめんなさい...ごめんなさい...ごめんなさい...ごめんなさい...ごめんなさい...ごめんなさい...ごめんなさい......」
世廉は何に謝っているんだ? ――いや、今はそれどころじゃない。
「夕鵺先生! 救護をお願いします!」
「了解したよ-。小羽さんはまだ死ぬべき時じゃない。生きなくてはいけないんだよ」
そう言うと、夕鵺先生は手慣れた手つきで止血をした。
「とりあえず、これは応急処置だから、早めに本格的な治療をしないといけないね。この傷口は深すぎる。一刻を争うね」
「じゃあ、早く準備を――」
「無理だよ」
夕鵺先生の言葉は陽斗の時のように、冷たかった。
「どうして?!」
「朝が早すぎる。今から準備しても、三十分はかかちゃうね」
「どうにかできないのかよ!」
夕鵺先生は首を横に――振った。
――すると、声がした。後ろから。
「しるまが――しるまが世廉ちゃんを助ける!」
「導茉?!」
「そうか。若月さんには治癒『能力』があったね」
導茉なら、道具などの準備も必要ないから、すぐに治療ができる。
駆け寄ってくる導茉の小さな体は、いつもより頼もしく見えた。
「若月さん、ボクらは何をしたらいいかな?」
夕鵺先生が訊く。
返答した導茉の声は別人のような雰囲気を出していた。
「夕鵺先生と碑弥夜くんは世廉ちゃんをあのベッドに――」
「移動させるんだな」
僕が言うと、導茉はコクッと頷いた。その頷きはいつもとあまり変わらなかった。それが逆に、導茉が平常心を保っているように感じられた。案外、神経が太いのかもしれない。
「そのあとはどうするんだい?」
「このお部屋からでて。――ひとりじゃないと集中できないの」
僕と夕鵺先生は頷き、慎重に世廉をベッドへと運んだ。
――導茉の『能力』にかけるしかない。
部屋を出る時、導茉に言った。
「導茉、頼むぞ」
「うん。世廉ちゃんは、しるまが助けるから!!」
部屋を出て、廊下で待つことにした。
僕は強く、目をつぶった。
やはり、あれは世廉自身がやったのだろう。
世廉は終始「......ごめんなさい」と呟いていた。
世廉の『過去』と、二人の死が世廉を襲っているのだろう。
僕は前に視た、世廉の記憶を思い出していた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
世廉は教室の隅の席に座っていた。周りには誰もいない。
世廉はこの時、中学二年生だった。
誰も世廉には近づかなかった。――怖かったからだ。世廉の『能力』が。いや、怖いだけではなかった。世廉はクラスメイトから『邪魔者』と呼ばれていた。世廉が『能力』を行使すれば、クラスの秩序は瓦解するからだ。
しかし、世廉はそんなつもりは一切なかった。
一緒に仲良く遊びたかった。下らない話で盛り上がりたかった。――でも『能力』の存在が邪魔をする。
世廉は自分の『能力』が心底嫌いだった。
昼休みを終えるチャイムの音。しばらくして授業が始まる。
午後の授業も終わり、帰りのホームルームも終えると、いよいよ放課後だ。
世廉の最も嫌いな時間だった。
ある人は部活へ。ある人は教室で友達と駄弁り、またある人は街へ行って遊ぶ。
そこに、世廉の居場所はなかった。
真っ直ぐ家に帰る。帰り道、曲がり道でクラスメイトとはち合わせた。
「あッ......小羽さん......」
それだけ言って、その男子は世廉を避けるように去っていった。
家に着く。世廉にとって、一番落ち着く場所だ。
「......ただいま」
「あ! お帰りなさい、世廉。――そうそう今日まだ買い物行ってないのよ。何か食べたいものある?」
「......コロッケ」
世廉は素直に答えた。
「コロッケね! わかったわ。――それにしてもさすが姉妹ね。梓もコロッケって答えたのよ」
そう言って、母はいそいそと出ていった。
世廉には妹がいた。こちらは特に特別な『能力』は持っていない。
梓との共同部屋に入る。
「あ、姉ちゃんおかえり~」
「ただいま」
「ねえねえ、この問題教えてよ」
帰ってきて早々これだ。梓は明るい性格で、小学校でも人気があるのだが、勉強面に多少の問題がある。小学校五年生あたりから、躓きはじめたのだ。これには世廉も閉口した。
「この問題は――」
でも、丁寧に教えてやれば理解する。
「わかった! ありがとう、姉ちゃん」
そう言って梓は笑った。
その日の晩御飯で、父が訊いてきた。
「なあ、世廉。学校はどうだ? 楽しいか?」
その問いに深い意味はないと世廉は感じた。
「うん、楽しいよ」
「そうかそうか。ならよかった。学校生活ってのは一生の思い出になるんだ。日々を大切にしろよ」
まあ、思い出にはなるだろうね。世廉は思った。
家族は世廉の『能力』については知っている。だが、触れないようにしている。そこに居心地の悪さのようなものを世廉は感じたことがなかった。
学校については、家族は何も知らない。そうしたほうがいいと世廉自身が思ったのだ。
とはいえ、世廉にとって家が一番、安らげる場所だった。
時間は流れ、世廉は三年生になった。と同時にクラスに変化があった。
転校生が来たのだ。背の低い女子だった。少し導茉に似ていたかもしれない。
その転校生は変わっていた。何が変わっていたかと言うと、世廉に近づいたのだ。周囲に『能力』のことを聞かされても「彼女が人を傷つけるとは思えない」と一蹴し、世廉と関わった。
「世廉ちゃん。遊びに行こ!」
「え...あ、うん」
世廉はその転校生――名前を荒川深月という――に連れられて沢山遊んだ。
一緒にゲームをしたり、帰り道で話したり、洋服を選びあったり。
楽しかった。本当に。
その頃になると、家族に「学校どう?」と訊かれても「楽しいよ!」と素直に答えられるようになっていた。
でも――
壊れ始めた。世廉の支えになるものが――
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僕は目を開いた。まだ、治療は終わっていないようだった。
夕鵺先生も世廉の部屋を見つめていた。
世廉の記憶。その続きをなぞる。
視ている僕でさえ、胸が千切れそうになる不条理。
僕は目を閉じた。