第38話「疾風の策士」
戦場に冷たい風が走った。
倒れた赤備えの山県昌景を見届けると同時に、武田本陣から別の旗が翻る。白地に「高坂」の文字。智将・高坂昌信が前に進み出ていた。
「赤備えを破るとはな……だが、力だけでは戦は終わらぬ。愚か者どもに、戦場の理を教えてやろう」
昌信は馬を駆り、竜也組を翻弄するように円を描きながら矢を番えた。
次の瞬間、矢が空を裂き、大助の胸を目がけて飛んでくる。
「ぐぉッ!」
大助はとっさに腕を交差させて受けた。鋭い痛みが走り、鮮血が飛び散る。
「おい大助!」
仲間が叫ぶが、大助は口の端を吊り上げて笑った。
「へっ……これくらい、昔から慣れてんだよ!」
昌信は冷笑した。
「矢を素手で受けるなど、愚かの極み。戦場に策を知らぬ者など、獣も同じよ」
再び矢が雨のように降り注ぐ。大助の腕や肩に突き刺さり、血が滴る。だが彼は一歩も退かなかった。
「策? 理? 知ったことか!」
大助は血まみれの体を前に出し、叫ぶ。
「俺にあるのは拳だけだ! 真っ直ぐ叩き込む、それだけだッ!」
昌信の眉がわずかに動く。矢を射る手が止まらない。だが大助はノーガードのまま突き進んだ。
矢が肉を裂く音が響く。それでも大助の足は止まらない。
「ぐおおおおおおおおッ!!」
獣じみた咆哮と共に、大助は突進する。馬上から見下ろす昌信が冷静に槍を構える。
「ならばその無謀、ここで終わらせてやろう!」
槍の穂先が閃き、大助の胸元を狙う。
だが大助は一歩踏み込み、己の胸で槍を受け止めた。鉄と肉がぶつかり、血が飛び散る。
「なっ……!?」
昌信が目を見開く。
「策なんざクソくらえだァ!!」
大助の拳が振り抜かれる。血を撒き散らしながら繰り出された右ストレートは、馬上の昌信を真正面から撃ち抜いた。
ドゴォォンッ!!
鉄兜が砕け、昌信の体が馬から投げ出される。地面に叩きつけられた衝撃で土煙が舞い上がった。
「ぐっ……馬鹿な……ただの拳で……」
倒れ伏した昌信の口から血が流れ、声が途切れた。
◆
戦場に一瞬の静寂が訪れる。
そして竜也組の仲間たちが一斉に吠えた。
「大助ぇぇぇッ!!」
「やりやがった!!」
大助は荒い息を吐きながらも、拳を天に突き上げた。
「見たか……! これが竜也組の拳だ! 矢でも槍でも、俺の拳は止まらねぇ!!」
血に染まった姿はまさに鬼神。兵たちは震え上がり、竜也組の士気は炎のごとく燃え上がった。
◆
遠くからその光景を見つめていた武田信玄は、扇を口元に当てて小さく笑った。
「ほう……策をも拳で打ち破るか。面白い。ならば次は、乱世を生き抜いた老骨に試させるとしよう」
「……馬場、出よ」
「はっ」
静かに進み出る老将・馬場信春。その背には、何度倒れても立ち上がる“不死身”の名があった。
乱世の嵐は、さらに勢いを増して迫っていた。




