第3話 残された者の冬、偽りの栄光
祭りの後の静寂というのは、どうしてこれほどまでに耳に痛いのだろうか。
勇者ガイアスとソフィアを乗せた馬車が去ってから数日が過ぎた。村を覆っていた熱狂の余韻は嘘のように消え失せ、残されたのは日常という名のぬるい現実と、地面に刻まれた深い轍だけだった。
俺、アレンはいつものように夜明けと共に起き、畑に向かう。
鍬を振り下ろし、土を耕す。ただそれだけの単純な作業を繰り返す。かつては、この作業の合間にソフィアが冷たい水を持ってきてくれたり、彼女が作った弁当を二人で木陰で食べたりする時間が楽しみだった。
だが今は、ただ筋肉が軋む音と、自分の荒い呼吸音が聞こえるだけだ。
「……おい、見たかよ。あいつだ」
「ああ、可哀想になあ。幼馴染に捨てられた男だ」
「相手が勇者様じゃあなあ。勝ち目なんてあるわけないだろうに」
畑の境界線の向こうから、村人たちのひそひそ話が風に乗って聞こえてくる。
彼らは声を潜めているつもりなのだろうが、田舎の静けさの中ではその嘲笑や同情の色を含んだ言葉は驚くほどよく通る。
俺は手を止めることなく、黙々と作業を続けた。
怒りは湧かなかった。悲しみも、悔しさも、もう枯れ果てていた。
ただ、「煩わしい」という感情だけが胸の底に沈殿している。
彼らは勝手だ。二人が去る時はあれほど熱狂し、ソフィアを称賛し、俺を邪魔者扱いしたくせに、祭りが終わればこうして掌を返したように「被害者」として俺を憐れむ。
その身勝手な優越感が透けて見える視線が、皮膚に張り付くようで不快だった。
「アレン、精が出るな」
不意に声をかけられ、顔を上げると、村の長老が杖をついて立っていた。
その顔には、慈悲深い長老としての仮面と、どこか探るような色が混じっていた。
「おはようございます、長老」
「うむ。……どうだ、少しは落ち着いたか? 若い身空で辛いだろうが、これも運命じゃ。ソフィアは選ばれた人間だったのだよ。お前のような凡人が繋ぎ止めておける器ではなかった」
慰めに見せかけた、残酷な事実の確認。
俺は鍬を持った手を下ろし、長老の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「ご心配には及びません。俺はただ、自分の畑を耕すだけです。それ以外のことは、もう終わったことです」
「ふむ……強がりを言うでない。まあいい。村の娘たちの中にも、お前を気にかけている者もいるようだぞ? いつまでも未練がましくしていては男が廃る。早く新しい相手を見つけることじゃな」
長老は説教じみたことを言うと、満足そうに頷いて去っていった。
俺はその後ろ姿を見送り、小さく息を吐いた。
未練。そう見えるのだろうか。
俺の中にあるのは未練ではない。喪失感ですらない。
ただ、心の一部が壊死してしまったような、感覚の欠落だった。
ソフィアがいない世界に適応するために、俺の心は急速に凍てつき、感情という回路を遮断し始めていたのだ。
その日の夕暮れ、俺は家に戻ると、部屋の隅にある古い木箱を開けた。
そこには、ソフィアとの思い出の品々がしまってあった。
幼い頃に二人で拾った綺麗な形の石。彼女が誕生日に編んでくれたミサンガ。互いに送り合った稚拙な手紙の束。祭りの夜店で買った、対になったガラスの飾り。
一つ一つ手に取るたびに、かつては温かい感情が胸を満たしたものだ。
「アレン、これあげる! お揃いだね」
「ずっと大事にしてね」
そんな彼女の声が、幻聴のように脳裏に響く。
だが今の俺には、それらの品々が、まるで異国の言葉で書かれた書物のように意味をなさなかった。そこにあるのは「過去の事実」だけで、「感情」が伴わない。
俺は無造作にそれらを掴み、暖炉へと放り込んだ。
火打ち石を打ち、枯れ草に火を移す。
