第42話【過去】恥を踊り、毒を飲む
――初めてエミリア以外と参加した舞踏会は、緊張しすぎて何も覚えていない。
式典の重さを表す荘厳な空気、何か異質なものを見るような、値踏みするような目だけしか。
ただずっと心臓が痛いほど音を立てていた。言われたとおりに背筋を伸ばし、胸を張ってエリオットの隣に立ち続けた。
(これから私は、このきれいな人に恥をかかせるのだ)
このまま抱きしめて逃げたい、でもきっとこの人は逃げないのだ。
それが皇族の義務であるとでもいうように。
エリオットがアリアナの腕に自らの腕を絡ませたまま、周りから見えないように二回つついた。
「いまだよ」──それが、事前に決めていた合図だった。
アリアナは手袋の袖を直した。裏地に施された金色の刺繍がちらりと見える。
この意味が分かるのは知っている人だけ――エリオットにだけ、伝われば良い。
練習したとおりに跪いた。アリアナにとって今までで一番の出来だった。
会場に微かなざわめきが走った。
それは最初、困惑と戸惑いだった。
誰かがひそひそと「男同士?」と囁く声がして、次に訪れたのは静寂。
華やかな雰囲気の舞踏会の空気が、二人を中心に変わるのが分かった。
アリアナはエリオットの手を恭しく取り、間を置いた。二人の手袋の白い布地が重なる。
『余韻って大事よ! 周りの女の子が”私もエスコートされたい〜!”って感嘆の息を吐く時間を与えてあげるの!』
エミリアから何度も指導が入ったところだ。
憂いを帯びた顔を作って、無理やり口角を上げた。
物語に出てくるような「皇女様に恋い焦がれる騎士」に見えるように。
ため息がひとつ、ふたつ、波紋のように広がっていった。誰もがアリアナたちに視線を向けていた。
これから始まる”演出”に期待するように。
「どうか私に……――最初の一曲を踊る名誉を頂戴できますか?」
一瞬、エリオットの顔からすべての感情が消えた。
何かを間違えただろうか――思わず息を呑む。
次の瞬間、蒼玉の氷の奥に光が差し込み、ゆっくりと笑みが咲いた。
指先一つ、瞬き一つ逃したくない。アリアナは目を見開いてエリオットの動きを待った。
「ええ、喜んで」
その声に、アリアナはうっかり“皇女殿下”と呼びかけてしまいそうになった。
エリオットが男で良かった。女だったら傾国になっていたかもしれない。
女のアリアナですら危うく恋に落ちそうだったのだ。
胸が今まで以上に激しい音を立てつつも、この数日何度も行った動作は身体に叩き込まれていたようで身体が自然に動いた。
アリアナはそのまま立ち上がると、手を取ったままダンスをするために中央へと移動した。
エリオットの腰に手を当て、抱き寄せる。
何度も一緒に練習したはずなのに、先程の演出のせいだろうか。いつもよりも抱いている腰が細く、繊細に思えた。
エリオットの考えついた「恥を演じる」という作戦――それは、「男女の立場を入れ替えて踊る」ことだった。
『パヴェルお兄様、私は皇女と同じです。皇位に興味はありません』
『わざわざお兄様が手を汚す価値もありません。対立するつもりもありません』
そう主張するための演出であり、そのためにわざわざアリアナにヒールまで履かせた。
エリオットのほうが身長が低く、「立場の弱いもの」であると明確に分かるように。
パヴェルの下品な笑い声が耳に届く。人々の喧騒や音楽をかき消すほど、大きな声が。
声とともに殺意にも似た視線がアリアナの背中に突き刺さった。
『俺を楽しませているうちは、お前たちを殺すのは後回しにしてやる』
きっとそういうことなのだろうとアリアナは理解した。
彼はあえてダンスは踊らず、この悪趣味な催しを存分に見学することにしたようだ。
『ワルツの最中は相手の顔を見てはいけない、なるべく遠くを見ろ』
ベンジャミンから何度もそう言われていたはずなのに、アリアナはついエリオットを見てしまった。
彼がちらりと客席を見やるその目には、ほんのわずかな緊張が滲んでいた。
(いやだなあ、と思っている顔、してる)
その視線の先に、第一皇子の取り巻きがいたのだ。
わざとらしく、あえて聞かせるように響く笑い声、あからさまな冷笑、耳を塞ぎたくなるような下品な野次。
政治的均衡を保つために「恥をかいた」エリオットをより落とそうとしている。
(この綺麗な人は、それくらいで汚されたりしない)
アリアナはぐい、とエリオットの身体を引き寄せて密着した。
