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井の中の蛙大海で溺れる

みんな苦しい

みんな生きてる


 



夕暮れの校舎に響く靴音は、いつもより軽やかだった。廊下の掲示板に貼られた進路調査票の結果を眺めながら、俺は小さくため息をついた。同級生の大半が地元の大学や専門学校を選択している中で、東京の私立大学と書いた欄は、まるで異質な輝きを放っているように見えた。


「やっぱり田中は東京か」


振り返ると、クラスメイトの佐藤が苦笑いを浮かべて立っていた。彼は地元の国立大学を志望していた。成績は俺とさほど変わらないが、彼には俺のような野心がない。いや、野心というより、ここではない場所への憧れと言った方が正確だろう。


「まあな。東京で勝負してみたいんだ」


俺はできるだけ謙虚に答えたが、心の奥では優越感が渦巻いていた。この街で生まれ育った同級生たちは、なぜこんなにも狭い世界に満足できるのだろう。俺には理解できなかった。


高校三年間、俺は常に上位の成績を維持していた。生徒会の副会長を務め、文化祭では実行委員長として成功を収めた。部活動でも県大会出場を果たし、地元の新聞に小さな記事が載ったこともある。教師たちは俺を「将来有望な生徒」と評価し、同級生たちからも一目置かれる存在だった。


だが、それは当然のことだと俺は思っていた。この小さな街で、この程度の成果を上げることなど、本当の実力者にとっては序章に過ぎない。真の舞台は東京にある。そこで俺は本当の自分を発揮し、もっと大きな成功を掴むのだ。


放課後、商店街を歩いていると、中学時代の後輩に声をかけられた。


「田中先輩、東京の大学に行くって本当ですか?」


彼女の目は尊敬に輝いていた。俺は照れたような素振りを見せながら頷いた。


「ああ、まあね。チャレンジしてみたくて」


「すごいです。私なんて地元から出る勇気もないです」


その言葉を聞いて、俺は内心で首を振った。勇気の問題ではない。視野と志の問題なのだ。彼女のような人間が大多数を占めるこの街で、俺だけが違う景色を見ている。それは特別なことであり、誇らしいことでもあった。


夜、自分の部屋で東京の大学のパンフレットを眺めていると、母親が夕食の準備ができたことを告げに来た。


「本当に東京に行くの?」


母の声には不安が滲んでいた。


「ああ、決めてるんだ」


「でも、お父さんの工場を継ぐって話は…」


「それは兄貴がやればいいだろ」


俺は素っ気なく答えた。父の経営する小さな金属加工工場。従業員は十人程度で、主に地元の建設会社からの下請け仕事をしている。兄はすでにそこで働いているが、俺にはそんな未来は考えられなかった。


食卓で父と向き合うと、いつものように重い沈黙が流れた。父は何も言わなかったが、その表情からは複雑な感情が読み取れた。期待と失望、誇りと寂しさが入り混じったような顔だった。


「東京で頑張れよ」


最終的に父が口にしたのは、この短い言葉だけだった。俺は頷いたが、心のどこかで父を哀れに思っていた。この街で一生を終える人生。それは俺には絶対に受け入れられない選択だった。


卒業式の日、同級生たちは涙を流しながら別れを惜しんでいた。俺も表面的には感傷的な素振りを見せたが、内心では早く新しい世界に飛び出したくてうずうずしていた。この街での日々は、俺にとっては準備期間に過ぎなかった。本当の人生は、これから始まるのだ。


夜、駅前のファミリーレストランで開かれた送別会で、俺は同級生たちに囲まれて乾杯をした。


「田中、東京でも頑張れよ」

「たまには帰ってこいよ」

「成功したら忘れないでくれよ」


彼らの言葉は温かかったが、俺には別れの寂しさよりも、新しい世界への期待の方が勝っていた。俺は彼らとは違う。俺は特別なのだ。そんな確信を胸に、俺は故郷を後にする日を心待ちにしていた。




四月の東京は、想像していたよりもはるかに巨大だった。新宿駅の人混みに飲み込まれそうになりながら、俺は大学への道のりを必死に辿った。故郷の駅とは比較にならない規模に圧倒されながらも、心の奥では興奮していた。ついに真の舞台に立ったのだ。


