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異世界警備員  作者: 桃馬 穂


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第1話「突然の別れ」

 築四十年の団地の一室。深夜の冷たい蛍光灯の下で、田中慎吾(三九歳)はテーブルに広げた二枚の便箋を見つめていた。長男・大翔ひろとは九歳、長女・咲良さくらは七歳。彼らの文字は以前より遥かに上手になり、稚拙ながらも親を気遣う優しさが滲んでいた。

「『お父さん、元気ですか?』か……」

 慎吾は自嘲気味に息を吐いた。彼の病歴はもう十一年になる。うつ病とパニック障害。それらは、彼が築き上げた全てを崩壊させた、事業失敗の負の遺産だった。

 かつて、彼は新進気鋭のIT企業経営者だった。年収は数千万円。当時の彼は、運転する高級車の窓から、ビルの建設現場の横に立つ警備員を横目に見て、こう思っていた。

(大変な仕事だなぁ。ただ立っているだけの仕事も辛いだろうな。肉体的にも精神的にも、俺には出来ない仕事だな)

 心の中には、「誰でもできる仕事」だと軽視し、どこか見下すような傲慢さがあった。

 しかし、事業が崩壊し、全てを失った時、彼はその傲慢さの報いを受けることになった。元社長という経歴と、持病の情報は、再就職の道をことごとく閉ざした。社会は、彼をもう必要としていなかった。

 どこも門前払いされる中、最後に訪れたハローワークで、窓口の職員が申し訳なさそうに勧めてきたのが、警備員の仕事だった。

「田中さん、このご状況では……ここしかないかもしれません。」

「ここしかない」──その言葉は、まるで自分が社会の最下層に突き落とされたような屈辱だった。かつて自分が「出来ない仕事」だと切り捨てた仕事に、今は生きるために縋るしかない。ITとはかけ離れた、肉体労働。彼の心には、複雑な感情が渦巻いていた。それでも家族のために働かねばならない父親としての責任感が、彼の最後の砦だった。


 慎吾は、警備員の制服を着て初めて現場に立ったとき、身体中の血が逆流するような何とも言い難い感じを覚えた。かつて、自分が軽視していた仕事。人生の敗北者だと烙印を押され、それでも生きようと決心して、たどり着いた仕事。

 しかし、現場で交通誘導の警笛を初めて吹いた瞬間、彼の考えは徐々に、だが確実に変わっていった。

(ただ立っているだけ?いや、違う。この仕事は「予測」と「判断」だ)

 交通の流れ、工事車両の動線、歩行者の心理。それらを瞬時に分析し、最適解を一秒以内に判断し、誘導旗で指示を出す。一つ間違えれば、人命に関わる。

「危ない!」

 ある日、危うく事故になりかけた時、全身に走った冷たい警告があった。その警告は、かつて経営者としてプロジェクトの失敗を察知した時の感覚と酷似していた。彼の持つ分析力と危機管理能力は、IT経営とは異なる形で、この警備の現場でこそ活きていた。

 警備員は、立ちながら、常に「予測」「分析」「判断」という、高度なマネジメント作業を行っている。それは、ITの現場とは異なるが、間違いなく「頭を使う仕事」だった。そして、この仕事は、直接的に人の命を守っている。

「人の命を預かっている。」その責任の重さは、彼の心を重い鉛のようにしたが、同時に、病による精神的な脆さを抑え込む、唯一の強靭な杭となった。

(俺は、生きるために仕方なくこの職を選んだ。だが、この仕事は、俺の過去の才能を活かし、人の命を救う価値がある。この仕事だけは、俺の代わりはいない)

 屈辱から始まった感情は、切実な責任感を経て、静かに「職業への誇り」へと昇華しつつあった。家族のため、そして自分の存在意義のために。彼は、自らを「警備員」として認め始めたのだ。


