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「聖女」の残響、凍てついた約束 ―魅了の騎士が遺した断罪の記録―  作者: ledled


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第1話 幸福の足音、崩落の前兆

北の山脈から吹き下ろす風には、微かに冬の匂いが混じり始めていた。けれど、木漏れ日が降り注ぐ森の中はまだ穏やかな暖かさに満ちていて、足元の落ち葉を踏みしめる音だけが静寂の中に響いている。

俺、アレンは斧を切り株に突き立て、額に滲んだ汗を手の甲で拭った。吐き出す息は少し白く濁るが、体を動かした後の火照った体には心地よい冷たさだ。ここは王国の最果て、辺境と呼ばれるこの村での生活は決して楽ではない。冬は厳しく、作物は育ちにくい。魔物の脅威もゼロではない。それでも、この場所には俺の全てがあった。


「アレン! お昼、持ってきたよ」


鈴を転がしたような声が、木々の間から聞こえた。振り返ると、バスケットを両手で抱えた少女が小走りにこちらへ向かってくるのが見えた。

ソフィアだ。

亜麻色の長い髪を緩く編み込み、質素な村娘の衣装を身に纏っているが、その白磁のような肌と、どこまでも透き通る碧眼は、どんな宝石よりも輝いて見える。彼女が笑うだけで、薄暗い森に花が咲いたような錯覚さえ覚える。


「わざわざ悪いな、ソフィア。今戻ろうと思ってたところなんだ」

「ううん、天気もいいし、外で食べたほうが美味しいでしょ? 今日はアレンの好きな香草焼きにしたの」


彼女は切り株の隣にある平らな岩の上にバスケットを置くと、手際よく布を広げ始めた。その何気ない仕草の一つ一つが、俺の胸を温かいもので満たしていく。

俺とソフィアは、物心ついた頃からの幼馴染だ。親同士も仲が良く、兄弟のように、あるいはそれ以上に近い距離で育ってきた。村の誰もが、いずれ二人は一緒になるものだと疑わなかったし、俺自身もそう願っていた。そして先月、十八歳になったのを機に、俺は彼女に想いを告げたのだ。

答えは、涙で濡れた満面の笑みと、「はい」という言葉だった。


「はい、どうぞ。パンも今朝焼いたばかりだから、まだ柔らかいと思うわ」

「ありがとう。……うん、美味い。ソフィアの料理は、王都のレストランにも負けないんじゃないか?」

「もう、言い過ぎよ。王都なんて行ったこともないくせに」


ソフィアはくすくすと笑い、自分の分のパンをちぎって口に運んだ。

王都。それはこの辺境の村に住む俺たちにとって、物語の中にしか出てこないような遥か遠くの世界だ。華やかな舞踏会、石造りの立派な建物、煌びやかな衣装を纏った貴族たち。吟遊詩人が語るその世界は、土と草の匂いにまみれた俺たちの日常とは対極にある。

だが、俺にはこの日常こそが至上の幸福だった。

ソフィアが隣にいて、一緒に食事をして、何気ない会話を交わす。これ以上の幸せが、どこにあるというのだろう。


「ねえ、アレン。来月の収穫祭のことなんだけど」

「ああ。長老には話を通してある。祭りの最後に、俺たちの結婚を村のみんなに発表させてくれるって」

「……本当に? 嬉しい。私、上手く笑えるかな」

「ソフィアなら大丈夫だろ。いつもの笑顔で十分だよ。村のみんなも待ってたことだし、きっと大騒ぎになる」


ソフィアの頬が微かに赤らむ。彼女は俯きがちに「そうね」と呟き、俺の手に自分の手を重ねた。その手は、畑仕事や家事で少し荒れているが、俺にとっては世界で一番愛おしい温もりだった。

彼女には特別な力がある。村の誰もが「聖女」と呼ぶその力は、触れるだけで傷を癒やし、枯れかけた植物に活力を与える奇跡の御業だ。だが、ソフィアはその力を決して誇示しなかった。怪我をした子供がいれば黙って頭を撫でて治し、不作の年には夜中にこっそりと畑を回って土を清めた。

