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「聖女」の残響、凍てついた約束 ―魅了の騎士が遺した断罪の記録―  作者: ledled


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第2話 変貌する聖女、抉られた心

翌朝、目が覚めたとき、世界は何一つ変わっていないように見えた。

小鳥のさえずりが聞こえ、カーテンの隙間から朝日が差し込み、遠くで牛の鳴き声がする。昨夜の宴の喧騒が嘘のような、いつも通りの穏やかな朝だ。だが、俺の胸の奥には鉛を飲み込んだような重苦しい違和感が居座っていた。


「……ソフィア」


寝台から起き上がり、顔を洗う間もその名が口をついて出る。

昨夜の彼女の瞳。熱っぽく、どこか焦点の合わない、陶酔しきったあの瞳が脳裏に焼き付いて離れない。俺たちは幼い頃から互いのすべてを知っていたはずだ。彼女が何を喜び、何を悲しむか。どんな夢を見て、どんな未来を描いていたか。

だが、昨夜のソフィアは、俺の知らない誰かのようだった。

勇者ガイアスの言葉という猛毒が、一晩で彼女を変えてしまったのだろうか。それとも、俺が信じていた「慎ましく優しいソフィア」こそが、彼女の一側面に過ぎなかったのか。


不安を振り払うように身支度を整え、俺は家を飛び出した。

村の空気は妙に浮足立っていた。すれ違う村人たちの顔つきが、どことなく上気している。「おはよう」と声をかけても、返ってくるのは心ここにあらずといった生返事か、あるいは興奮を隠せない早口の挨拶だ。


「見たか? 今朝、勇者様が村外れの泉を清めてくださったそうだ」

「ああ、濁っていた水が真水のように透き通ったらしいぞ。やはり本物の英雄は違う」

「ソフィアも一緒だったそうだ。あの二人、本当にお似合いだよな」


村人たちの会話が耳に刺さる。

かつて、「アレンとソフィアはお似合いだ」と微笑ましく言っていた同じ口が、今は掌を返したように勇者と聖女の組み合わせを称賛している。そこには悪意はない。ただ、圧倒的な光に目を焼かれ、これまでの小さな灯火のことなど忘れてしまっただけなのだ。それが余計に俺を惨めな気持ちにさせた。


ソフィアの家に着くと、ちょうど彼女が出てくるところだった。

その姿を見て、俺は息を呑んだ。

彼女は、いつもの動きやすい麻の服ではなく、昨夜ガイアスから贈られたという豪奢なドレスを身に纏っていた。農作業や家事をするにはあまりに不向きで、この村の風景からあまりに浮いている。けれど、丁寧に化粧を施された彼女は、息を呑むほど美しかった。


「ソフィア……」


俺が声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせ、ゆっくりとこちらを向いた。

その瞳と目が合った瞬間、背筋に冷たいものが走った。

かつて俺に向けられていた親愛や安心感はそこにはなかった。あるのは、困惑と、ほんの少しの……侮蔑のような色。


「……アレン。おはよう」

「おはよう。……その格好、どうしたんだ? 今日は畑の手伝いをする約束だっただろ?」


俺が努めて明るく振る舞おうとすると、ソフィアは眉をひそめ、信じられないものを見るような目で俺を見た。


「畑? 何を言っているの、アレン。ガイアス様が、今日の午後には王都へ向けて出発なさるのよ。お見送りの準備をしなきゃいけないのに、泥いじりなんてしている暇はないわ」

「お見送り……? 待ってくれ、ソフィア。まさか、本当に行くつもりなのか?」


俺は彼女に歩み寄り、その細い肩を掴もうとした。

だが、その手が触れる直前、ソフィアはパシッと俺の手を払いのけた。乾いた音が、朝の静寂に響き渡る。

俺の手が空中で止まる。払われた手の甲が、じんじんと熱を持ったように痛んだ。


「気安く触らないで」


彼女の声は、氷のように冷たかった。


「……ソフィア?」

「私の体は、もう私だけのものではないの。世界を救うための『聖女』としての体なのよ。土で汚れた手で触れられるのは……少し、不愉快だわ」


耳を疑った。

土で汚れた手。それは俺たちが生きる証であり、彼女と共に耕してきた日々の象徴だったはずだ。彼女自身、昨日まではその手を誇りに思っていたはずなのに。


「どうしちまったんだよ。昨日の酒がまだ残ってるのか? 俺だぞ、アレンだぞ。ずっと一緒に育ってきた……」

「過去の話をしないで!」


ソフィアが叫んだ。その顔には、激情と焦燥が入り混じっていた。


「アレンはいつもそう。過去、過去、過去……。昔の約束とか、子供の頃の思い出とか、そんなちっぽけな石ころにしがみついて、私までそこに縛り付けようとする。どうして、もっと広い世界を見ようとしないの? どうして、私の可能性を祝福してくれないの?」


