第9話「武将たちの注目」
竜也の名は、もはや尾張の村々を超えて響き渡っていた。
「素手で武将を倒した」「火攻めの奇襲を打ち破った」――尾ひれのついた噂は、隣国へも流れ、やがて戦国の大名たちの耳に届くことになる。
◆
美濃・稲葉城。
稲葉良通は戦場帰りの兵から報告を受けていた。
「尾張の竜也とかいう若造……拳ひとつで隊を率い、敵将を打ち倒したとか」
良通は目を閉じ、あの日の拳を思い出す。
「確かに奴は阿呆だ。だが拳に迷いはなかった。……笑い飛ばすには惜しい男だ」
一方、駿河の今川義元のもとでも同じ噂が囁かれていた。
「織田家に奇妙なる客将あり。武器を持たず拳で戦い、兵を従えるという」
義元は扇を口元に当て、ゆったりと笑った。
「面白い。武士の世に、異端こそ光を放つ。いずれ我が駿河へも招いてみるか」
さらに甲斐。武田信玄の陣でも、噂話が酒肴となっていた。
「拳の男が尾張にいるらしいぞ」
信玄は盃を傾けながら唸る。
「……もし真ならば、我が軍の騎馬武者をも倒すやもしれぬな。どのような目をしているか、一度は見てみたいものだ」
こうして、竜也の存在は次第に「戦国の異端児」として注目を浴び始めていた。
◆
ある日、清洲城に織田信長が帰還した。
焔のような眼差しをした若き当主は、竜也を呼び出すと、酒を注ぎながら豪快に笑った。
「お前……また騒ぎを起こしたらしいな」
竜也はふてぶてしく盃を受け取り、酒を煽った。
「騒ぎじゃねぇ。ただタイマン張っただけだ」
その返答に、信長は腹を抱えて笑い出す。
「はははっ! やはりお前は面白い! 戦を群れでなく、拳ひとつで語ろうとするとはな」
信長の笑いが収まると、瞳は一変して鋭さを帯びた。
「竜也。俺は天下を取る。尾張を超え、美濃を喰らい、京を押さえる。……その野望のために、お前の拳を貸せ」
静まり返る室内。家臣たちも耳を傾け、竜也の答えを待った。
竜也は盃を机に置き、口の端を吊り上げた。
「天下? そんなもん興味ねぇな」
信長の眉がわずかに動く。
だが竜也は続けた。
「オレはただ、強ぇ奴とタイマン張れりゃそれでいい。天下とか名誉とか……クソくらえだ」
一瞬、家臣たちの間にざわめきが走る。
「な、なんという無礼……!」
「信長公の申し出を断るとは……!」
だが信長は再び爆笑した。
「がはははっ! やはりだ! お前は俺と似ている。常識に縛られぬ。だからこそ気に入った!」
そう言って、信長は豪快に盃をぶつけ、酒を飲み干した。
「よし、竜也。お前は好きに暴れろ。天下布武は俺がやる。だが、お前の拳は必ずこの乱世に必要となる!」
◆
その夜、竜也は城下町を歩いていた。
火の粉のように噂が飛び交い、人々が遠巻きに彼を見て囁いた。
「……あの人が竜也様だ」
「信長公も一目置くらしいぞ」
「拳で戦を変える男……」
竜也は鼻を鳴らし、夜空を見上げた。
「チッ……みんな群れて騒ぐばっかだ。けどまあ……強ぇ奴と殴り合えるなら、それで十分だろ」
拳を固く握りしめる。
――その拳は、すでに一国の注目を超え、乱世全体を揺さぶり始めていた。