そんな彼女の献身と優しさを知っているからこそ、俺は一生をかけて彼女を守り抜くと誓ったのだ。この閉ざされた、けれど平穏な世界で、彼女と添い遂げること。それが俺の未来の全てだった。


昼食を終え、村へ戻る道すがら、ソフィアがふと空を見上げた。

澄み渡る秋の空に、一筋の影が横切っていく。鳥ではない。もっと大きな、人工的な何かだ。


「あれ……何かしら?」

「飛竜便か? いや、それにしては編隊を組んでるな」


俺の胸に、理由のないざわめきが走った。

遠くから、重厚な馬蹄の音が聞こえ始めていた。一頭や二頭ではない。大地を揺るがすような、軍隊の行進のような響き。それが村の方角へ近づいている。

俺たちは顔を見合わせ、急いで足を速めた。村の入り口に近づくにつれて、その音は明確な轟音となり、村人たちのざわめきと混じり合っていった。

村の広場には、既に多くの人が集まっていた。その視線の先にあるのは、見慣れた村の風景には似つかわしくない、あまりにも異質な光景だった。


白銀の甲冑を纏った騎士たちが、整然と隊列を組んで並んでいる。その中央には、黄金の装飾が施された豪奢な馬車と、一際立派な白馬に跨る男の姿があった。

掲げられた旗には、王国の紋章である双頭の鷲が描かれている。

王都からの使者だ。徴税官にしては警備が厳重すぎるし、ただの視察にしては規模が大きすぎる。


「アレン、あれ……」

ソフィアが俺の腕を強く掴んだ。彼女の手が震えているのが分かる。俺は彼女を庇うように一歩前に出て、広場の中心へと視線を凝らした。

村の長老が、腰を低くして白馬の男に話しかけている。


「ようこそお越しくださいました、勇者ガイアス様。このような辺境の地に、王国の英雄が足を運ばれるとは、身に余る光栄でございます」


勇者。ガイアス。

その名は、この辺境にも届いていた。数々の魔物を討ち果たし、隣国との戦争を勝利に導いたという、現人神のような英雄。吟遊詩人が最も好んで語る、現代の伝説。

白馬から降り立ったその男は、まさに物語から抜け出してきたかのような容姿をしていた。

陽光を反射して輝く金色の髪、意思の強さを感じさせる青い瞳、鍛え上げられた長身を包む煌びやかな鎧。泥と汗にまみれた俺たち村人とは、生きている種族が違うかのような圧倒的なオーラを放っていた。


「長老、堅苦しい挨拶は不要だ。私は王命を受け、この世界の未来を左右する『鍵』を探しに来たのだから」


ガイアスの声は、よく通るバリトンの美声だった。その声を聞いただけで、広場にいた女性たちが一斉に頬を紅潮させ、ため息を漏らしたのが分かった。いや、女性だけではない。男たちでさえも、彼のカリスマ性に当てられたように、畏敬の念を抱いて見つめている。

だが、俺だけは違った。

彼の声を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走ったのだ。それは本能的な警戒心であり、捕食者を前にした小動物の直感に似ていた。あまりにも完璧すぎる笑顔、あまりにも計算された仕草。その全てが、どこか作り物めいて見えた。


「鍵、でございますか?」

長老が戸惑ったように問い返す。

ガイアスは優雅に頷き、そしてゆっくりと視線を巡らせた。その青い瞳が、群衆の中をサーチライトのように滑っていく。

そして、止まった。

俺の背後に隠れるようにしていた、ソフィアの姿を捉えて。


「見つけた」


ガイアスが短く呟き、真っ直ぐにこちらへ歩き出した。

人垣が自然と割れていく。まるで海が割れる奇跡のように、彼とソフィアの間には道ができた。俺は動けなかった。蛇に睨まれた蛙のように、体が金縛りにあったかのように重い。