 妻の美香とは形式上離婚し、子どもたちに会えるのは月に数回。だが、この手紙に嘘を書いてはいけない。慎吾は無理に口角を上げたまま、ペンを滑らせた。

『お父さんは元気だよ。来週の大翔の誕生日には、絶対にお祝いに行く。君たちに会えるのが楽しみで仕方がない。愛してるよ。』

 そして、最も重要な一文を、震える指先で、しかし愛情を込めて付け加えた。

『咲良の分のケーキも忘れずに注文してあるからね。』

 誕生日ケーキを「二つ」注文する。それは、田中家にとって、他の何にも代えがたい大切な伝統だった。「どちらかが悲しい思いをするのは、お父さんも悲しいんだ」──。その言葉と共に始まったこの約束だけは、何があっても守り通す。それが、今の自分に唯一許された父親としての役割なのだから。


 翌日。冷たい雨が降る中、慎吾は工事現場の交通誘導業務に立っていた。警笛を咥え、誘導灯を振る。

「すみません、通行止めです。迂回をお願いします。」

 その時、突然、胸の奥から熱い塊がせり上がってくるような感覚に襲われた。冷たい汗が背中を伝い、心臓が激しいドラムロールのように打ち鳴らされる。パニック発作の予兆だ。

(やばい……発作が来る……!)

 全身の血液が引いていくような感覚。目の前の景色が歪み、通行人の声が遠のく。このままでは、彼はその場に倒れ込み、警備の穴を開けてしまう。

「警備員のせいで事故が起きるなど言語道断だ」

 過去の屈辱、病気による絶望、そして「この仕事でしか家族を支えられない」という切実な現実。その後に警備員として学んだ経験が生み出した「職業への誇り」が、発作をねじ伏せようと彼を突き動かした。

 意識の半分は警備に集中し、もう半分は荒れ狂う内側の自分を抑えることに必死だった。

 その一瞬、右斜め後方から近づく大型トラックに、奇妙な「揺らぎ」を感じた。彼の持つ唯一の特技、「予測」「分析」「判断」高度なマネジメント作業が、危険を察知する「ガーディアン・システム」危険予知 Lv.MAXとして、警告の笛を鳴らす。

「トラックが!歩行者を!」

 運転手が急病か、あるいは居眠りか。トラックは制御を失い、歩道へ猛スピードで突っ込もうとしている。考える時間は、一秒もなかった。

「逃げて!早く!」

 慎吾は警笛を投げ捨て、叫んだ。反射的に歩道にいた数名の通行人を強く突き飛ばし、危険範囲から遠ざけた。

 ドォンッ!

 通行人が安全な場所に転がるのを確認した瞬間、全身を叩き潰すような衝撃が背中を襲った。意識が遠のくなか、彼の脳裏に焼き付いていたのは、「誕生日ケーキを、子どもたちと一緒に食べられなかった」という、未履行の約束だった。

(ごめん、大翔、咲良……お父さんは、また約束を破ってしまった……)

 彼の視界は闇に飲まれた。


 肉体の激痛も、心の病も、全てが遠い過去の事象となった後、慎吾は無限に広がる、温かい光の中に立っていた。

 目の前には、白い髭を蓄え、温和で優しい眼差しをたたえた老人の姿があった。世界の秩序を司る神、オルドだという。

「慎吾よ、よく来た」

「ここは……」慎吾は自分の死を悟っていた。「僕は死んだんですね」

 慎吾は自身が死後の世界にいることを理解した。オルドは「異世界」という概念と、「転生」の機会を与えようと語った。

 慎吾は即座に首を振った。「いえ、結構です。僕は帰らないと。子どもたちに、誕生日ケーキを一緒に食べると約束したんです。」

「その約束、確かに拝見した。誠に切ない。だが、君の肉体は現世にはもう戻れない。」

 オルドは静かにそう告げ、転生時に一つだけ、「特別なスキル」を持たせることができると続けた。

「剣聖の力、魔導王の才能、あるいは莫大な富。君が望むものを選択したまえ。」

 慎吾は顔を上げ、真剣な眼差しでオルドを見つめた。

「いりません。そんな力より、帰還の方法をください!」

 オルドは困ったように笑い、帰還の方法は「魂を成長させ、世界の理を書き換えるほどの奇跡を起こす必要がある」と説明した。そして、一つの「手掛かり」として、赤い薬のようなものを示した。

