第3話「初めての発作と受容」
シン・タナカがレザムーア王国の建設現場で働き始めて数日が経った。彼の異質な能力、すなわち「危険予知 Lv.MAX」は、現場の空気そのものを変えた。
「シンさんのおかげで、今週は怪我人が出てない。」
「あいつは本当に貴族様なのか?まるで現場を知り尽くしたベテランだ。」
作業員たちの間で彼の評判は広がり、単なるよそ者から、現場の「守り手」として見られ始めていた。この感謝の眼差しこそが、彼の心を支える唯一の杭だった。
(この世界では、僕の警備員としての経験が、本当に人命を救えている)
現世で感じた屈辱や傲慢さは、今や職業への誇りへと昇華しつつあった。しかし、身体は若返っても、過去のパニック障害とうつ病の影は、シンの心に深く根を下ろしていた。
その日、シンは一人の若者に出会った。
「シンさん!今日も現場を見に来てくれるんですか?」
名をリオ・ブライトウィングという。人間族の建設作業員見習いで、年齢は一八歳。瞳は爛々と輝き、体力はあるものの、経験と責任感に乏しい、典型的な現代の若者といった印象だ。
シンは声をかけた。「君は、新人の?」
「リオです!シンさんのおかげで事故が減ったって、みんな言ってますよ!シンさん、すごいっすね!」リオは素直に尊敬の念を表した。
シンは謙遜した。「僕は何も特別なことはしていない。危険な場所を指摘しているだけだ。」
リオは屈託なく笑った。「それがすごいんですよ!だって、僕たちが気づかない危険を、シンさんは30秒も前に分かってるんですから。」
(この世界の若者たちに、警備員としての責任と、安全の哲学を伝えなければ)
シンは、リオの素直さに触れ、指導者としての使命を感じ始めていた。彼には、現世で子どもたちに伝えきれなかった「父親」としての役割、そして「師匠」としての役割を、この異世界で果たしたいという切実な思いがあった。
その日の午後、親方のガルフ・ストーンハンマーが、いつものように屈強な体躯を揺らしながらシンのもとにやってきた。ドワーフの親方は、シンが来るまで一匹狼だったが、今ではシンを息子のような存在として深く信頼している。
ガルフは周りを警戒するように声を潜めた。「シン、お前の意見を聞かせてくれ。」
「何でしょうか、親方。」
「実は、王宮の新築工事の話が来てるんだ。」
シンの背筋に一瞬冷たいものが走った。
王宮工事。それはレザムーア王国において、最高に名誉であり、同時に最高に危険な仕事だ。王族が関わる工事は、第1階級が関わる仕事。完成すれば名声は得られるが、事故が起きれば、関わった職人の命だけでなく、名声も何もかもが奪われる。
「王宮の……」シンは言葉を詰まらせた。
ガルフは続けた。「お前が来てから、うちの現場の事故率は90%減だ。他の親方衆も、安全責任者としてお前を推している。」
「安全責任者……」
ガルフは、シンの肩を叩いた。「当然だろう。お前は俺たちの命の恩人だ。だが、王宮の仕事は規模が違う。もし、事故が起きたら……俺たちの首が飛ぶだけじゃ済まない。」
王国の厳格なSeven Tiers階級制度は、シンも承知している。第4階級の准男爵の地位があったとしても、王族の事業を失敗させれば、罪は免れないだろう。
その瞬間、シンの全身に、冷たい警告が走った。
(責任の重圧だ……!)