ガイアスは俺の存在など目に入っていないかのように、俺の横を通り過ぎ、ソフィアの目の前で足を止めた。そして、恭しく片膝をつき、彼女の手を取った。


「ああ、なんと美しい……。探していたよ、私の聖女」

「え……あ、あの……」


ソフィアは混乱し、顔を真っ赤にして狼狽えている。しかし、その手は振りほどかれなかった。

ガイアスは彼女の手の甲に口づけを落とし、顔を上げて微笑んだ。その笑顔は、この世の全ての慈愛と情熱を煮詰めたような、強烈な破壊力を持っていた。


「君こそが、神託にあった『救世の光』だ。その清らかな魂、溢れ出る魔力……間違いない。君の力があれば、我々は世界を救うことができる」

「世界を……救う?」

「そうだ。君には、こんな寂れた村で一生を終えるには惜しい、素晴らしい才能がある。私と共に王都へ来ないか? 君の力で、多くの人々を苦しみから救ってほしいのだ」


広場がどよめいた。

村の娘が、勇者に直接スカウトされたのだ。しかも「世界を救う」という大義名分のもとに。村人たちの目は、驚きから次第に羨望と興奮へと変わっていく。「すごいぞソフィア!」「お前は村の誇りだ!」「勇者様のお眼鏡に叶うなんて!」

口々に称賛の声が上がる中、俺は必死に声を絞り出した。


「ま、待ってください!」


俺の声は、熱狂した空気の中でひどく場違いに響いた。ガイアスがゆっくりと視線を俺に向ける。その瞳の奥には、虫ケラを見るような冷ややかな光が一瞬だけ宿ったが、すぐに人当たりの良い笑みに塗り替えられた。


「おや、君は?」

「私はアレン。ソフィアの……婚約者です。彼女は村を出ていくつもりはありません。私たちはここで、静かに暮らしていくと決めたんです」


俺の言葉に、周囲の空気が少しだけ冷えた。村人たちが「何を言っているんだアレン」「勇者様の誘いを断る気か」「もったいない」と囁き合うのが聞こえる。

ガイアスは眉を少し下げ、困ったような、しかし同情を含んだ表情を作った。


「婚約者か。なるほど、それは美しい絆だ。……だが、アレン君と言ったかな。君は、自分の小さな幸せのために、世界中の苦しんでいる人々を見捨てるというのかい?」

「え……」

「彼女の力は、一人の男が独占していいものではない。神が与えた『聖女』の力は、万人のために使われるべきだ。それをこの村に縛り付けるのは、愛ではなくエゴではないかね?」


ガイアスの言葉は、正論のように聞こえた。あまりにも滑らかで、あまりにも英雄的で、反論の余地を与えない。

俺は言葉に詰まった。ソフィアの幸せを誰よりも願っている。だからこそ、彼女が望まない重責を負わせたくない。だが、「世界の人々のために」と言われてしまえば、俺の想いは矮小な独占欲として断罪されてしまう。


「私は……」


ソフィアが小さく声を上げた。

俺はすがるような思いで彼女を見た。断ってくれ。いつものように、「アレンと一緒がいい」と言ってくれ。

しかし、彼女の瞳は揺れていた。

ガイアスの黄金の鎧、洗練された言葉、そして「聖女」として必要とされているという高揚感。それらが、彼女の純朴な心にさざ波を立てていた。


「今すぐ返事をしろとは言わない。今夜は村で宴を開かせてほしい。そこでじっくりと、未来について語り合おうじゃないか」


ガイアスは余裕たっぷりにそう告げると、再びソフィアに微笑みかけ、踵を返した。

残された俺たちは、熱狂する村人たちの渦の中で、ただ立ち尽くしていた。ソフィアの手を握りしめようとしたが、彼女は自分の手についたガイアスの口づけの跡を、ぼんやりと見つめていた。その横顔は、俺の知らない誰かのもののように見えた。


その夜、村の広場はこれまでにないほどの賑わいを見せた。

王都から持ち込まれた上質な酒や料理が振る舞われ、焚き火の周りでは騎士たちと村人たちが入り混じって騒いでいる。普段は静かな村が、まるで別世界になったようだった。

宴の中心にいるのは、もちろんガイアスとソフィアだ。

特等席に座らされたソフィアは、見たこともないほど美しいドレスを着せられていた。ガイアスが用意したものだという。シルクの光沢が焚き火の明かりを反射し、彼女を本物の姫君のように見せている。

