表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
眼鏡男子の日常  作者: きり
サイドストーリー
41/41

一目貴方に

 貴方が好き。


 そんな乙女の非日常。

 まさか、こんなに早く死んでしまうだなんて、思ってもみなかった。


 その日は、朝から変な予感……みたいなものがあった。

 履こうとしていたローファーの底がベロリと剥れたり、危うく犬に噛まれそうになったり、歩道橋の階段を五段程踏み外して派手に転んだりと、家を出なければ良かったと思うような事ばかりが立て続けに起こった。

 決まって何時も彼の斜め後ろの席に座り、一人、彼の横顔を眺めるのが、私の唯一の楽しみだった。ただそれだけ。

 最近では高校からの同級生の一人である角田(かどた)さんが、私が新山さんという人の事を好きなんだろう、という妙な考えにとりつかれていて、それすらもゆっくり出来ないでいたけれど。

 そしてそれが今朝、全ての終わりを告げた。

 私、死んじゃったみたい……なんだよね。

 目覚時計が壊れていて、寝坊をしてしまった私は、朝一の講義に、彼と唯一近付ける講義に出る為だけに、必死に走った。

 いけない、とは思いつつも、赤信号を無視して道路を横断しようとしたんだ。

 案の定、私は走って来た乗用車に跳ねられてしまっていた。

 罰が当たったのだ、と思った。

 運転していた男の人が慌てて車から降りて来て、必死に声を掛けてくれていた事はうっすらと覚えている。

 けれど、その人の声は私にとって、テレビの向こう側から聞こえて来る声のように、余り意味を成さないものに感じた。

 そして、最期の瞬間に私が思った事はただ一つ。

 生きたい、ではなく、彼に会いたい、という事だけだった。



     *



 あれは、まだ私が高校生の頃。

 学園祭の準備で、帰りが遅くなってしまった日の事。

 その日は運悪く、クラスメート達も先に帰り、教室の戸締まりを一人でしてからの帰宅だったので、たった一人での帰宅だった。

 そんな日に限って、満員電車の中で痴漢に遭ってしまった。

 扉の真ん前で、身動きが全くとれない状態だった私の制服のスカートの中に入って来るその手に、怖くて声も出せずにいると、急にその感触が消えた。

「おっさん、ええ歳こいて何さらしてけつかんねん!」

 ドスの効いた声で、誰かが言った。

 驚いて振り向くと、四十代くらいのサラリーマンと、その手をしっかりと握る眼鏡を掛けた目付きの余り良くない若い男の人がいた。

 力だけでなく、変に手の甲が反らされている様子から、腕を掴まれたサラリーマンはかなり痛い思いをしているのだと分かった。

「は、放せ! な、何をするんだね、君は!」

 その吐く息の臭さから、かなりお酒が入っているのだと推測されるサラリーマン。きっと一気に酔いが覚めたに違いない。

「何って、おっさんがこの娘の(けつ)に触っとんのが悪いんやろおが!」

 益々目付きが悪くなっていく彼に、むしろ私の方がハラハラし始める始末。

 丁度その時、電車が停車駅に入り、扉が開いた。

 扉が開くと同時に降りる人達の波にのまれ、私を含む三人も電車から押し出されてしまった。

 その際、件の酔っ払ったサラリーマンは、その隙に逃げて行ってしまった。

「くそっ! ……っと、ごめん。君、大丈夫?」

 直ぐさま、サラリーマンを追いかけようとした彼のジャケットを、思わず握り締めてしまっていたらしい私。慌てて手を放すと、彼は思い直したように私を振り返った。

 まだ怖さの抜け切らない私は、声も出ずに頷く事しか出来なかった。

 普段の私を知ってる人が見たら、きっと驚きで顎が外れたに違いない。それくらい、私は怯えきっていた。

