第9話:標準の定着「街の息を合わせる、約束の四拍子」
レザムーア王国の首都ケイルハーベン。北門へと続くメインストリートは、朝霧が薄く漂い、石畳が冷気を吸って白く曇っていた。シン・タナカ(田中慎吾)は腰の革ケースからマジックコムを外し、親指の当たる位置を確かめた。革の角は日々の運用で少し丸くなり、そこに残る微かな跡が、今日の足場の感覚を指先に返す。
「おはようございます、師匠!」
リオ・ブライトウィングが駆けてきた。後ろにはガルフ組の古参作業員ダン、さらに見習いの若手が二人続く。
「今日は四拍子を固定する。一拍目が指示、二拍目が復唱、三拍目で旗、四拍目で流れ。これで一呼吸だ。息は全員でひとつにする。途中で勝手に足さない」
「はい!」
「了解だ、シン」
「よろしくお願いします!」
慎吾は路面にチョークで一本の白線を引き、立ち位置を示した。
「合図の窓は肩から肩の幅。そこで大きく、外では小さく。風に出るときは真上で止める。感度確認。北、止め」
『北、止め了解』
三拍目、リオの赤旗が真上で静止する。
「南、進め」
『南、進め了解』
ダンの旗が軌道の内側で弧を描く。
見習いの復唱が半拍遅れた。
「今の二拍目、半拍遅い。復唱は橋だ。橋が撓めば向こう岸が沈む。肩と目で揃えろ。現場の息は耳だけじゃない」
「すみません、次は合わせます」
「謝るより合わせろ。次の一拍で取り返せ」
朝日が城壁を越え、槍先が薄金に瞬く。屋台の骨組みがきしむ音に、四拍子の呼吸が少しずつ重なり始めた。
七つの鐘が鳴るころ、通りは喧噪を取り戻す。収穫祭を前に、葡萄酒の樽や香辛料を積んだ馬車が南北から押し寄せ、ロープの外には御者たちの輪ができた。
「いい加減にしろ! 門の前で工事なんざ無茶だ!」
「いつまで待たせる! この荷は鮮度が命なんだ!」
「先頭が見えねえ。誰が順番を決めてる!」
御者組合の古株が一歩前に出る。額の皺には怒りだけではなく
「いつ通れるか分からない」不安が刻まれていた。慎吾は黒板を立て、チョークを走らせた。
「一回の通過は北五十台、南五十台。一往復三分、四往復で十二分。今の列は北が百四十、南が百十。二十四分で半分が捌けます。早める唯一の方法は、皆さんが指示に従って息を揃えること。怒鳴っても道は早くならない。約束を守ってくれれば、実数で返します」
「論戦じゃなく、数字でってことか」
古株が腕を組む。
「はい。嘘は吐かない。嘘を吐けば約束が崩れ、街の流れが止まる」
「……よし。坊主、数字でやろう。こっちも札を掲げる」
「感謝します。全ポスト、作戦開始」
慎吾は親指でボタンを押した。
「北、止め」
『北、止め了解』
「南、進め」
『南、進め了解』
流れが生まれる。列の前方で怒鳴っていた御者が、旗の高さと復唱の拍を二度見ると、舌打ちを一度だけして黙った。隣の御者が肩で笑い、「数字で返すってのは、案外悪くねえな」と小さくつぶやく。
「苦情帳はここだ。『文句』『感想』『提案』の三つに分けて書いてくれ」
慎吾は机の上に帳面を置き、ペンを示した。
「感想なんか、誰が書く」
「昨日、『同じ声で安心した』がひとつ入った。流れが良くなれば、文句は感想に近づく」
都市開発局次官のエリザベートと補佐官ヴィオラが通りの端に姿を見せた。黒塗りの馬車の窓からは青いリボンのリリィが覗いている。今日は本査察ではない。だが、視線の圧力は十分だった。保守派のデュラン伯も随行し、杖の銀頭を親指で撫でながら、鼻先だけで笑った。
「シン准男爵。『カタコウ』で本当にこの列が制御できるのですか。事故でも起きれば、工事は無期限停止、あなたの爵位も危うい」