彼のパニック発作のトリガーは、「大勢の前での発表や重要な決断」や「責任の重い仕事を任された時」だ。今、彼は、この異世界の最も重要な建造物の安全という重責を、たった一人で背負わされようとしていた。
シンの目の前が、急に歪み始めた。王宮の巨大な石造りが、まるで彼の失敗を待つように、圧し掛かってくるように見えた。
「シン、どうした?顔色が悪いぞ」ガルフが心配そうに尋ねた。
周囲では、王宮工事の話を聞きつけた職人たちが、期待と不安の入り混じった眼差しでシンを見つめていた。「シン様が引き受けてくれれば、安心だ」「お願いします、シン様!」
彼らは、シンを完璧な守護者だと信じている。現世でうつ病とパニック障害に苦しみ、IT事業に失敗し、家族との約束を破ってしまった慎吾にとって、この「完璧な人間」という期待こそが、最も恐ろしい呪縛だった。
(完璧でなければならない。もし失敗すれば、大勢の職人の命と、ガルフ親方の名誉、そして王国の安定が崩れる……)
「また失敗するんじゃないか」という過去の失敗を思い出す瞬間の恐怖が、彼の脳裏でフラッシュバックした。現世で味わった事業失敗の屈辱と、すべてを失った絶望が、津波のように押し寄せた。
ドクン、ドクン、ドクン。
心臓が異常な速度で打ち鳴らされ、耳の奥で激しいドラムロールのように響く。呼吸が浅くなり、全身から冷や汗が噴き出した。
「うっ……」シンは声を出した。喉の奥から吐き気が込み上げてくる。
ガルフがさらに近づいてきた。「シン、本当にどうした?」
「すみません、親方……ちょっと体調が……」
目の前のガルフや職人たちの顔が、歪んで見える。彼らの期待の眼差しが、まるで彼を断罪する裁判官の顔に見えた。
(僕には無理だ。この期待に応える資格なんてない)
シンは反射的に、その場から逃走した。背後でガルフが何か叫んでいるのが聞こえたが、彼の耳には届かない。
人目を避け、ただひたすらに、建設現場の裏手にある資材置き場の影へと駆け込んだ。めまいと吐き気に耐えながら、うずくまる。全身の震えが止まらない。
(警備員は、逃げてはいけない)
頭では分かっている。だが、体が拒否するのだ。あの現世での事故の瞬間のように、制御不能な恐怖が、彼の職業的な誇りを完全にねじ伏せていた。
資材の匂いが充満する薄暗い影で、シンはしばらく動けずにいた。
「また、逃げてしまった……僕は本当にダメな人間だ。」
その時、背後から重い足音が近づいてきた。
「シン。ここにいたか。」
ガルフ・ストーンハンマーだった。ドワーフの親方は、シンが逃げた理由を悟っているような、重々しい表情をしていた。
シンは顔を上げることができなかった。「すみません、親方……僕は……僕はダメな人間なんです。」
彼は、この異世界で初めて、心の奥底に封じ込めていた弱さを吐き出した。
「前の世界でも事業に失敗して……大切なものを全部失って、うつ病になって、パニック発作を起こして……」
現世での屈辱と絶望の記憶が溢れ出し、シンは嗚咽した。「みんなに迷惑をかけて、結局、家族との約束も守れなかった。こんな僕に、王宮の責任なんて、負えるわけがないんです!」
ガルフは黙ってシンが話し終えるのを待った。そして、静かに、だが力強く言った。
「お前、何か抱え込んでるな。俺にも分かる。人には言えない苦しみってもんがある。」
シンは目を見開いた。ガルフは、シンが抱える苦しみを否定しなかった。
「シン、お前は本当に自分のことばかり責める」ガルフは重々しく言った。「完璧である必要なんてないんだ。誰も、お前に神になれなんて頼んでない。」
「でも、みんなの期待に……」
ガルフは、亡き息子ドリンを亡くした経験を持つ父親として、真摯な愛情を込めて語った。
「完璧な人間なんていない。俺だってそうだ。息子を事故で失って、安全第一を教えきれなかった後悔を今も抱えている。誰だって欠点を持っているんだ。」
その言葉は、シンの凝り固まった心を、まるでハンマーで叩き割るように貫いた。
