第6話:街への貢献と評価「約束の形、守り手の誇り」
ケイルハーベン市の朝は、かつてない静寂と秩序を伴って幕を開けた。
夜明け前の薄闇の中、慎吾は一人、現場の境界線を確認していた。要所を囲うのは、慎吾の発案によって生まれた鮮やかな橙色の「魔法カラーコーン」だ。
ガルフ親方が魔石を練り込んで作り上げた夜間試験用の試作品を数本だけ設置しており、それらは暗闇の中で蛍のような淡い光を放って、道行く人々に「ここから先は危険である」という無言の、しかし確実なメッセージを送り続けていた。
慎吾は冷え切った空気の中で、自分の吐く息が白く消えていくのを見つめた。
(現世でも、こうして夜明け前に現場を回っていたな……)
かつての彼は、利益のために効率を優先し、こうした「地味な手間」を軽視していた。その結果が、あの日、すべての信頼を失う崩壊へと繋がったのだ。今、慎吾が異常なほどに入念な点検を行うのは、過去の自分に対する恐怖と、二度と同じ過ちを繰り返さないという祈りに近い執念からだった。
慎吾は現場の入り口に、木板に白墨で書かれた「安全掲示板」を立てかけた。
*
【本日の安全指標】
事故発生数(件):先週 10 → 今週 1
住民苦情数(件):先週 21 → 今週 7
今週のスローガン:『止め』の勇気が命を救う。
「おはようございます、師匠!」
背後から、元気の良い、しかしどこか引き締まった声が響いた。リオ・ブライトウィングだ。かつての浮ついた様子は影を潜め、その目は鋭く現場の状況を追っている。
「リオ、早いな。始業前の点検項目は?」
「はい! 繊維スリングの摩耗、足場楔の緩み、通路の障害物、すべて指差し呼称で確認済みです。復唱も良好です! 伝令の通りも確認できました!」
「よろしい。……リオ、昨日のヒヤリの件だが」
慎吾の言葉に、リオの身体がわずかに強張った。
「……はい。忘れていません。僕の振った旗が、あの親子を傷つけかけたこと。あの時の重みは、一生消えないと思います」
「そうだ。その『重み』を忘れない奴だけが、警備員を続けられる。今日の旗振りは、昨日の罪を償うためのものではない。今日通る誰かの未来を守るためのものだ。行くぞ」
「はい!」
*
作業が始まって数時間、現場の空気は驚くほど穏やかだった。 以前のこの現場は、怒号と石粉、そして暴走する馬車の衝突音が絶えない地獄のような場所だった。だが今は、慎吾が導入した「カタコウ(片側交互通行)」により、交通の流れは川のようにスムーズだった。
「シンさん、ちょっといいかい」
通りがかりの老商人が、慎吾の腕を軽く叩いた。
「あんたがここに来てから、この通りが本当に歩きやすくなった。前はいつ石が飛んでくるか、馬車に跳ねられるかと、命がけで通ってたんだがね。……おかげで、持病の膝を気にせず買い物に行けるようになった。ありがとうよ」
続いて、通りの屋台でパンを焼くミレーナが、湯気の立つ塩パンを差し出した。
「ほら、これ。警備員さんたちへの差し入れ。あんたたちが砂埃を抑えてくれるから、パンが汚れなくて助かってるの。受け取って」
「……代金を払わせてください」
「いいってば!『ありがとう』を受け取るのも仕事のうちでしょ?」
慎吾は胸の奥が、ジンと熱くなるのを感じた。
(『ありがとう』を、もらっている……)
現世での彼は、金と契約だけで繋がった希薄な人間関係の中にいた。しかし今、この異世界の片隅で、彼は「当たり前の安全」を提供することで、心からの感謝を受け取っている。
その事実は、慎吾が長年抱えてきた「自分は無価値な人間だ」という呪いを、少しずつ、丁寧に洗い流していくようだった。
*
昼前、現場の空気が一変した。 重武装した数名の騎士を伴い、豪華な装飾が施された黒塗りの馬車が停車した。扉が開き、深緑の外套を纏った一人の女性が降り立つ。
エリザベート・フォンブルー。レザムーア王国の都市開発局次官であり、王国内のインフラ整備を一手に担う有能な女性官僚である。