入学式の日、俺は同じ学部の学生たちを観察していた。みんな俺と同じような年齢で、同じような服装をしている。特別な何かを感じさせる人間はいないようだった。俺はほっと安堵した。ここでも俺は頭角を現すことができるだろう。


だが、その考えは大学に入学してすぐに打ち砕かれた。


最初の数週間、俺は必死に授業についていこうとした。だが、周囲の学生たちのレベルは俺の想像をはるかに超えていた。彼らは英語を当然のように話し、経済学の基本概念を既に理解し、文学作品について俺が聞いたこともない視点から議論していた。


「君はどこの高校出身?」


ある日、グループワークの最中に同じ班の学生に尋ねられた。俺は故郷の高校名を答えたが、相手は「ああ」と曖昧に頷いただけだった。その反応が全てを物語っていた。俺の出身校など、彼らにとっては何の意味もない存在だったのだ。


夜、狭いアパートの部屋で一人になると、俺は故郷での自分を思い出していた。あの頃の俺は輝いていた。教師からも同級生からも尊敬され、将来を嘱望されていた。だが、ここではただの一学生に過ぎない。それも、平均以下の。


「俺は何をしているんだ」


鏡に映る自分の顔を見つめながら、俺は呟いた。疲れ切った表情の青年がそこにいた。故郷で見た自信に満ちた表情はもうどこにもない。


大学の図書館で勉強していると、隣に座った学生が軽々と専門書を読み進めているのが目に入った。俺が必死に理解しようとしている内容を、彼は当たり前のように咀嚼している。俺はページをめくる手を止め、深いため息をついた。


サークルの新歓イベントに参加した時も、同様の経験をした。先輩たちは俺よりも二歳年上なだけなのに、まるで別の世界の住人のように見えた。彼らは政治について語り、文化について議論し、将来のビジョンを明確に描いていた。俺にはそんな話題についていく力がなかった。


「君は何に興味があるの?」


先輩の一人に聞かれて、俺は言葉に詰まった。興味があること。故郷では、俺は何にでも興味を持ち、何でもそれなりにこなせる人間だった。だが、ここではそれが通用しない。表面的な興味など、何の価値もないのだ。


夜中にコンビニでバイトを始めた。学費と生活費を稼ぐためだったが、それ以上に、大学での惨めな現実から逃避したい気持ちが強かった。しかし、バイト先でも似たような経験をした。同じバイトの学生たちは、俺よりも要領よく仕事をこなし、客との会話も自然だった。


「田中くん、もう少しテキパキやってもらえる?」


店長に注意された時、俺は故郷での自分を思い出していた。あの頃の俺なら、こんな簡単な仕事で躓くことなどなかった。だが、今の俺は違う。何をやっても中途半端で、何を見ても劣等感を感じる存在になっていた。


深夜のアパートで、俺は故郷の友人たちのSNSを眺めていた。彼らは地元の大学や職場で充実した日々を送っているように見えた。みんな笑顔で、楽しそうで、俺が置き去りにしてきた世界で輝いていた。


その時、俺は気づいた。苦しんでいるのは俺だけなのではないか。東京に出てきた意味があったのか。俺は特別な人間だと思っていたが、実際には平凡以下の存在だったのではないか。そんな疑問が心を支配し始めた。


布団にくるまりながら、俺は天井を見つめていた。故郷の小さな部屋から見えた星空を思い出していた。あの星たちは今でも同じように輝いているのだろうか。そして、俺はここで何を見つけようとしているのだろうか。


答えは見つからなかった。ただ、深い海の底に沈んでいくような感覚だけが、俺の心を支配していた。




五月の連休明け、大学の食堂で一人で昼食を取っていると、見知った顔が視界に入った。高校の同級生だった山田だった。彼も東京の大学に進学していたのを思い出した。お互いに気づいて手を振り合い、彼は俺のテーブルに座った。