「警備員のせいで事故が起きるなど言語道断です。ご覧ください。私たちのシステムです」
慎吾は短く答え、合図を続けた。
「北側から先行。リオ、十台流せ。南は完全停止を維持。北のラストは白毛の馬車。確認まで絶対に開けるな」
『了解、北ラスト白毛までホールド!』(リオ)
『南、停止維持了解』(ダン)
百二十メートルの距離が、一本の声の糸で結ばれる。
その時、突風が帆布を煽り、屋台の干し網がばさりと落ちた。御者二人が条件反射で前に出かける。
「動くな。止めは止めだ。旗を真上で固定、声で押さえる」
慎吾は押し続け、復唱を重ねさせた。
『北、止め維持』(リオ)
『南、止め維持』(ダン)
風が一度だけ強く鳴り、すぐ抜けた。沈黙が二呼吸ぶん落ちる。沈黙は虚無ではない。合図の欠落は止めに等しい。人は自然に足を止め、視線を上げる。若手が短く息を整えた。
「今の沈黙、怖かったですけど、効きますね」
「怖いから効くんだ。怖さを規格にしてしまえば、誰でも使える」
正午が近づくと、北の白光が増し、砂埃の幕が立った。地方から香辛料を積んだ列が合流し、粉に混じる油分が陽光を散らして視界が薄くなる。色が半拍遅れて目に入る。ルナ・スターライトが水晶柱の紐を弾いた。
「光の角度が悪い。脳が遅延するわ」
「合図の窓を狭める。視覚の比重を下げて聴覚で拍を取る。北、止め」
『北、止め了解』
「南、進め」
『南、進め了解』
ちょうどその時、北側の列で馬が油に滑り、前輪が石畳の目地に引っ掛かった。ダンの親指が条件反射で押され、同時に慎吾も押す。
「師匠、競合!」
ノイズがわずかに膨らみ、すぐに消える。マジックコムからは一語だけが残った。
『止め!』
前夜にルナと調整した優先割り込み処理が作動した。全地点の赤旗が同じ高さで固まり、馬車は目地を跨いだところで静止する。
「……今のは作為か」
デュラン伯が目を細める。
「仕様です。競合時は『止め』以外を切る」
慎吾は短く返した。御者のひとりが帽子を押さえ、
「同時に押しても止まるのか。なら、俺たちの怒鳴り声より頼りになるな」
と唸る。古株は肩を竦め、
「怒鳴り合いは耳を鈍らせる。今は耳が生きてる」
と呟いた。
午後、御者組合との机を囲む話し合いを設けた。慎吾は札と図を並べ、運用を説明した。
「優先札を運用する。緊急医療と火事は赤円に白十字。鮮度が命の荷は朝の一刻を北から南、夕の一刻を南から北に割り振る。変更は必ず札で告知。札は番号で管理、順番は記録する。横入りは数字で正す」
「番号は誰が振る」
「補佐官ヴィオラの手元で一元管理。黒板にも写す」
ヴィオラが帳面を掲げる。
「札の番号、刻印済みです。今日の受付は三十番まで。裏面に時刻も記録します」
「じゃあ、嘘はつけねえな」
古株が口角を上げる。
「つけない仕組みにするのが標準だ」
慎吾は言い、黒板の「安全指標」「通信指標」「苦情帳」の欄を指さした。
「安全指標は接触、未遂、作業停止の件数。通信指標は復唱の平均拍と競合の回数。苦情帳は文句・感想・提案に分けて集計する。数字で返す」
エリザベートが板書を眺め、短く頷いた。
「文句だけだった文字列に、昨日から感想が混じってきましたね」
「流れが生まれると、文句は感想に化けます。化け残った文句は、手順側の不備です」
「言い切りますね、准男爵」
「言い切れない約束は、現場では役に立たない」
夕刻前、黒塗りの馬車の窓がそっと開き、リリィが顔を出した。慎吾は小さな包みを手渡す。
「リリィ様、絵で覚える安全札です。矢印、止め、待て。約束は言葉より先に、形で届きます」
「おんなじ、かたち!」
「そう。同じ形は、同じ安全です」
