第35話「猛虎の影」
姉川の戦いは勝利に終わった。
だが、竜也の胸に広がるのは晴れやかな達成感ではない。血に濡れた拳を見つめながら、ただ深い悔しさが渦巻いていた。
「……長政の奴、最後まで筋を通しやがった……」
勝鬨が響く城下を背に、竜也は一人つぶやいた。義兄弟と呼んだ男を、自らの拳で沈めた痛みは、勝利の喜びを覆い隠すには十分すぎた。
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凱旋の陣屋。酒と笑いに沸く織田方の中で、竜也組だけは重苦しい沈黙に包まれていた。
「竜也殿……」新次郎が声をかける。「竜也殿、無理してるんじゃないですか?」
竜也は首を横に振った。
「無理なんかしてねぇ。ただ……義を守るために裏切った奴を、俺の拳で止めなきゃならなかった。それが、どうしようもなく悔しいだけだ」
拳を握り直す竜也。その背中を、仲間たちは何も言えずに見守った。
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そこへ現れたのは、信長だった。戦場から帰ったばかりだというのに、目には疲労の影すらない。
「竜也。おぬしの悔しさ、よく分かるぞ」
信長は豪快に笑うと、盃を煽った。
「だがな! そんな無駄を抱えた拳だからこそ、おぬしは誰よりも強い。義も情も切り捨てた奴らなど、所詮は骨抜きよ!」
竜也は立ち上がり、吠えるように返す。
「義を捨てたらタイマンは死ぬ! 長政の拳……俺は絶対に忘れねぇ!」
その言葉に、信長は豪快に頷いた。
「ならば次を見据えよ。浅井を退けた次の敵――甲斐の虎、武田信玄だ!」
一瞬で陣屋の空気が変わった。竜也組の面々が顔を見合わせる。
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「武田……あの“風林火山”のか」
「馬の軍団相手に、俺ら拳でどうしろってんだよ!」
「冗談じゃねぇ、馬に蹴られたら一発で終わりだ!」
仲間たちの不安は爆発した。竜也も眉をひそめる。
「馬に乗らねぇでどうやって戦うんだよ……」
その言葉を待っていたかのように、信長が大声で笑い飛ばした。
「拳で馬を止めろ!」
「はあ!?」竜也組全員が素っ頓狂な声を上げた。
信長はさらに声を張り上げる。
「おぬしたちの拳は、すでに槍も刀も砕いた。ならば次は馬よ! 馬すら止められねば、この乱世を生き残れん!」
その言葉に、竜也の胸の奥で熱が弾けた。
「……上等だ。見せてやるよ、俺の拳がまだ死んじゃいねぇってことを!」
燃える瞳で拳を握りしめ、竜也は天を突くように吠えた。
その雄叫びに竜也組の仲間たちも気勢を上げる。重苦しかった空気は一変し、戦意が燃え上がった。
◆
その夜、甲斐の国・躑躅ヶ崎館。
信玄は床几に腰を掛け、扇で口元を隠しながら軍議を開いていた。山県昌景、馬場信春、高坂昌信、内藤昌豊――武田四天王が居並ぶ。
「織田に、竜也という怪物がおるそうにございます」
報告に、四天王の一人が苦笑した。
「素手のタイマン狂いの暴れ者と……真か偽か」
信玄は扇を閉じ、口角を吊り上げる。
「面白い。拳と我ら、どちらが強いか――この乱世に試さぬ理由はあるまい」
その笑みは、乱世の猛虎の影を浮かび上がらせた。
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美濃の空に吹く風が変わり始めていた。
竜也の拳と、信玄の騎馬――乱世の新たな激突が迫っている。