「これは『神帰還薬アニマ・リターン』。君の魂の成長が一定レベルに達すれば、これを服用することで帰還のチャンスが生まれる。ただし、これはただの錠剤だ。世界で手に入れるための『仕組み』は君自身で見つけなければならない。」

(帰る道はある……それなら、僕は戦える)

 慎吾は、オルドが提案した選択肢の中で、最も異世界で生存し、目的を果たすために必要な能力を選んだ。

「わかりました。では、スキルは『警備員の全スキル』をください。」

 オルドは目を丸くした。「警備員のスキル?危険予知、交通誘導、危機管理、雑踏警備……それで良いのか?伝説の魔法を望まないのかね?」

「はい」慎吾はきっぱりと言い切った。「僕は、僕の職業に誇りを持っている」。

「かつて、警備員という仕事を軽視していた僕には、その資格はないかもしれません。ですが、警備員として死んだ以上、この力で、家族との約束のために、この力を使います。誰も不幸な事故で死なない安全な街を作れれば、きっと世界に貢献できるはずだ。」

 オルドは満足そうに微笑んだ。

「承知した。田中慎吾……いや、シンよ。お前は『准男爵』の身分、そして警備員の知識を活かし、異世界の安全な街を作れ。お前の弱さこそが、新たな世界の強さとなるだろう」

 光の渦がシンを包み込んだ。


 次に目覚めた時、そこは光と砂埃に満ちた、異世界の喧騒の中だった。

 全身の痛みに顔をしかめる。身体は若返り、外見年齢は二七、八歳ほど。肉体的な持病は消えていたが、過去のパニック障害の影は心の奥底に残っている。彼は、レザムーア王国ケイルハーベン市の建設現場の近くだと理解した。

 転生後、簡素な旅籠はたごの一室を与えられたシンは、慣れない羊皮紙と細いペンを取り出した。異世界の満月が窓から差し込む中、彼は故郷の愛する子どもたちへの、誰にも届かない手紙を実際に書き始めた。

『大翔、咲良へ。』

(来週の誕生日ケーキを、お父さんは一緒に食べることができなくなったよ。本当にごめんなさい。君たちの悲しむ顔を想像すると、胸が張り裂けそうです)

『お父さんは今、不思議な世界にいます。でも、警備員の仕事を頑張るよ。ここで人を守る度に、一歩ずつ、君たちに近づいていると信じているから。』

『必ず帰るから。あのケーキの約束を果たすために、絶対に帰ります。愛している。』

 彼の肉体は若返り、能力はチート級でも、その魂はまだ、子どもたちへの強い罪悪感と愛という名の重い鎖に繋がれたままだった。


【第1話 完】

【作者からのお知らせ(桃馬穂より)】

いつもお読みいただき、ありがとうございます。桃馬穂とうますいです。


いきなり重い展開から始まり、驚かれた読者様もいらっしゃるかもしれません。しかし、主人公・慎吾を突き動かすのは、現世で果たせなかった「二つのケーキの約束」と、彼が背負い続ける「うつ病とパニック障害」という拭えない心の傷です。


この物語は、最強の魔法使いが世界を救う話ではありません。自らの弱さを知り、職業への誇りだけを武器に異世界の安全を築き直す、一人の父親の「再生」の記録です。


なぜ、主人公が異世界で「警備員」として立ち上がるのか? そして、この世界で最初に彼が出会う厳格な親方・ガルフと、生意気な見習いのリオとの関係がどうなっていくのか――


物語はまだ始まったばかりです。次回、慎吾は異世界の建設現場で、想像を絶する事故の現実を目の当たりにします。


もしこの物語に少しでも可能性を感じていただけたら、ブックマークや評価★★★★★をいただけますと、作者としてこの上ない励みになります。ぜひ、続きを読んでいただければ幸いです。


次回:第2話「新しい世界での出会い」 にて、再びお会いしましょう。


桃馬穂とうますい

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