「怖かったよな。もっと早く気付いてあげられたらよかったんだけど。……すまなかった」

 私の頭を最初はためらいがちに触れ、私が怯えないと分かると、優しく撫でてくれた。

「あいつ、逃げちゃったけど、警察に行っておく?」

 彼は、俯き加減の私の顔を覗き込む為、軽く膝を折った。

 私はいやいやをするように、首を左右に振る事しか出来なかった。

「行っておいた方がいいと思うけどな。……で、さっきのヤツに会ったの、今日が初めて?」

 最後の言葉に反応して小さく頷くと、彼は言った。

「そっか。んーまぁ、次、また何かされたら、必ず警察に相談に行くんだよ。いいね?」

 中腰になって私の目を真っ直ぐに見詰める彼に、私は思わず頷いていた。

 よし、と、満足そうに頷くと、彼は膝を伸ばし、真っ直ぐに立った。

 この時、初めて気が付いた。彼は、女子にしては高めの一七〇センチ近くはある私の身長を遥かに超える長身だという事に。

「じゃあ、ここから一人で帰れる?」

 ふるふると首を振ると、彼は困った顔をした。

「君の家の最寄り駅まで、なら送るけど。それでいい?」

 コクコクと頷く私に彼は笑顔になった。

「ところで君、誰か迎えに来てくれる人、いる?」

 ホームに入って来た電車に改めて乗り込むと、彼が尋ねてきた。

「あ、はい。母が……」

 聞こえ難かったのだろう。彼は耳を近付けて聞き返してきた。

「じゃあ、駅に着いたら、お母さんに電話するといいよ」

 最寄り駅に着くと、彼も一緒に降りて来て、家に電話をして迎えに来る私の母を一緒に待っていてくれた。

 何度もお礼の言葉を口にしようとするのだけれども、なかなか言葉にする事が出来なかった。

 何も喋る事の無い沈黙が私達二人を包み込む。

 どうしようと私が悶々と悩んでいると、母の私を呼ぶ声がした。

 そしてその声に返事をし、彼に思い切ってお礼を言おう振り返った時には、もう、彼の姿は消えていた。

 そう、これが彼との初めての出会いだった。



 それが運命の悪戯か、翌年、入学した大学で再会する事になるなんて、流石にそんな漫画みたいな偶然、私ですら想像出来なかった。

 幸か不幸か偶然は重なるもので、私の履修している一般教養の法律の講義の一つが彼と同じだった。

 驚いて……そしてあの時に言えなかったお礼を言おうと、ある時勇気を振り絞って、彼に近付いた。

「あの……」

 けれど口から出て来た言葉はこれだけだった。

 彼は一瞬、私を振り返り、訝しげな表情を見せた。その表情は、明らかに私の事を覚えていないと告げていた。

「片瀬君、おっはよー!」

 その声に、そのまま私の顔を通り過ぎ、彼は私の背後に顔を向けたのだった。

「ああ、おはよう」

「ねえねえ、片瀬君、商法のテキストもう買った?」

「いや、まだだけど……」

 よく彼と一緒にいるのを見掛ける女の子だった。

 私と違って明るくて気さくな感じで、女の私から見ても憧れるようなタイプ。

 見た目も可愛い感じだし、身長も一五〇センチ前後位と可愛らしい。

 彼女……なのかな? 彼女に違いないよね。

 溜め息混じりに考えた。私の運命は、一方的な再会までに止どまっていたんだと諦めた。うん。そのつもり。

 けれど会えば――相変わらず一方的ではあるけれど――必ず目で追ってしまうのもまた事実。

 意外と諦めが悪いんだな、と自分でも笑ってしまった。



     *



 気が付くと、私は見知らぬ場所にいた。

 多分、何処かの図書館。

 けれど不思議な事に、人の気配がまるでなく、針が落ちた音さえ聞こえてきそうな静寂に包まれていた。

 自分の置かれた状況が暫く飲み込めなかったけれど、今朝自分の身に起きた事故が、頭の中でフラッシュバックして、やっと分かった。

 私は死んだんだ、って。

