第5話「旗振りの意味」
朝の安全点検を終えた後、シン・タナカ(田中慎吾)は、見習いのリオ・ブライトウィングを現場の脇に呼び出した。この日、慎吾が指導するのは、警備員としての最も基本的であり、最も責任の重い技術である交通誘導の旗振りだった。
慎吾は木板に炭で描いた図を立てかけた。
「合図は三つだけでいく。『進め』『待て』『止め』。迷ったら止める。止めは最優先だ。」
慎吾の真剣な眼差しに対し、リオはどこか浮ついた様子だった。これまでの危険予知のような魔法めいた技術を期待していた彼は、泥臭い旗振りに興味が持てないようだった。 「旗振りですか? 赤で止まれ、緑で進めですよね。簡単じゃないですか。これまでの石運びより楽そうで助かります」
リオの言葉に、慎吾の顔が厳しく引き締まった。かつて現世で警備員の仕事を「誰でもできる仕事」だと見下していた頃の自身の傲慢さが、リオに重なって見えたからだ。
「リオ、その考えはプロとして最も危険な慢心だ」慎吾は静かに言った。「旗は飾りじゃない。言葉の代わりであり、命を預かる契約書だ。」
慎吾は全角で書かれた旗振りのマニュアルを広げ、具体的な動作を指導した。
「まず、ここが『合図の窓』だ」慎吾は自分の胸から頭上の空間を手で示した。「運転手から見える四角の中だけで大きく動かす。窓の外で小さく振るな。『見えない合図』は存在しないのと同じだ。」
「は、はい……」
「左手の赤旗は、危険を察知したら力強く高く上げ、体全体で『STOP』を表現する。右手の緑旗は『進んでよし』だが、ただ振るんじゃない。肩から肩へ大きく一往復、旗先は斜め下四十五度だ。」
慎吾の指導は微に入り細を穿つものだったが、リオは器用にそれを真似てみせた。
「ほら、師匠。もう覚えましたよ。こんなに厳しく考えなくてもいいんじゃないですか?」
慎吾は深く息を吸い込み、リオの目をまっすぐ見据えた。
「いいか。周りの通行人や馬車の御者は、その制服と旗を信じている。君の指示に従えば安全だと、命を預けているんだ。その信頼を一瞬でも裏切れば、どうなる?」
「事故……になります。」
「そうだ。そして、その事故の責任は、旗を振った君にある。」
慎吾がそう説いても、リオの目にはまだ、若さゆえの「自分は大丈夫だ」という色が残っていた。
*
慎吾は、理論だけでは警備員の哲学は伝わらないと判断し、市街地での小規模な資材運搬現場の交通整理にリオを配置した。
「リオ、今日は実際の交差点で旗振りを体験してもらう。私はすぐそばの脇道から監視している。何かあったらすぐにマジックコムで連絡しろ」
「お任せください!」リオは自信満々に返した。
市街地は魔獣の革や食料を運ぶ馬車と、買い物をする歩行者で賑わっていた。リオは当初、指導通りに赤旗と緑旗を使い分け、「合図の窓」を意識したスムーズな交通整理を行っていた。
(なんだ、本当に簡単じゃないか。師匠は心配性だな。これなら休憩中でも問題ない)
そう思った瞬間、リオの心に油断が生まれた。ちょうど、角から美しい絹服をまとった女性商人が通りかかった。リオは一瞬、その女性に見惚れ、注意がそちらに引きつけられてしまった。
そのわずか二秒間の気の緩みが、事故を引き起こした。
リオは次の馬車が角を曲がるのを待っていたが、脇道から予想外の白毛の馬車が急に出てきたことに動揺した。彼は焦り、中途半端に緑旗を振ってしまったのだ。その緑旗を見た、通りを横断しようとしていた幼い娘(6歳)を連れた女性が、「安全」の合図だと勘違いし、一歩踏み出した。
「危ない!」
馬車の御者が叫んだが、もう間に合わない。 ドォンッ!
鈍い接触音と共に、女性は娘を庇いながら地面に激しく転倒した。少女は恐怖で泣き叫び、女性は腕を抑えてうずくまる。馬車の御者は手綱を引いて止まり、怒りをあらわにした。 現場は一瞬で混乱の坩堝と化した。
*
慎吾は脇道からその光景を目撃し、全身の血が一気に引くのを感じた。危険予知が発動する暇もなかった。事故はリオの人為的なミスによって起きた。
「くそっ……!」
慎吾は即座に現場へ駆けつけ、人垣を押し分けて転倒した女性のもとに膝をついた。
「大丈夫ですか! すぐに手当てを!」
女性は腕をさすりながら呻いた。幸い、骨折はないようだが、酷い打撲だ。
馬車の御者が慎吾に詰め寄った。
「おい! 警備員! どういうことだ! 緑旗を出したじゃないか! お前たちのせいで事故が起きたんだぞ!」
周囲の通行人からも、「警備員がミスをするなんて」「信じてたのに」といった非難の言葉が、容赦なく慎吾とリオに浴びせられた。
リオは自身の過ちの大きさに顔面蒼白となり、現場に立ち尽くして震えているだけだった。
(僕のせいだ。リオの慢心を止められなかった僕の指導不足だ。僕がこの事故の責任を負うべきだ……!)
