第34話「義の果て」
姉川の河原に、ようやく静けさが訪れた。
血と泥にまみれた大地には、折れた槍や破れた旗が散らばり、敗走する浅井・朝倉の兵が遠くに消えていく。
勝利の余韻に沸く織田の陣の中で、竜也だけが立ち尽くしていた。
「……長政の奴、本気で俺とぶつかりやがった……」
竜也は拳を握りしめたまま、まだ息を荒げている。
胸の奥に重く沈むのは、勝利の喜びではなく、義兄弟と呼んだ男と拳を交えた痛みだった。
あの拳には迷いがなかった。
裏切りの汚名を背負いながらも、長政は義を捨てぬために立ち上がった。
――だからこそ、余計に悔しい。
背後から、鎧の金具が鳴る音がした。
「竜也」
低く、だがよく通る声。振り返らずとも分かる。織田信長だ。
竜也は唇を噛みしめたまま、河原に目を落とした。
「信長……あいつは敵だ。だが筋を通した。裏切っても義を貫いた……! そんな奴を俺の拳で沈めなきゃならねぇなんてよ……悔しくてしょうがねぇんだ!」
言葉は震えていた。だが、それを隠そうとはしなかった。
信長は竜也の背中を見つめ、しばし沈黙した。
そして――次の瞬間、大声で笑い出した。
「はーっはっはっは! やっぱりおぬしは面白ぇ! この乱世で“義”だの“仁義”だの口にする阿呆は、竜也ぐらいのもんよ!」
竜也は振り返り、吠えるように言った。
「義を捨てたらタイマンは死ぬんだ! 俺は絶対に忘れねぇ……長政の拳を! あいつは俺の義兄弟だった!」
その眼差しに、信長の瞳がぎらりと光る。
「良いぞ、竜也!」
豪快に一歩踏み出すと、信長は竜也の肩をガシリと掴んだ。
「くだらぬ義だ、無駄な情だ――だが、そんなものを抱えたまま拳を振るうからこそ、おぬしは強ぇ! 無駄を捨てた連中など、結局は骨抜きよ!」
その声には嘲笑ではなく、心からの賞賛があった。
「長政も幸せ者だな。おぬしに義兄弟と呼ばれ、拳を交えられたのだからよ!」
信長は大きく笑った。その笑みは、敵にすら敬意を払う器の大きさを映していた。
竜也はうつむき、悔しさを隠さずに言葉を吐く。
「……俺はまだ弱ぇ。義を守るって言いながら、長政を救えねぇ。結局、力不足のまま拳を振るっただけだ」
その言葉に、信長はニヤリと口角を上げた。
「ならば次は武田よ。乱世の猛虎、甲斐の信玄。その獣に義を抱えた拳をぶつけてみせろ! それができるのは、竜也……おぬしだけだ!」
信長の声は、戦場のざわめきを圧するほどに響いた。
竜也は顔を上げ、燃えるような瞳で拳を握り直す。
「……ああ、見せてやるよ。俺の義は、まだ死んじゃいねぇってことを!」
その瞬間、空を突き抜けるような雄叫びが、竜也の喉からほとばしった。
兵たちは振り返り、その姿に圧倒された。
――義を抱いた拳。
それは時代遅れの幻想かもしれない。
だが乱世を駆け抜ける竜也にとって、それこそが生きる証だった。
血と泥にまみれた大地の上で、竜也の瞳は確かに燃えていた。
義を笑う者がいようと、無駄と切り捨てる者がいようと――竜也の拳は義を抱いて進む。
その背を見て、信長は再び笑った。
「面白ぇぞ、竜也! この乱世……最後まで拳で暴れてみせろ!」
蒼天の下、竜也の義と乱世の無情が交差する。
次なる舞台――武田との激突が、もうすぐそこまで迫っていた。