彼女は鋭い金の瞳で現場を一瞥し、慎吾の立てかけた安全掲示板の前で足を止めた。
「シン・タナカ殿。あなたの噂は、王宮の私の机にまで届いています」
慎吾は誘導棒を脇に抱え、警備員としての最敬礼を行った。
「シンと呼んでください、次官殿。本日は視察でしょうか?」
エリザベートは掲示板の数字を指先でなぞり、厳しい口調で言った。
「事故率90%減少は特別ではありませんか?」
慎吾の目を射抜くような視線が飛ぶ。
「建設現場での事故率90%減少。そして住民からの支持率向上。……記録上は完璧です。ですが、私には信じがたい。現場とは本来、混沌と暴力が支配する場所。それを数字だけで管理できるなど、にわかには……」
「特別ではありません」慎吾は彼女の言葉を遮ることなく、静かに、しかし断固として答えた。
「これは、単純な『予測』と『分析』、そして『論理的な管理』の結果です。次官殿、安全とは祈るものではなく、システムで作るものです」
「システム……?」
「はい。従来の現場は、職人の勘という不確かなものに頼りすぎていました。私たちは、危険を事前に数値化し、合図を共通化し、人為的ミスを排除するための手順を揃えたのです。誰が立っても同じ結果が出る。それが私の提唱する『安全』です」
エリザベートは言葉を失った。慎吾の説明は、これまでの精神論や伝統に固執するこの世界の常識とは一線を画す、圧倒的に簡潔かつ合理的なものだった。
「……あなたの『型』は何ですか?」
「『見える・止める・揃える』この三つです。誰にでも同じ形で見える合図を使い、『止め』を最優先し、手順を揃えて属人性を排す。これを私は『街との約束の形』と呼んでいます」
「約束の形……」エリザベートはその言葉を噛みしめるように繰り返した。
ちょうどその時、ロープの外で、母親の手を離れた幼い少年が、荷車の車輪に手を伸ばしかけた。
「止め!」
慎吾は会話を打ち切り、即座に赤旗を真上で静止させた。コンマ数秒後、リオがその声を復唱し、反対側の馬車を止める。荷車は少年のわずか数センチ手前で、ぴたりと止まった。
母親が泣きながら少年を抱き寄せ、慎吾に何度も頭を下げる。
エリザベートはその光景を黙って見届け、ようやく微かな、しかし柔らかな笑みを浮かべた。
「……紙上の数字が、生きた形になっている。納得しました」
彼女は懐から、局の小印が押された特別な羊皮紙を取り出した。
「これは正式な表彰状ではありません。ですが、『街の静けさに寄与した印』としての特別推奨状です。あなたの『約束の形』は、いずれこの国のすべての市門や市場に導入されるべき価値がある。……期待していますよ、シンさん」
*
エリザベートが去り際、ふと馬車の窓を振り返った。そこには、金の髪を肩で切り、水色のリボンを結んだ小さな少女が、こちらを好奇心に満ちた瞳で覗き込んでいた。
「養女のリリィです。体調を崩しがちで、今日は車中から失礼しますが……彼女は、あなたの現場にある『矢印の絵』がお気に入りでしてね。いつも真似をして遊んでいるのですよ」
リリィ。その名を聞いた瞬間、慎吾の心臓が不規則に脈打った。
(7歳……。咲良と同じ歳だ)
慎吾の脳裏に、現世に残してきた娘・咲良の姿が、残酷なまでの解像度で浮かび上がった。
「次官殿……リリィちゃんがいつでも安心して歩ける街を、私が必ず作り上げます。それは、警備員としての……いえ、一人の大人としての約束です」
エリザベートは慎吾の瞳の奥に宿る、痛切なまでの決意と、深い悲しみが混じった慈愛を感じ取り、言葉を失った。
「……あなたのような方がこの街にいてくださって、本当に良かった」
馬車が去った後も、慎吾はしばらくその場を動けなかった。 街の人々からの評価、エリザベートからの信頼。それらを得るたびに、彼の心には重い罪悪感が沈殿していく。
この世界でどれだけ「安全」を守り、どれだけ「ありがとう」と言われても、自分はまだ、あの日ケーキを買って帰れなかった「約束を破った父親」のままだ。