慎吾の脳内で、警備員としての厳格な哲学が、彼自身を激しく責め立てた。
「警備員のせいで事故が起きるなど言語道断だ」人々は信頼して動く。その信頼を裏切った瞬間、警備員は存在する価値を失う。
「う、うぐっ……ぅおぇ……」
激しい自責の念が、彼の精神の防壁を一気に破壊した。心臓が胸郭を突き破るかのような激しい動悸と共に、胃の奥から嘔吐感がせり上がってきた。冷たい汗が全身から噴き出し、視界が歪み始める。その場にしゃがみ込み、めまいと過呼吸で呼吸が乱れる。
(ダメだ……まただ。こんな時に……! 子どもたちに約束を破った時と同じ……あの絶望的な罪悪感だ!)
かつて現世で事業に失敗し、多くの信頼を裏切った記憶。そして誕生日ケーキの約束を破った未履行の罪。それらがフラッシュバックし、慎吾は現場の混乱の中で、耐え難い激しいパニック発作に襲われた。
*
現場の混乱が続き、師匠である慎吾が身体を震わせながら必死に苦しんでいる姿を見て、呆然としていたリオはようやく事態の真の深刻さを理解した。リオは慌てて慎吾を現場から離れた物陰へと運び、水を差し出した。
「し、師匠! 大丈夫ですか!? 僕のせいです……全て……」リオの声は震え、その目には涙が滲んでいた。
慎吾は発作がようやく収束に向かう中、荒い呼吸を整えた。彼は憔悴しきっていたが、その瞳には警備員としての揺るぎない信念が宿っていた。
「リオ、今日の事故で分かったと思う。」
慎吾はゆっくりと、しかし厳しい口調で言った。
「警備員のせいで事故が起きるなど言語道断だ。周りの人々は、旗を持つ人間を命の守り手だと信じて従う。その信頼を、君は一瞬の油断で裏切ったんだ。」
リオは悔しさに唇を噛み締め、ボロボロと涙をこぼした。
「僕が……僕がこの仕事をバカにしていたせいです。こんなに重い責任があるなんて……僕は、人を傷つけてしまった。」
「そうだ。事故は起きてしまった。だが、この経験を忘れるな。」慎吾は言った。
「旗振りは、命を救うための行為だ。一瞬の気の緩みも許されない。君は今日、警備員の仕事の本当の意味を知ったんだ。」
「師匠……僕はもう一度、一から旗振りを学びます。今度は、誰かの命を傷つけるような警備は絶対にしません。本当に、申し訳ありませんでした……!」
リオは地面に額をこすりつけるように深く頭を下げた。慎吾は、憔悴しながらもリオの深い反省を見て、わずかに安堵した。代償は大きかったが、リオは真の警備員精神を学び始めたのだ。
その日の夜。ガルフ親方は慎吾の発作の様子を知り、無言で肩を叩いた。
「お前が責任を感じすぎるのは、それだけ人を大切に思っているからだ」その言葉に救われつつも、慎吾の心には、事故を起こしたことへの深い罪悪感が、重く沈殿していた。
【届かない手紙(第5話)】
大翔、咲良へ。
お父さんは今日、こちらの世界で、とても大切なことを学びました。僕の弟子が、一瞬の油断で事故を起こしてしまいました。僕はその時、激しい自責の念と、パニック発作に襲われました。僕が彼に、警備員の仕事の重さを教えきれていなかったからです。
警備員は、人々の信頼の上に成り立っている職業です。その信頼を裏切ることは、最も罪深いことです。僕がかつて現世で事業に失敗し、多くの人たちの信頼を裏切ったあの日の罪悪感と、今日の事故の責任が重なり、心が壊れそうになりました。
君たちとの誕生日ケーキの約束も、僕が守れなかった大切な約束です。あの時、ケーキを配達した人が、君たちにどんな言葉を伝えたのか。君たちがどんなに悲しんだのか。その罪悪感が、今も僕を苦しめています。
でも、その罪悪感が、僕を帰還へと突き動かす唯一の原動力です。お父さんはもう二度と、誰の信頼も裏切りたくありません。そして、あの日の約束を果たし、君たちにケーキを食べさせてあげるために、僕は必ず強くなって帰ります。愛してるよ。
【第5話 完】
第5話:執筆後記「旗一振りに宿る、命の重み」
第5話を最後までお読みいただき、ありがとうございました。 今回のエピソードは、本作のテーマである「警備員の本質」に深く切り込む、物語の大きな転換点となりました。
1. 魔法よりも重い「旗振り」の技術
ファンタジー世界において、リオのような若者は「派手な魔法」や「強力な武力」に憧れがちです。しかし、慎吾が教えたのは、最も地味で、最も誤解されやすい「交通誘導」でした。 作中で慎吾が語った「見えない合図は存在しないのと同じ」という言葉は、現実の警備現場でも鉄則とされる考え方です。異世界の住人にとって、赤と緑の布切れ一本が「絶対の安全」を担保するという概念がいかに重いものか、リオの失敗を通じて描きました。
2. 慎吾を襲う「パニック発作」の正体
今回、慎吾は事故を目の当たりにしてパニック発作を起こしてしまいます。これは彼が単に繊細だからではなく、彼の持つ「責任感の強さ」の裏返しでもあります。
現世での事業失敗による信頼の喪失
子どもたちとの「二つのケーキ」の約束という未履行の罪 これらがフラッシュバックすることで、慎吾にとっての「安全を守る」という行為が、単なる仕事を超えた「魂の贖罪」であることが浮き彫りになりました。
3. リオ・ブライトウィングの覚醒
師匠の苦しむ姿と、自分の振った旗で流された血を見て、ようやくリオは「制服の重み」を理解しました。彼が地面に額をこすりつけて謝罪するシーンは、彼が単なる「見習い」から、一人の「警備員」へと歩み出した瞬間です。