「田中、元気だったか?」


山田の笑顔は故郷で見たものと変わらなかった。だが、その安定感が逆に俺を不安にさせた。


「まあ、何とかやってるよ。山田はどうだ?」


「俺も何とかな。でも、思ってたより大変だよな、東京って」


その一言で、俺の心の奥にあった孤独感が少し和らいだ。山田も同じような思いをしているのかもしれない。


「今度、時間がある時に飲まないか?他にも何人か、故郷から出てきてる奴らがいるんだ」


山田の提案に、俺は迷わず頷いた。


一週間後、新宿の居酒屋で、俺は故郷の同級生三人と再会した。山田の他に、佐々木と鈴木もいた。みんな異なる大学に通い、それぞれ異なる経験をしていた。


「正直に言うとさ」鈴木がビールを一口飲んでから切り出した。「最初はかなり落ち込んだよ。周りのレベルが高すぎて」


佐々木も頷いた。「俺なんて、最初の英語の授業で、帰国子女の奴らが普通に議論してるのを聞いて、絶望したもん」


彼らの告白を聞いて、俺は驚いた。彼らも同じような経験をしていたのだ。俺だけが特別に苦しんでいるわけではなかった。


「でもさ」山田が続けた。「最近は少し慣れてきたかな。自分は自分なりのペースでやればいいって思うようになった」


「そうそう。比べても仕方ないもんな」鈴木が同調した。


俺は彼らの言葉を聞きながら、複雑な気持ちになった。安堵と同時に、なぜか落胆も感じていた。俺の苦悩は特別なものではなかった。ありふれた、凡庸な悩みだったのだ。


「田中はどうよ?」佐々木が俺に視線を向けた。


「まあ、似たようなもんかな」


俺は曖昧に答えた。彼らの前で、自分だけが特別に苦しんでいたなどと言えるわけがなかった。


その後、彼らは大学生活の楽しい面についても話し始めた。サークル活動、新しい友人、バイト先での出来事。彼らなりに東京での生活を楽しんでいるようだった。


「俺、最近彼女できたんだ」鈴木が照れくさそうに報告した。


「マジで?どんな子?」山田が身を乗り出した。


「同じサークルの子でさ。めっちゃ優しいんだよ」


彼らの会話を聞いていると、俺は自分が置いてきぼりにされているような気分になった。彼らは東京での新しい生活に適応し、それなりに充実した日々を送っている。俺だけが取り残されているのではないか。


「田中は何かサークル入ったか?」山田が尋ねた。


「いや、まだ決めてない」


実際には、いくつかのサークルの見学に行ったが、どこも俺には敷居が高すぎた。いや、高すぎることにして、これ以上自分を客観視したくなかっただけかもしれない。


帰り道、電車の中で俺は考えていた。彼らも最初は苦しんだが、今はそれを乗り越えて前に進んでいる。俺はまだそこから抜け出せずにいる。それは何を意味するのだろうか。


数日後、大学で偶然出会った同じ学部の田村と話をする機会があった。彼は俺と同じように地方出身だったが、既に複数のサークルに参加し、多くの友人を作っていた。


「最初は不安だったけど、案外みんな優しいよ」田村は言った。「完璧な人間なんていないし、みんなそれぞれ悩みを抱えてる」


「そんなもんかな」


「うん。俺も最初は劣等感の塊だったけど、今は楽しいよ。もちろん、まだまだ大変なこともあるけど」


田村の言葉は、故郷の同級生たちと似ていた。彼らは皆、最初の困難を乗り越えて、新しい環境に適応していた。


その夜、アパートで一人になった俺は、鏡に映る自分を見つめていた。


「俺は何をしているんだろう」


呟いた瞬間、故郷の友人の言葉が蘇った。


「お前はいつもそうだな。自分のことしか見えてない」


中学時代、些細なことで落ち込んでいた俺に、親友の原田が言った言葉だった。その時は腹が立ったが、今思い返すと、彼の指摘は的確だったかもしれない。


俺は確かに、自分の苦しみばかりに焦点を当てていた。周りの人々も同じような経験をし、同じような悩みを抱えているという事実を、どこかで受け入れたくなかった。自分だけが特別に苦しんでいるという感覚が、逆説的に俺のアイデンティティになっていたのかもしれない。