だが、慎吾は再び誘導棒を、折れんばかりの力で握り締めた。 この世界で一人でも多くの「リリィ」を守ることが、いつか巡り巡って、遠い空の下で暮らしているはずの、大翔と咲良への贖罪になると信じて。
夕暮れ時、撤収の合図が響く。 慎吾が書き換えた黒板には、誇らしげな数字が並んでいた。
事故発生数:本日 0
「明日も、静かな一日にしよう」
ガルフの言葉に、慎吾は静かに頷いた。
【届かない手紙(第6話)】
大翔、咲良へ。
お父さんは今日、この街のとても偉い人から、「事故をなくしてくれてありがとう」と褒められました。
街の人たちも、みんな笑顔で挨拶をしてくれるようになりました。 この街の工事現場は、今、世界で一番安全な場所かもしれません。
今日、お父さんは、咲良と同じ7歳の女の子に会いました。 その子は馬車の窓から、お父さんが描いた安全の看板を、一生懸命真似して手を振っていました。
それを見た時、お父さんはまた、胸の奥がぎゅっと痛くなりました。
お父さんはあの日、君たちとの「誕生日ケーキ」の約束を破りました。
君たちがどんなに悲しんだか、どんなに寂しい思いをさせたか。 その罪悪感は、この世界でどれだけの人を助けても、一生消えることはないでしょう。
でも、大翔、咲良。
お父さんは、その消えない罪悪感を抱えたまま、この世界で命を守り続けます。
お父さんがここで「約束の形」を守り続けることが、いつか君たちが暮らす世界も同じように安全であってほしいという、お父さんのたった一つの祈りだからです。
君たちと一緒に、あの「二つのケーキ」を食べるその日まで、お父さんは絶対に足を止めません。
いつか、必ず帰ります。
約束は変わらない。ケーキは二つ。必ず帰る。
愛しているよ。
【第6話 完】
第6話:執筆後記「安全という名の『見えないサービス』が形になる時」
第6話を最後までお読みいただき、ありがとうございました。 前回の苦い経験を経て、慎吾とリオがどのように現場に向き合い、街の人々と関わっていくのかを描いた「信頼回復」のエピソードでした。
1. 「安全」は祈りではなく、システムで作る
今回、都市開発局次官のエリザベートが登場しました。彼女が発した「事故率90%減少は特別ではありませんか?」という問いは、現代社会においても非常に鋭い質問です。 これに対し、慎吾が「特別ではない。論理的な管理の結果だ」と言い切るシーンには、彼の警備員としての、そしてかつてのビジネスマンとしてのプロの矜持を込めました。魔法が支配する世界で、「論理」と「仕組み」で命を守る慎吾の異質さが、逆に彼の信頼性を際立たせています。
2. 「ありがとう」という報酬
慎吾にとって、屋台のミレーナからもらった塩パンや、老商人からの感謝の言葉は、金貨よりも価値のあるものでした。 現世で信頼を失い、自己肯定感を粉々にされた慎吾にとって、「自分の仕事が誰かの当たり前の日常を守っている」と実感できる瞬間は、彼自身の魂を救うプロセスでもあります。読者の皆様にも、その温かさが伝わっていれば幸いです。
3. 「7歳」という残酷な符合
エリザベートの養女リリィの存在は、慎吾に希望と同時に、深い痛みを与えます。 娘の咲良と同じ年齢の少女が、自分の作った「安全の看板」を見て喜んでいる。その事実は、慎吾を鼓舞すると同時に、「なぜ自分は咲良のそばにいてやれなかったのか」という罪悪感を再燃させます。この「救いたいという願い」と「守れなかった後悔」の二律背反が、慎吾をさらなる高みへと突き動かしていくことになります。
【次回の展望】 エリザベートからもらった「推奨状」。これが慎吾たちの立場をどう変えていくのか。 そして、リオの成長は本物なのか。次回、新たな警備依頼や、ギルド間の思惑が絡み合い、物語はさらに加速していきます。
慎吾が「二つのケーキ」の約束を果たすその日まで、彼の歩みは止まりません。