炎が燃え上がり、手紙の紙片を舐めるように焦がしていく。ミサンガの糸が縮れ、ガラス細工が熱で歪んでいく。
パチパチという音と共に、俺とソフィアが生きた証が灰へと変わっていくのを、俺は椅子に座ってじっと見つめていた。
涙は出なかった。
ただ、胸のつかえが少しだけ取れたような気がした。
これでいい。
俺の心に残っていた最後の「ソフィア」という色彩を、こうして物理的に消去していく。
灰になったそれらをかき出し、風の吹き荒れる外へと撒いた。
冬の冷たい風が、灰色の粉を夜の闇へと運び去っていく。
俺は扉を閉ざし、鍵をかけた。
もう、誰も入れない。この心には、二度と誰も。
***
一方その頃、王都の夜は昼間のように輝いていた。
王城の大広間では、勇者ガイアスの凱旋と、新たな「聖女」の誕生を祝う舞踏会が開かれていた。
数千本の蝋燭が灯されたシャンデリアが煌めき、床に敷き詰められた真紅の絨毯の上を、着飾った貴族たちが優雅に行き交う。楽団が奏でる優美な旋律と、グラスが触れ合う軽やかな音が空間を満たしていた。
その中心に、ソフィアはいた。
彼女が身に纏っているのは、最高級のシルクで仕立てられた純白のドレスだ。金糸で刺繍された聖印が胸元で輝き、彼女の清廉な美しさを際立たせている。首元には大粒のダイヤモンドのネックレス、そして髪には真珠のティアラ。
辺境の村娘だった面影はどこにもない。彼女は今、誰もが傅く高貴な「聖女様」だった。
「素晴らしい……なんと美しい光だ」
「あの方が、伝説の聖女様か」
「勇者様が見初めたのも頷ける」
周囲から聞こえる称賛の声が、甘い蜜のようにソフィアの耳をくすぐる。
彼女は扇子で口元を隠しながら、隣に立つガイアスを見上げた。
「ガイアス様、皆様が私のことを見ていますわ」
「当然だ、ソフィア。君はこの国の至宝なのだから。さあ、彼らに君の力を見せておあげ」
ガイアスが優しく背中を押す。
ソフィアは広間の中央に進み出た。そこには、病を患った老貴族が車椅子に乗せられて待っていた。
彼女は優雅な所作で右手を掲げる。
「大いなる光よ、迷える子羊に癒やしを与えたまえ――『ホーリー・ヒール』」
彼女の手から、眩いばかりの黄金の光が溢れ出した。
その光は老貴族を包み込み、見る間にその顔色を良くしていく。曲がっていた腰が伸び、老人は驚いたように立ち上がった。
「お、おお! 痛みが……痛みが消えた! 歩けるぞ!」
ワアッ、と会場がどよめきと拍手喝采に包まれた。
「奇跡だ!」「聖女万歳!」
ソフィアはその光景を、恍惚とした表情で見渡した。
全身を駆け巡る万能感。自分が世界の中心にいるという確信。
村で怪我をした子供の擦り傷を治していた頃とは、比べ物にならないほどの高揚感がそこにはあった。
あの薄暗い森、土埃にまみれた毎日、狭い世界。
どうして私はあんな場所に満足していたのだろう。
(アレン……)
ふと、かつての婚約者の顔が浮かんだ。
だが、その記憶には靄がかかったように焦点が合わない。
彼が畑仕事をして汗を流す姿、泥のついた手で差し出してきた野花、質素なスープを分け合った夕食。
それらの記憶が、ひどく汚らしく、貧相なものに思えた。
「君は太陽だ。あんな薄暗い場所で燻っているべきじゃない」
ガイアス様はそう言ってくれた。その通りだわ。
アレンとの生活は、私という蝶を虫かごに閉じ込めるようなものだった。彼はきっと、私の才能に嫉妬して、あの村に縛り付けようとしていたのだ。なんて卑しい心根なのだろう。
「気分はどうだい、ソフィア」
ガイアスがシャンパングラスを二つ持ち、近づいてきた。
ソフィアはその一つを受け取り、妖艶に微笑んだ。
「最高ですわ、ガイアス様。私、やっと息ができるようになった気がします。あの村での日々は、まるで泥の中で窒息していたようなものでしたから」