彼女の言葉は、まるで何者かに吹き込まれた台本を読み上げているかのように流暢だった。だが、そこに込められた感情の熱量は本物だ。彼女は本気で、俺を「足枷」だと感じ始めている。


「ちっぽけな石ころ……? 俺たちの時間は、お前にとってそんな無価値なものだったのか?」

「……ええ。今にして思えば、そうね。井の中の蛙だったわ。ガイアス様に教えていただいたの。外の世界には、もっと素晴らしい輝きがあるって。私たちが大事にしていたものなんて、広い世界から見ればただのゴミのようなものだって」


違う。ソフィアはそんなことを言う人間じゃない。

彼女は野に咲く小さな花を愛し、老人の皺だらけの手を握り、貧しい食事でも笑顔で分け合える女性だった。

誰だ。俺のソフィアを殺したのは。

脳裏に、あの黄金の髪をした男の笑顔が浮かぶ。ガイアス。あの男が、彼女の心に土足で踏み入り、大切なものを全て書き換えてしまったのだ。


「ガイアスに……何をされた? あいつは、お前をたぶらかしているだけだ! 『魅了』とかいうおかしな術を使っているに違いない!」

「やめて! ガイアス様を侮辱しないで!」


ソフィアの平手が、俺の頬を打った。

痛みよりも、その事実に心が砕け散りそうだった。彼女に叩かれたことなど、一度もなかった。喧嘩をしたことさえ数えるほどしかない。そんな彼女が、出会って一日の男のために、俺を傷つけることを選んだ。


「あの方は、私を暗闇から救い出してくれたの。魅了なんて使っていないわ。これは、私が自分の意志で選んだことよ。……アレン、あなたには失望したわ。まさか、自分の嫉妬心で英雄を中傷するなんて」


彼女は冷ややかな瞳で俺を一瞥すると、踵を返して家の中へと戻っていった。バタンと閉ざされた扉が、俺たちの関係の終わりを告げる断頭台の音のように響いた。


俺はしばらくそこから動けなかった。

頬の痛みよりも、胸の奥に開いた風穴があまりにも大きく、冷たい風が吹き抜けていくのを感じていた。


昼下がり、村の広場には再び多くの人々が集まっていた。

昨日よりもさらに熱狂的な空気が漂っている。中央には一段高い演台が設けられ、そこにはガイアスと、長老、そしてソフィアが並んでいた。

俺は人垣の後ろで、亡霊のように立ち尽くしていた。止めるべきだという理性が叫んでいるのに、足が前に進まない。ソフィアの拒絶が、呪いのように俺の心を縛り付けている。


ガイアスが一歩前に出ると、広場は静まり返った。彼は満足げに頷き、よく通る声で語り始めた。


「親愛なる村の皆よ。私は今日、この地を去る。だが、それは永遠の別れではない。私は新たな希望と共に、旅立つのだ」


彼は芝居がかった仕草でソフィアの手を取り、高々と掲げた。


「ここにいるソフィアは、自身の運命を受け入れ、私と共に世界を救う旅に出ることを決意してくれた! 彼女こそが、この村が生んだ奇跡! 王国を、いや、世界を照らす光となるだろう!」


わあああっと歓声が上がった。

拍手と口笛、称賛の声が嵐のように巻き起こる。誰もがソフィアを祝福し、彼女を送り出すことに陶酔している。自分の娘や友人が、危険な旅に出ることを心配する声など一つもない。まるでおとぎ話のハッピーエンドを見ているかのような、無責任な熱狂だ。

ソフィアは頬を紅潮させ、涙ぐみながら観衆に手を振っている。その姿は、確かに「聖女」として完成されていた。隣に立つガイアスの引き立て役として、完璧なまでに。


「……ふざけるな」


俺の口から、掠れた声が漏れた。

こんな茶番で、俺の大切な人が奪われてたまるか。世界を救う? 聖女? そんな大層な名目のために、彼女の人生を消費させてたまるか。

俺は人垣を掻き分けた。突き飛ばされた村人が舌打ちをするが、構わずに進む。


「待ってくれ! ソフィア!」


演台の前に躍り出た俺を見て、歓声がまばらに途切れた。

ガイアスが不快そうに眉をひそめる。長老が慌てて俺を制しようと手を伸ばした。


「アレン! 何をしておる、下がりなさい! 勇者様の門出を汚す気か!」

「うるさい! 俺はソフィアと話をしているんだ!」


長老の手を振り払い、俺は演台の上のソフィアを見上げた。彼女は驚いたように目を見開き、そしてすぐに、朝と同じ冷たい表情に戻った。


「……アレン。まだ何か用?」

「行くな、ソフィア。騙されるな。そいつは……そいつは、お前を利用しようとしているだけだ! 村を出て幸せになれる保証なんてどこにもない。俺たちの約束はどうした? 一緒に生きていくって、誓ったじゃないか!」