シンは意を決して、自身の病状を告白した。「実は……僕には病気があって。時々、心臓がドキドキして、頭が真っ白になってしまうんです……迷惑をかけるかもしれません。」
ガルフは深く頷いた。「ほう……それで?」
ドワーフの親方は、その告白を軽蔑することも、憐れむこともしなかった。まるで、それがシンという人間の一部であるかのように、自然に受け入れたのだ。
「シン。お前が責任を感じすぎるのは、それだけ人を大切に思ってるからだ」ガルフは続けた。
「弱さを知る者こそ、人を守れる。」
「完璧を求めるんじゃない。お前らしくやれ。」
その言葉が、シンにとって、この異世界で得た初めての無条件の受容だった。現世で警備員として得た「誇り」は、彼の「強さ」の象徴だったが、ガルフが受け入れてくれたのは、彼の「弱さ」そのものだったのだ。
(この親方は、僕のすべてを受け入れてくれた……)
シンはガルフの優しさに触れ、この世界で初めて、心の底から安堵した。彼はこのドワーフの親方こそが、亡き息子ドリンが果たせなかった「一人前の職人同士としての語り合い」を実現してくれる、血縁を超えた父親だと感じた。
夜が更け、シンの発作は完全に収まっていた。ガルフの言葉は、彼の心に大きな安らぎを与えた。「完璧でなくても良い」という許しは、彼が自分自身に課していた最も重い枷を外してくれたのだ。
彼は、故郷の子どもたちへの想いを募らせた。大翔と咲良。彼らも、きっと父親が完璧ではないことを理解してくれるだろうか。
シンは異世界の満月を見上げながら、故郷にいる子どもたちへの、誰にも届かない手紙を書き始めた。
【届かない手紙:第3話】
大翔、咲良へ。
お父さんは今日、この世界で、初めて人に弱みを見せました。
王宮の工事という、とても責任の重い仕事を任されそうになって、お父さんはパニック発作を起こして、みんなの前から逃げてしまいました。現世で事業に失敗した時の、あのどうしようもない恐怖が、またお父さんの心を支配したからです。
情けないお父さんでごめんね。
でも、ガルフ親方が、そんなお父さんを受け入れてくれました。親方は「弱さを知る者こそ、人を守れる」と言ってくれました。
お父さんは、完璧な父親ではありません。うつ病もあるし、発作も起こす。でも、君たち二人を愛する気持ちだけは、誰にも負けません。
現世では、完璧でなければ愛されないと思い込んでいました。経営者として成功し、君たちに裕福な生活を与えられなければ、父親失格だと思っていました。
でも、この世界に来て、違うことを教わりました。不完全だからこそ、人は支え合える。弱いからこそ、人の痛みが分かる。
君たちが悲しむ顔を見たくなくて、僕は毎年、君たちの誕生日に二つのケーキを注文しましたね。「どちらかが悲しい思いをするのは、お父さんも悲しいんだ」と約束したあの日のことを、今でも鮮明に覚えています。
君たちの誕生日ケーキを一緒に食べることができなかった罪悪感は、今も消えません。
この世界で、完璧でなくてもいいと教わったお父さんですが、君たちとのケーキの約束だけは、必ず、完璧に果たしたいと思っています。
愛しているよ。
お父さんより
【第3話 完】
【作者からのお知らせ(桃馬穂より)】
いつも『異世界警備員』をお読みいただきありがとうございます。桃馬穂です。
第3話は、慎吾にとって最もつらいトラウマ、すなわち「完璧でなければならない」という呪縛との戦いでした。王宮工事という重圧の中、彼はパニック発作を起こして逃げ出しますが、そこでガルフ親方という血の繋がらない「父親」から、「弱さを知る者こそ、人を守れる」という、最大の許しを得ることができました。
このガルフ親方の言葉こそが、慎吾が異世界で活動する上での、新しい「心の安全帯」となります。
ぜひ、ブックマークや評価★★★★★で、慎吾の異世界での挑戦を応援いただけますと幸いです!
次回:異世界警備員 第4話「仲間の信頼」にて、またお会いしましょう。
桃馬穂