 それでも、何故か、恐怖という感情は湧いて来なかった。ぽっかりと穴が開いたように、元から私には感情等無かったかのようだった。

 その時、か細い女の人の声が聞こえた。何を言っているかまでは聞こえなかったけれど、確かに声が聞こえた。

 私は無意識にそちらに向かった。

 いや、正しくは、その声に引き寄せられていった。

 声の主の元へ辿り着いた私を待っていたのは、明らかに死んでしまっていると分かる女性だった。

 何故、死んでいると分かったのか説明は出来ないのだけれど、もしかしたら私自身、死んでいたから分かっただけかもしれない。

 そして、その直ぐ傍には、あろう事か彼がいた。

 どう良心的に見積もっても、彼女の目付きは悪意に満ちており、このままでは彼に何をしでかすか分からない空気が漂っていた。

 助けなきゃ!――頭に浮かんだのはその事だけ。

 蛇口を捻るように、私の感情が一気に湧いて出て来た。

 彼の盾になるべく、駆け出した。どうやって助ければいいのかなんて、全く考えてはいなかった。

 けれど、後数歩、という所で、私の身体――と言うのも変なんだけれど――は弾き返された。

 何度も見えない壁に向かって体当たりをしてみたものの、結果は同じだった。

 その間に彼女は彼の背後からガッチリと腕を回し、しっかりと彼の身体に絡み付いていた。

 誰か助けて!

 そう何度も聞こえる筈の無い叫び声を上げた。

 するとどうだろう。

 一人の女子学生と思しき人物が、慌てた様子で現れた。

 彼女は生きている人間だ――最初に私が思ったのはそれだった。

 けれど、彼女は私と目が合うと、大丈夫、と言うように小さく頷いてみせると、彼の方を見た。

 そして再び私に小さく頷いてみせると、直ぐにその場を後にした。


 生身の彼女がいなくなってからどれくらい経ったのか……。

 死んだ人間には痛みは無いのかもしれない。

 私が何度目かの体当たりに失敗した頃、その人は現れた。

 さっきの彼女とは別の人。

 気付いた彼女は、目で後ろに下がるよう私に指図すると、何やら両手を組み合わせた。彼女は静かに息を吐くと、そのまま動きを止めた。

 すると次の瞬間、身体から魂――という物があるのだとしたら――が抜け出たとしか思えない姿になった彼女が、彼の背中に引っ付いて離れない死んだ女性を引き剥がしに掛かった。

『邪魔!』

 そう言うと、力任せに女性を引き剥がし、その反動で彼が棚に飛ばされた。

 倒れ込んだ彼を思わず自分の身体が無い事も忘れ、助け起こしに行こうとしたら、彼を死んだ女性から引き剥がしてくれた彼女に目で制された。

 彼女は女性を羽交い締めにし、背後からその首筋に歯を立てた。

 一瞬、羽交い締めにしている彼女の顔は、彼女とは別の人になったように見えた。綺麗な男の人の顔に見えたのだ。そう思ったのが幻かと思う程、一瞬の出来事だった。

 そして間も無く、死んだ女性は恍惚の表情を浮かべ、その全身から光が溢れ出し、硝子が割れたかのように飛散した。

 ああ、これで彼女は本来あるべき姿に戻れたんだな、と何故か感じた。

 そして、私もそうなりたい――無意識に歩みを進め、彼女の前に立って両手を広げた。

『あんたはまだ死んでない。……だから、生きるの』

 そう言って、彼女は笑って私を抱き締めてくれたのだった。



     *



 目が覚めると、そこは病院のベッドの上だった。

 どうやら、私は助かったらしい。

 自動車に跳ねられた事までは覚えていたけれど、そこから先の記憶がすっぽりと抜け落ちていた。

 両親は泣いて喜んでくれたけれど、助かった事より、私はその日の講義に出られなかった事の方が残念でならなかった。


初出:2007/2/22

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