多汗症
これは僕の知り合いの話なのだが、彼の症状の一つに「多汗症」がある。死に至る病である。同音で「多感症」と書くと性的に猥褻ではあるが、それとは異なる。
手許の電子辞書で調べると、「多汗症」とは
生理的または病的に多くの発汗を来す皮膚の病症。全身性と局所性がある。
とある。「病的に多くの発汗」「皮膚の病症」という文面に思わず慄然とする。
と書くと、「ただ普通のひとよりも多く汗をかくだけだろう? 何を大袈裟に表現しているのだ」と思われるひとが少なからず現れる筈であろうから、ここに僕の知り合いの経験した、悲惨かつ滑稽な例を幾つかご紹介する。
あれは小学六年生の時分であったという。彼は柄にも無く野球部に所属していた。といって、大した選手ではなかった。というか、監督から屑同然に扱われていた。九番ライト、といえば聡明な読者には察しがつくであろう。後輩である四年生、五年生にポジションを奪われて九番ライトである。先輩としての威厳も何もあったものではない。投げれば暴投、振れば空振りという無能プレイヤーであった。しかしその忍辱の日々はひとまず置く。
ある夏の日、彼がベースランニング(本塁から一塁二塁三塁、そして本塁へ走って戻ってくること)をし終えた後、コーチが近づいて来て言った。
「よお、いくら暑いからって水浴びするのはよくないぞ」
つまりこういう訳である。炎天下にひた走ったことによって、疲弊した彼の顔および身体から、尋常では考えられない量の汗が分泌されていた。それを見たひとが「水を浴びた」と思い込んだのである。
「そ、そうですよね、すいません。あはは」
太陽が濃く照りつける最中、彼は、この言葉を二度と忘れないだろうな、と確信した。事実、忘れていない。
少し走っただけで「水浴び」だと思われる男。そういうレッテルが貼られた。自らの罪業を刻印された旧約聖書のカインさながらに、彼の額には(否、全身には)「汗かき水浴び男」という烙印が捺された。
その後も、この体内から醸成される憎き「汗」によって、彼は糾弾・私刑の憂き目に遭った。
「なんかアイツ汗くさいよな」「なんか汗ばっかりかいてるよね、キモイ」「○○って奴いるでしょ、すごい不潔だよね」……等々、学内の同級生は、彼が汗をかいているのを見ては嘲笑し、侮蔑し、あげつらい、疎外した。こうして彼は徐々に、そして完全に孤立した。無論、孤立した原因は「汗」のみではないが、しかし確実に一つの要因ではある。そして彼の頭は壊れた。
首に無地のタオルを巻いて登校するようになった。自転車通学中に吹き出る汗を拭くためである。クラスの誰も何も言わなかった。みな「見てはいけないものを見た」という表情をしていた。それから卒業までそのスタイルを貫徹した。よく校内の不良に絡まれた。「何でタオル巻いてんだよ手前、キモイんだよ」「ビールの呑みすぎで汗が出るんだよ悪いかよ」「なんだよお前、意外と悪いな」何故か不良たちと仲良くなった。彼が身長一八〇の巨躯だから何となく相手に威圧感を与えたのだろうと思う。狭い学校社会では、大きい人間はそれだけで脅威だ。だから誰からも虐められなかった(ただ「居ないもの」として無視された)。でもそれはまた別の話だ。致命的だったのは、この「汗」によって、女性とまったく縁が無かったことである。
いや顔立ちさえ眉目秀麗であれば、多少の汗かきでも赦免されたであろうが、ぼ……彼の顔はまことに遺憾ながら、母親の腹の中で細胞レベルで破壊されたのではないかと思われるほど淪落している。これも僕……いや彼の劣等感を育んだ。
そのせいなのか、彼の性的欲望・亢奮は……些か……常軌を逸した。
いや、仮借なく書こう。二十三歳で初めて彼女が出来るまで(つまりそれまで童貞のままで)、彼は悶え狂えるオブセッションに触発され自慰行為に励んでいた。
PCの存在、インターネットの存在が彼を没義道へと導いた。安易簡便にアダルト動画、それも無修正の女性器がうねる様を閲覧できる環境が、彼を悖徳者にした。
強姦、レイプ動画から始まり、あどけない少女と姦淫する動画、女子高生、女子中学生・女子小学生による援交動画、盗撮、緊縛、近親相姦、コスプレ、スカトロ、アナル、SM、イラマチオ、脱肛、専門機器による膣内の子宮観察映像にまで手を染め、それらを網羅・渉猟して、気がつけば取り返しのつかない、後戻りの出来ない、退路を絶たれた、袋小路の、度し難いゴミ屑変態人間と化していた。それを自覚したとき、
「私の腦は壞れてしまつた」
と旧字体で確信した。
高卒で能無しで変態。彼は自殺しようと思った。でも出来なかった。怖かった。彼は、生き延びるかもしれない。