翌週、再び故郷の同級生たちと会った時、俺は思い切って本音を話してみた。


「正直、まだ全然慣れないんだ。お前らみたいに前向きになれない」


すると、山田が意外な反応を見せた。


「え、俺が前向きに見えるか?」


「見えるけど?」


「そう見えるだけだよ。実際は毎日不安だらけだ。将来のこととか、このまま東京でやっていけるのかとか」


鈴木も頷いた。「俺だって、彼女ができたって言ったけど、正直うまくいくかわからないし、勉強についていけてるとも思えない」


佐々木が苦笑いを浮かべながら言った。「みんな、表面的には頑張ってるように見せてるだけなんじゃないかな。俺も含めて」


その瞬間、俺は愕然とした。彼らも俺と同じように悩み、苦しんでいた。だが、それを受け入れながらも前に進もうとしていた。俺はその事実を受け入れることができずにいたのだ。


「結局さ」山田がビールを飲みながら続けた。「お前は独りよがりなんだよ。自分だけが苦しんでるって思い込んでる」


その言葉は、まるで矢のように俺の心を射抜いた。図星だった。俺は自分の苦しみに酔いしれ、他人の痛みや努力を見ようとしていなかった。


「でもさ」山田の表情が和らいだ。「それでもいいんだよ。誰だって独りよがりだ。俺だって、自分のことで精一杯で、他人のことなんてよくわからない」


その言葉に、俺は戸惑った。


「だから、独りよがりのまま、一緒にいればいいんじゃないか?完全に理解し合えるなんて無理だし、完全に共感することもできない。でも、それでも隣にいることはできる」


山田の言葉は、俺にとって新しい視点だった。完全に理解し合えなくても、完全に同じ気持ちにならなくても、それでも一緒にいることができる。そんな関係性があるのだろうか。




山田の言葉は、その後も俺の心に残り続けた。独りよがりのまま、一緒にいる。その意味を理解しようと、俺は日々考えていた。


六月に入り、大学での生活にも少しずつ慣れてきた。相変わらず周囲のレベルには圧倒されていたが、以前ほど絶望的な気持ちにはならなくなった。それは、故郷の友人たちとの会話のおかげだった。


ある日、図書館で勉強していると、隣に座った学生が困っているのに気づいた。彼は経済学のテキストと格闘していたが、明らかに理解に苦しんでいるようだった。


「その部分、わからないんですか?」


俺は思わず声をかけた。


「ええ、この概念がどうしても…」


彼は安堵の表情を浮かべた。俺は自分なりの理解を説明してみた。完璧な説明ではなかったが、彼には参考になったようだった。


「ありがとうございます。助かりました」


彼の感謝の言葉を聞いて、俺は不思議な気持ちになった。俺も苦手な分野で苦労していたが、それでも他人の役に立てることがあるのだ。


その学生、林と友人になった。彼は俺と似たような境遇で、地方から出てきて東京の大学生活に戸惑っていた。だが、彼の悩みは俺とは少し違っていた。彼は人付き合いが苦手で、友人を作ることに苦労していた。


「田中さんは、友人がいていいですね」


ある日、林が羨ましそうに言った。


「そんなことないよ。俺だって、最初は一人ぼっちだった」


「でも、故郷からの友人がいるじゃないですか」


確かにそうだった。だが、その友人関係も、最近になって新しい意味を持ち始めていた。


「でもさ、友人がいても、完全に理解し合えるわけじゃないんだ」


俺は山田の言葉を思い出しながら言った。


「それでも、一緒にいることができる。それが友情なのかもしれない」


林は首を傾げた。「よくわかりません」


俺も完全に理解しているわけではなかった。だが、何となく感じていることを言葉にしてみた。


「例えば、同じ映画を見ても、感じることは人それぞれだろ?でも、その違いを否定するんじゃなくて、『そういう見方もあるんだな』って受け入れる。そして、一緒に映画を見た時間を共有する。それが友情なのかな」


林は考え込むような表情を浮かべた。


その後、俺は故郷の友人たちとの関係を改めて見つめ直した。彼らとの会話の中で、俺は自分の独りよがりさを指摘された。だが、彼らはそれを否定するのではなく、受け入れてくれた。そして、独りよがりな俺と一緒にいることを選んでくれた。


七月のある夜、山田から電話がかかってきた。


週末、四人で集まった時、いつもとは少し違う雰囲気だった。以前は、それぞれの近況報告や愚痴がメインだったが、今回は互いの考えや感じていることを、もう少し深く話し合った。