「そうだろうとも。君は生まれ変わったんだ。過去の汚れは全て洗い流された」
ガイアスはそう言って、彼女の腰を引き寄せた。
その指にはめられた指輪が、怪しく紫色の光を放っていることに、ソフィアは気づかない。気づくはずもなかった。彼女の認識は、既に「魅了」の魔術によって書き換えられ、歪められているのだから。
彼女にとっての「真実」は、目の前の栄光と、ガイアスへの盲目的な愛だけだった。
「乾杯しよう。君の輝かしい未来と、我々の愛に」
「ええ、ガイアス様。……愛していますわ」
ソフィアは琥珀色の液体を飲み干した。
喉を通る熱い刺激が、彼女の罪悪感を麻痺させ、陶酔感を加速させる。
かつて愛した男が、遠い冬空の下で心を凍らせていることなど、彼女の想像の及ぶところではなかった。彼女の目には、シャンデリアの輝き以外、何も映っていなかったのだから。
***
季節が巡り、辺境の村に本格的な冬が到来した。
今年の冬は例年になく厳しかった。
分厚い雲が空を覆い、連日のように吹雪が村を襲う。積もった雪は膝の高さを超え、家々の屋根を重く押しつぶそうとしていた。
そして何より、村人たちを苦しめたのは、原因不明の流行り病だった。
高熱と咳が続き、体力を奪う奇病。かつてなら、ソフィアが祈りを捧げるだけで治った程度の病だ。
だが、もう彼女はいない。
「ゴホッ、ゴホッ……あ、アレン。頼む、薪を……薪を分けてくれんか」
扉を叩く音に、俺は作業の手を止めた。
開けると、隣に住む男が青白い顔で立っていた。彼もまた、熱に浮かされているようだった。
「薪なら、裏の小屋にある。持って行けばいい」
「す、すまん。恩に着る……。ああ、ソフィア様がいれば、こんな病気、すぐに治してくれただろうになあ」
男は恨めしそうに空を見上げ、独り言のように呟いた。
その言葉に、俺の心はピクリとも動かなかった。
「ソフィアはいない。それが現実だ」
俺は冷淡に告げた。
男はバツが悪そうに視線を逸らし、「そ、そうだな。悪かった」と言って雪の中へ消えていった。
扉を閉めると、再び静寂が戻ってくる。
部屋の中は必要最低限の暖かさしかない。薪を惜しんでいるわけではないが、暖かすぎる部屋は今の俺には居心地が悪かった。
窓の外を見る。
雪景色は全てを白く塗りつぶしている。
村人たちは今更になって、失ったものの大きさを嘆いている。「聖女」の恩恵を当たり前のように享受し、彼女が去る時は英雄譚に酔いしれて送り出した。その結果がこれだ。
自業自得だ。
そう思う自分自身の心さえも、冷たく乾いているのを感じる。
俺は椅子に座り、ナイフで木片を削り始めた。
特に何を作るわけでもない。ただ手を動かしていないと、思考の隙間に過去の影が入り込んでくるからだ。
村では、俺の態度を「冷血だ」と陰口を叩く者も増えてきたという。
幼馴染が去ったのに悲しむ素振りも見せず、困っている村人にも事務的な対応しかしない、と。
言わせておけばいい。
俺はもう、彼らの求める「心優しいアレン」ではない。
あの日、ソフィアの乗る馬車を見送った瞬間に、その男は死んだのだ。
王都からの噂は、風の便りにたまに届く。
聖女ソフィアの活躍は目覚ましく、王国のあちこちで奇跡を起こしているらしい。
彼女は宝石やドレスに囲まれ、毎晩のように夜会で踊り明かしているという。
その噂を聞くたびに、俺の中の無関心という鎧はより分厚く、強固になっていった。
彼女が光の中で笑っているなら、俺はこの闇の中で沈黙を守るだけだ。
交わることのない二つの世界。
かつて一つの未来を見ていた二本の線は、今はもう、永遠に平行線を辿ることもなく、決定的に引き離されていた。
俺は削り終えた木片を暖炉に放り込んだ。
炎が一瞬だけ明るく燃え上がり、すぐに元の弱々しい灯りに戻った。
長い冬は、まだ始まったばかりだった。