必死の叫びだった。なりふり構わず、俺の全てを言葉に乗せた。

だが、その言葉が彼女に届くことはなかった。

ソフィアはため息をつき、ガイアスの顔色を伺った。ガイアスは鷹揚に頷き、「君の言葉で伝えてあげなさい」と優しく背中を押した。その仕草すら、飼い主がペットに芸をさせているように見えた。


ソフィアは一歩前に出て、冷徹な視線で俺を見下ろした。

広場中の視線が、俺と彼女に注がれている。


「アレン、しつこいわ。はっきり言わないと分からないのね」


彼女の声は、広場の隅々まで響くように凛としていた。


「あの約束は、間違いだったの」

「……間違い?」

「ええ。狭い村しか知らなかった私が、同情と幼馴染の情だけで交わしてしまった、愚かな口約束よ。愛なんてなかった。ただの習慣だったの」


世界が回転したようなめまいを覚えた。

同情。習慣。愛なんてなかった。

俺が信じていた十数年は、彼女にとってはその程度のものだったのか。


「ガイアス様に出会って、私は初めて『真実の愛』を知ったの。魂が震えるような、運命の出会いをね。アレン、あなたとの日々は……今の私には色褪せたモノクロの記憶でしかないわ。むしろ、私の翼を鎖で繋ぎ止めていた、忌まわしい過去なの」


ソフィアの言葉の一つ一つが、鋭利な刃物となって俺の心臓を抉っていく。

彼女はガイアスの腕に身を寄せ、うっとりと彼を見上げた。


「私は行くわ。輝かしい未来へ。あなたみたいな平凡で退屈な男と、泥にまみれて一生を終えるなんて御免よ。さようなら、アレン。……二度と、私の前に現れないで」


決定的な拒絶。

公衆の面前での、完全なる断罪。

広場は静まり返り、やがてクスクスという失笑が漏れ始めた。「あいつ、振られたぞ」「身の程知らずめ」「聖女様の邪魔をするからだ」という嘲笑がさざ波のように広がる。

ガイアスは勝利者の笑みを浮かべ、俺を見下ろしている。その瞳には、明確な優越感と、「お前の大事なものは全て奪った」という無言のメッセージが込められていた。

そして彼は、懐から取り出したペンダントをさりげなく撫でた。紫色の宝石が、妖しく明滅したのを俺は見た。

やはり、魔導具だ。魅了の力が、彼女を、そしてこの場にいる全員を狂わせている。

けれど、今の俺にそれを証明する術はない。何を言っても「振られた男の負け惜しみ」として処理されるだけだ。


「さあ、行こうか、私の聖女」

「はい、ガイアス様……」


二人は馬車へと乗り込んだ。

白銀の馬車が動き出す。御者が鞭を振るい、蹄の音が鳴り響く。

村人たちは再び歓声を上げ、色とりどりの紙吹雪を舞い散らせた。その華やかな光景の中で、俺だけが色のない世界に取り残されていた。


馬車の窓から、ソフィアが顔を出すこともなかった。

彼女はもう、振り返らない。後ろにあるのは「ゴミ」だけだと信じ込まされているからだ。

遠ざかる馬車の轍を見つめながら、俺の中で何かが完全に死んだ音がした。

怒りも、悲しみも、悔しさも、すべてが限界を超えて蒸発し、あとに残ったのは底知れぬ「虚無」だけだった。


「……そうか」


俺は誰に言うでもなく呟いた。


「お前がそう望むなら、それでいい」


ソフィア。お前が俺を捨て、約束を捨て、過去を汚点と断じたなら。

俺も捨てよう。お前への愛も、優しさも、情熱も。

心を守るために、俺は感情という扉を固く閉ざした。これから訪れるであろう孤独な冬に耐えるには、心など邪魔なだけだ。


馬車が見えなくなっても、歓声は続いていた。

俺は膝の泥を払い、無表情のまま背を向けた。

村人たちが投げる嘲笑や同情の視線が肌に突き刺さるが、もう何も感じなかった。

空はどこまでも青く、残酷なほどに晴れ渡っている。

それが俺にとっての、「聖女」がいた季節の終わりだった。

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