心臓の鼓動が早くなっていることに気づかれませんように、と祈った。
「――私を見て」
緊張していて、思ったよりも大きな声が出てしまった。
側に居た貴族令嬢たちの「きゃあ!」という叫びに驚いたが、何とかステップを続けることができた。
(あんな汚いもの、見なくて良い。必死に踊ってる私は、あの人達よりは面白いと思う)
アリアナの一言に「皇女」役の仮面が一瞬外れた。
金色の睫毛に縁取られた双眸が、優しい弧を描く――エリオットが、花が咲くように笑った。
それを見たアリアナは「殿下、睫毛長いな」なんて場違いなことを思った。
緊張の連続だったワルツが終わり、二人の手が離れる。
エリオットが、手袋の袖を直した。裏に施された真紅の刺繍がちらりと見えて嬉しくなった。
ニヤつきたい気持ちを抑えるために、一度まぶたを閉じて、ゆっくりと開けた。
「完璧な騎士」はこういう時にニヤつかないと思ったから。
変わらない光景がそこにあった。
だが、そんな気持ちはそう長くは続かなかった。
「やあ、ふたりとも! 素晴らしいダンスだったね!」
声をかけてきたのは第二皇子のアレクシスだ。どこまでも柔和な笑みを浮かべている。
だがその目は、笑みとは正反対に冷たかった。
背後から付き従った給仕は、顔面を蒼白にしながらトレーを掲げていた。ワイングラスの脚がカタカタと震えて音を立てる。
明らかに様子がおかしい。
だがアレクシスは、そんな給仕の異変など気づかぬふりをして――ワインを一杯手に取ると、あえてゆっくりと差し出した。
「ほら、お祝いの乾杯を兄様が授けよう。――ヴィンター帝国の未来にね!」
底の浅さを隠すつもりもない、軽薄な笑い。だと言うのに、目だけがランランと輝いている。
「さぁ死ね」と言っているようにしか思えなかった。
(クソ皇子をかわしたと思ったら、今度はクズ皇子か)
アリアナは思わず内心で毒づいた。
赤紫のワインは液面が毒々しい艶をまとっていた。
公式の場で振る舞われたワインに理由もなしに手をつけないのは、失礼に値する。
仮に飲まなければ兄弟間での敵対を意味する。
アレクシスとしては兄弟間の対立は「のぞむところ」なのだろう。
パヴェルがエリオットを殺さないなら、自分が殺し、それを皇位継承戦開始の狼煙とする――おそらく、そんな算段だったに違いない。
アリアナは、エリオットを視線だけで見た。
それまで味方であったはずの第二皇子の敵意に驚いているらしく、固まっている。
エリオットは「兄上」と呼びかけたが、それ以上言葉が出てこないようだった。
(別に、第二皇子は味方だったわけじゃない、敵ではなかっただけで)
考えている時間はあまりない。
ここで、刃を潰された礼剣でワインを叩き落とし、そのままアレクシスの喉を断つ。
……そんな妄想が頭をよぎり、確信する。「私なら出来る」と。
だが、それでは今日二人が恥をかいた意味がなくなってしまう。
せめてもう少しだけ、エリオットには優しい夢を見せておいてやりたかった。
『兄弟で手を取り合って仲良く国を治める』――そんな、叶うはずのない未来を。
周りも異様な雰囲気に感づき「一体どうするんだ」と、三人を見ていた。
(今度は私が恥を演じる番だ)
アリアナは「自分は物語に出てくる完璧な騎士である」と再度自分に言い聞かせた。
冬の国では成人前から飲酒する風習がある。
アルコールで身体を温めなければ、容赦なく凍死する過酷な環境だからだ。
何歳から飲酒可能か、それを制限する法律はこの国にない。
物語に出てくる“完璧な騎士”ならきっと、こうする。
「美味しそうなワインですね」
エリオットや給仕がなにか行動をする前に、差し出されたワインを手にとり、そのまま口に持っていった。
飲んでいる途中で皇帝陛下がいる方向へ視線をやった。
こちらを厳しい眼差しで見ていたが、そこに非難の色はない。
(これは「皇帝陛下の命令」じゃない)
ならば、と安心して毒を飲み干した。
余談ですが、この時、もしも皇帝陛下からの命令で第二皇子が毒をもったのだとしたらアリアナはその場でエリオットに皇位継承戦に名乗りを上げろと詰め寄り、その場でエリオット以外の皇族を全員殺すつもりでした。
エリオットに拒否されたらその場で自分とエリオット以外の皇位継承の可能性がある人たちを皆殺しにして自らが皇位を継ぎ、「殿下は皇配でもいいですよ」と言うつもりでした。
当時の皇帝陛下は視線一つで100人近くの命を救ったことになります。ヨカッタネ!




