「え・が・お」講義
「さあそれでは研修の始めに笑顔の練習から。みなさんご一緒に、え・が・お!」と言って講師の女は笑顔を作った。この「え・が・お」の掛け声に合わせて口角を上げたり口をO字型に広げたりするのである。こうすることで表情筋、口輪筋が鍛えられ、あたかも自然な風に見える笑顔を作成することが出来るという。僕のほかに十人ほどおっさんやおばさんが受講しており、みんなで「え・が・お」である。
正気の沙汰ではないなと思った。
講義内容があまりにも退屈なので何が狂っているのか考察することにした。
まずこの講師である。理事長の思いつきなのだろうが、施設内で研修を執り行うことが突如決定し、そうして召喚されたらしいのがこの女。見たところ五十絡みのババアで、名前は聞いた瞬間に失念した。化粧が濃く、服装は派手派手しく悪趣味、表情には上記の「え・が・お」が貼りついてはいるが内心では何を考えているのか分からない顔面造形をしている。あるいは何も考えていないのかもしれない。胡散臭いビジネス書を枕頭に置いてそうな印象である。と、ここで僕はようやく理解した。この女性の全身から胡散臭い雰囲気が醸成されているのだ。新興宗教勧誘者やねずみ講ビジネスに一脈通じる胡散臭さだ。
また、そんな女の片言隻句に粛々と従う従業員のおっさんおばさんもまた奇怪である。もはや自分の意思というものが欠片も残らず死滅した如く、言われるがままに「え・が・お」。そして胡散臭いババアの話を聞き漏らすまいと逐一メモなど取っている。
講義は一時間に及んだ。内容はかいつまんで言えば「老人介護における態度・姿勢」。一時間ではあったが永遠というものがあるならばこれである。研修の初めから終わりまで、当然ながら誰も何も言わなかった。誰一人として「やーめた!」とも「酒が飲みたい」とも「こんな茶番を続けるつもりなら金玉を切り落とした方がマシだ」とも叫ばなかった。
するうちに、あるいは自分がおかしいのだろうかという猜疑心が芽生えた。
考えてみればこのババア、もとい講師もたぶん善意でやっているのだろう。講義内容もまったく無意味という訳ではない。それを傾聴するのも大切かも知れない。僕が狂っているのか? 頭が痛い。
レポートは白紙で提出した。ババアは怪訝そうな顔で僕を見た。