リリィは三枚の札を並べ、余白に小さなケーキを描き足した。胸の古傷がひときわ疼くが、今はそれが合図になっている。必ず帰る――これは自分自身への復唱でもある。
日が落ちはじめ、撤収の合図が響く。リオが旗を畳み、ダンがロープを束ね、ガルフが柵の脚を点検した。屋台のミレーナが蜂蜜パンを包んで差し出す。
「今日も静かだったね。同じ声って、安心するのよ」
「『ありがとう』を、受け取る訓練中です」
「じゃあ、受け取って」
「いただきます」
黒板に新しい一行が増えた。
「段一運用・二日目 成功。復唱速度 累計一拍短縮。競合 一回(止め優先作動)。誤作動 ゼロ。苦情帳:文句一、感想二、提案一」
デュラン伯はなお疑わしげに板書を見上げ、最後に杖の先で石畳を二度だけ叩いた。
「うぬぼれるな。標準は紙の約束だ。人は破る」
「だから標準は、破れた後のためにもあります。誤作動時は沈黙、競合時は止め。破れ方も共有します」
エリザベートは横で微笑を抑え、ヴィオラは時刻を記した。今日は査察ではない。だが、明日の本番に向けて、街と人の拍は確かに近づいた。
慎吾はマジックコムのボタンに親指を置いた。押して話し、離して聞く。単純で静かな作法が、心の足場をもう一段固くする。親指の腹に残る小さな跡が、今日も確かにそこにあった。
【届かない手紙(第9話)】
大翔、咲良へ。
今日は街の息を合わせる練習を、みんなで本気でやった。四つの拍――指示、復唱、旗、流れ。同じところで吸って、同じところで止めて、同じところで進む。
それだけで怒鳴り声は薄くなり、通りは川のように流れた。競合の瞬間には「止め」だけが残り、沈黙は止めに等しいと、街が覚え始めている。
僕はその『覚え』に助けられている。数字で返す、と約束した。約束は心を立て直すためにある。君たちの声を本当は今すぐ聞きたい。
けれど僕はここで、声を遠くへ、正しく届ける練習を続ける。誰かの「危ない」を〇・〇一秒でも早く渡せた日は、君たちの「おかえり」に一歩近づいた日だと信じている。
約束は変わらない。ケーキは二つ。必ず帰る。
――お父さんより
【第9話 完】
第9話:執筆後記「拍が街を導く」
第9話をお読みいただき、ありがとうございました。 今回は、ついに「片側交互通行」が、魔法通信「マジックコム」を伴って本格始動しました。
1. 職人の感覚を「標準」に落とし込む
今回こだわったのは、慎吾が提唱した「四拍子(指示・復唱・旗・流れ)」というルールです。 異世界の現場では「なんとなく」で行われていた合図を、ITの通信プロトコルのように厳格化する。これにより、専門家ではないハンスのような職人でも、システムの一部として機能できるようになります。「個人の技量」に頼らず「仕組み」で安全を作る、慎吾らしいアプローチを描きました。
2. ITエンジニアとしての「競合回避」
マジックコムの描写では、あえて「競合」と「優先割り込み」という概念を入れました。 複数の人間が同時に話すと声が混ざって聞こえない、という無線の弱点を、慎吾のIT知識とルナの魔法が解決する。この「異世界×現代技術」の融合が、単なる便利道具以上の「プロの道具」としての重みを生んでいます。
3. 「ありがとう」という報酬の重み
これまで現代日本で「いて当たり前(あるいは邪魔者)」として扱われてきた警備員が、この世界では「街の救世主」として感謝される。 この対比は、慎吾の凍てついた心を溶かす唯一の薬です。特に、ヴァルデマー伯爵のような冷徹な権力者と、笑顔で手を振る御者たちのコントラストを通じ、慎吾がどちらを向いて仕事をしているのかを明確にしました。