「俺、最近気づいたんだけど」鈴木が言った。「みんな、同じことで悩んでるけど、感じ方は全然違うんだな」


「どういうこと?」佐々木が尋ねた。


「例えば、勉強についていけないって悩み。俺は『自分はダメな奴だ』って落ち込むけど、田中は『俺だけが苦しんでる』って孤独を感じる。山田は『でも、何とかなるだろう』って楽観的になる」


確かにその通りだった。同じ状況でも、受け取り方は人それぞれだった。


「でも、それでいいんじゃないか?」山田が言った。「無理に同じ気持ちになる必要はない。ただ、お互いの気持ちを知って、一緒にいればいい」


その夜、俺は山田の言葉の意味を、少しだけ理解できたような気がした。友情とは、完全な理解や共感ではない。お互いの違いを認めながら、それでも一緒にいることを選ぶこと。そんな関係性なのかもしれない。


アパートに戻ってから、俺は林のことを思い出した。彼は友人を作ることに苦労していたが、それは完璧な理解や共感を求めすぎているからかもしれない。


翌日、林に会った時、俺は自分なりの考えを話してみた。


「友人って、お互いを完全に理解する関係じゃないと思うんだ」


「え?」


「違いを認めて、それでも一緒にいる関係。それが友情なんじゃないかな」



俺自身も、大学での生活に対する捉え方が変わってきた。周囲のレベルに圧倒されることは相変わらずだったが、それを自分だけの問題として抱え込むことは少なくなった。みんな、それぞれの方法で同じような困難と向き合っているのだ。


そして、完全に理解し合えなくても、一緒に学び、一緒に悩み、一緒に成長していくことができる。それが、俺にとっての新しい発見だった。




夏休みが終わり、二学期が始まった頃、俺は自分の変化を実感していた。相変わらず大学の授業は難しく、周囲の学生たちのレベルに追いつくのは困難だった。バイト先でも、思うように成果を上げられないことが多かった。故郷にいた頃の輝かしい自分は、もはや遠い記憶になっていた。


だが、以前ほど絶望的な気持ちにはならなくなった。俺は凡人だった。悩みすら凡庸だった。そして、確かに独りよがりだった。その事実を、俺は受け入れ始めていた。


ある日、故郷から母親が仕送りと一緒に手紙をよこした。内容は、些末な話ばかりだった。俺が誇らしげに語って上京したときの期待や、都会で成功することへの夢は、そこには一言も触れられていなかった。

かつてなら「くだらない」と鼻で笑っただろう。だが今は、その「くだらなさ」の中に、自分の欠けている何かがあるような気がして、しばらく封筒を握りしめたまま机に突っ伏した。


その夜、同じ下宿に住む友人の佐藤と安酒を飲んだ。奴は俺よりもさらに不器用で、大学の単位を落としまくり、バイト先でもしょっちゅう怒られている。それでも笑いながら、「まあ、みんなそんなもんだろ」とグラスを掲げた。

俺はつい、「でも俺は、ここに来ればもっと特別になれると思ってた」と漏らした。

佐藤は笑いを収め、少し間を置いてから言った。

「結局お前、他人と関わることによって自分の存在価値みたいなものを感じたかっただけなんじゃないか?苦しいのも、悩んでるのも、自分だけの特権だと思ってただろ。でもな、俺も溺れてるし、お前も溺れてる。みんなそれぞれの水の中で必死にバタ足してんだよ」


その言葉に胸の奥がざらついた。悔しかった。けれど否定はできなかった。

沈黙のあと、俺は「……じゃあ、一緒に溺れるか」と笑ってみせた。

佐藤も笑い、二人で空になったコップを机に置いた。


夏が過ぎ、秋の風が窓から吹き込む。

俺は相変わらず凡人で、授業に遅れ、バイトで失敗し、小さなことで落ち込む。だが、その全てを抱えたまま、泳ぎ続けている自分をどこかで確かに感じていた。

大海は果てしなく広く、冷たく、時に容赦なく俺を沈めようとする。だが、その隣で必死に水を掻く友の姿が視界にある限り、完全には沈まないような気がした。


溺れながら、俺は今日も泳いでいる。

バタ足して泳ぎたくないから、平泳ぎで乗り切りたいですね。

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