ライトノベル?
私が初めてライトノベルに触れたのは、中学二年生の頃だった。
当時の私は、「厨二病」という言葉どころか、「コンドーム」という言葉さえ知らなかった(笑)
今では小説を読むだけでなく、自分でも書くようになったが、最初から読書が好きだったわけではない。
文字を読むことにさえ消極的だった私が、どのような作品と出会い、どうして小説へ夢中になっていったのか。
まずは、そんな私の読書遍歴から語っていこう。
小学校高学年の頃、読書タイムというものがあった。
とはいえ、当時の私は
「読書タイムなんていらない。文字を読むのは、教科書だけで十分だろう」
と思っていた。
そのことを家族との会話で話すと、
「それなら、これを持っていって読んでみたらいい」
と、小説を渡された。
正直なところ、その時点でも積極的に読む気はなかった。
しかし、後で感想を聞かれたとき、読んでいないことがばれるのも気まずい。
「仕方がない。感想を言える程度には読んでおくか」
そんな消極的な理由で、私は本を開いた。
読書タイムには、『封神◯義』や『竜◯がゆく』『13◯段』『東の◯神 西の◯海』などを持ち込むようになった。
分からない漢字は多かったが、雰囲気で読み進めていくうちに、細かな意味までは理解できなくても、物語の流れや登場人物の感情が何となく伝わってきた。
そして、思っていたよりも面白かった。
最初は一つの文を追うだけでも時間がかかったはずなのに、何冊も読むうちに、少しずつ長い文章を読めるようになっていった。
そうして私は、小説の面白さと同時に、小説を読む力を身につけていったのだと思う。
それまでは漫画を読むことが多く、ジャ◯プやマ◯ジンの作品を中心に楽しんでいた。
アニメにもあまり詳しくなく、ガン◯ムの絵柄ですら少女漫画風に見えて、何となく避けていたほどである。
中学二年生のある日、読んでいた『ス◯イラル 推◯の絆』という漫画に、スピンオフ作品として小説版があることを知った。
近所の本屋で取り寄せてもらい、何度も読み返した。
特に好きだったのは最終巻で、今でも多くの人に読んでもらいたいと思っている。
ここで
「それはライトノベルではなく、漫画のノベライズではないのか」
と言われるかもしれない。
しかし、漫画を原作とした外伝小説は、読者層や内容を考えれば、ほとんどライトノベルと言ってよいのではないだろうか。
少なくとも当時の私にとっては、初めて強く意識して読んだライトノベルだった。
その次に読んだのは、『テイル◯オ◯ジア◯ス』である。
兄に『テイル◯オ◯デ◯ティ◯ー』というゲームを遊ばせてもらったことがあり、同じシリーズなら面白そうだと思って購入した。
全六巻で完結するという短さも、小遣いの少ない子供だった私には魅力的だった。
おそらく、この『ア◯ス』が、私が最も何度も読み返したライトノベルである。
何度も泣きながら読んだ記憶がある。
一度目では理解できなかった人物の感情や物語の意味も、読み返すたびに少しずつ見えるようになった。
同じ作品を繰り返し読むことで、物語への理解だけでなく、文章を読み取る力そのものも深まっていったのだろう。
その後は、学校の図書館に少数だけ置かれていた『少年◯陽師』や『龍と◯法使い』なども読むようになった。
どれも心に残る名作である。
改めて思い返してみると、私が好きになった小説には、運命や人生、幸福とは何かを考えさせる作品が多い。
当時はそこまで意識していなかったが、今の私の価値観や考え方には、間違いなくそれらの作品が影響している。
物語を読んで感動した記憶は、その場だけで消えるものではない。
時間が経ってから、自分の考え方や選択の中に、形を変えて現れる。
そう考えると、読書体験は確かに人生の糧なのだと思う。
そして、そのような体験を受け取るには、文章を最後まで読み、理解しようとする力も必要だった。
私の場合、その力は最初から備わっていたわけではない。
分からない漢字を雰囲気で補い、長い文章に何度も挑み、同じ作品を繰り返し読む中で、少しずつ育っていったのである。
……と、ここまで読書遍歴を振り返ってきたが、現在の私は、以前と同じように文章を読めているのだろうか。
現在は、小説投稿サイトで膨大な作品を無料で読める。
更新も早く、短い時間で楽しめる作品も多い。
スマートフォンを開けば、短く、軽く、分かりやすい物語を、すぐに読むことができる。
非常に便利な環境であり、私自身も大いに利用している。
しかし、便利な環境に適応するほど、長い説明を読むのが面倒になる。
複雑な設定を覚えることが負担に感じられる。
少し文章が硬いだけで、読む速度が落ちる。
かつて時間をかけて育てたはずの「読む力」が、軽く速く読むことへ適応した環境の中で、少しずつ使われなくなっているのかもしれない。
書籍化された作品には、編集や推敲を経て、商品として整えられた読み応えがある。
もちろん、書籍化されているから必ず優れているわけではないし、投稿サイトにも完成度の高い作品は数多く存在する。
それでも、一定の長さや密度を持つ文章を読む経験には、手軽な作品とは異なる価値がある。
小説投稿サイトばかり読んでいると、本来は「ライト」と呼ばれているはずのライトノベルでさえ
「重い……」
と感じるようになる。
ついには
「こんなに頭を使わせる作品が、ライトノベルを名乗るな!」
と言いたくなるほどである。
もちろん、ライトノベルが急に重くなったわけではない。
軽く、速く、負担なく読むことへ最適化された環境に、こちらの読書感覚が慣れてしまったのである。
文章の重さは、作品だけで決まるものではない。
普段どの程度の文章を読んでいるかによって、同じ作品でも軽くも重くも感じられる。
これが、今回の題名を『ライトノベル?』にした理由である。
私は子供の頃、分からない文章へ何度も挑戦することで、小説を読む力を育てた。
しかし現在は、読みやすい作品を選び続けることで、その力をあまり使わずに済む環境へ、自分から適応している。
読む力は、一度身につければ永久に変わらないものではない。
使わなければ鈍り、負担を避け続ければ、以前なら楽しめた作品まで重く感じるようになる。
だからこそ、時々は書籍化された小説を手に取り、少し長く、少し複雑で、少しだけ頭を使う物語を読むことにも意味があるのだと思う。
読書体験は、人生の宝だ。
自分にとって何が大切なのかを思い出させ、時には、自分が何者なのかまで考えさせてくれる。
もっとも、若い頃は小説に熱中しすぎて活字中毒ぎみになり、読んでいない時間には
「自分とは何なのか」
と、なぜか哲学的な方向へ思考が飛んでいくこともありましたが(笑)
皆さんもライトノベルが重く感じるようになる前に、書籍化された小説をたくさん読みましょう。
きっと、有意義な時間になるはずです。