ガイアスは彼女の隣にぴったりと寄り添い、グラスを傾けながら何かを語りかけている。ソフィアは時折、頬を染めて恥ずかしそうに笑い、あるいは真剣な眼差しで彼の話に聞き入っている。


俺は、その輪の外側にいた。

村の若者たちも、長老さえも、勇者一行をもてなすことに夢中で、俺のことなど気にかけていない。俺がそこへ割って入ろうとすれば、無粋な邪魔者として扱われるだろう。

グラスの中のエールは温くなり、苦味だけが口の中に残る。

何かが、音を立てて崩れ始めている気がした。

俺とソフィアが積み上げてきた十数年の時間が、たった半日の出来事によって侵食されていく。


「……アレン?」


ふと、背後から声をかけられた。

振り返ると、少し疲れたような顔をしたソフィアが立っていた。ドレスの裾を持ち上げ、俺の方へ歩み寄ってくる。周囲の喧騒から少し離れた、木陰のベンチだ。


「ソフィア。……大丈夫か? 随分と飲まされていたみたいだけど」

「うん、少しだけ。ガイアス様がね、魔法で酔わないようにしてくれたの。……すごいわ、アレン。王都の話、聞いた? 空を飛ぶ馬車や、夜でも昼のように明るい街灯、魔法で動く人形の話……」


彼女の目は、熱っぽく輝いていた。それはアルコールのせいではなく、未知の世界への憧れと興奮によるものだ。俺が昼間に見た、穏やかな彼女の瞳とは違う色が混じっている。


「ガイアス様はね、私の力がどれほど素晴らしいかを教えてくれたの。この村で野菜を育てるだけじゃなくて、もっと大きな……歴史に残るようなことができるって」

「ソフィア、お前は本当にそれを望んでいるのか? 俺たちの約束は……結婚して、この村で暮らすっていう約束は、どうなるんだ」


俺の言葉に、ソフィアの表情が微かに曇った。彼女は視線を泳がせ、焚き火の向こうにいるガイアスの姿をちらりと見た。


「忘れてないわ。もちろん、アレンのことは大好きよ。……でも、私、怖いの。自分の可能性を知らないまま、この小さな世界で終わってしまうことが。もし、私が本当に世界を救えるなら……それを見過ごすのは、罪なんじゃないかって」


彼女の言葉は、昼間にガイアスが言ったことの受け売りのように聞こえた。あの男の言葉が、毒のように彼女の心に浸透し始めている。

「魅了」の魔法。そんな御伽噺のような力があるのかは知らない。だが、ガイアスという存在そのものが、世間知らずの彼女にとって抗いがたい「魅了」であることは間違いなかった。


「アレンも一緒に来れればいいのに」

「俺は、村を離れられない。お袋の墓もあるし、畑だって放り出せない。それに……俺はあの男が信用できないんだ」


俺がそう言うと、ソフィアは眉をひそめ、少し強い口調で言った。


「どうしてそんなことを言うの? ガイアス様は、あんなに親切にしてくれているのに。私たちの村のために、あんなに沢山の食料や金貨を置いていってくれるって言ってたわ。あの方を疑うなんて、アレンらしくない」

「ソフィア……」

「ごめんなさい、少し疲れてるみたい。もう戻るわね」


ソフィアは逃げるように背を向け、煌びやかな光の輪の中へと戻っていった。

彼女の背中が、ひどく遠く感じた。物理的な距離は数メートルしかないのに、そこには決して超えられない断絶が生まれつつある。

宴の喧騒は深夜まで続いた。

俺は暗闇の中で、ガイアスがソフィアの肩に手を回し、耳元で何かを囁くのを見ていた。ソフィアは拒まなかった。それどころか、身を委ねるように彼の側に寄り添っていた。


俺の心の中で、冷たい風が吹き荒れていた。

冬が来る。

今まで経験したことのない、長く、凍てつくような冬が、すぐそこまで迫っている。

「聖女」と呼ばれた幼馴染。共に歩むはずだった未来。

それらが音を立てて崩落し始める予兆を、俺はただ無力に噛み締めることしかできなかった。

星のない夜空の下、村人たちの歓声だけが、虚しく響き続けていた。

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