第33話「義兄弟の拳」
姉川の河原は、静まり返っていた。
鬨の声も槍のきしみも消え失せ、ただ二人の男を中心に時が止まっているかのようだった。
竜也と長政。
義兄弟と呼び合った男たちが、今や敵として拳を構えていた。
「……長政。てめぇ、本当に刀を捨てやがったな」
竜也は低く呟く。
長政は足元に置かれた太刀へ視線を落とし、静かに答える。
「俺は剣でお前を斬りたくはない。竜也殿――あんたの拳にこそ、俺のすべてをぶつけたいのだ」
竜也の胸が熱くなる。裏切られた怒りと、義を通す長政への敬意がせめぎ合い、感情が渦を巻いた。
「ったくよ……最後まで筋の通った野郎だぜ!」
――次の瞬間、二人の拳が同時に弾けた。
◆
「ぐっ……!」
竜也の顎に長政の拳が突き刺さり、視界が一瞬揺らぐ。だが、すかさず竜也の右が長政の頬を打ち抜いた。
ドゴォッ!
肉と骨の鈍い音が響き、血飛沫が舞う。
「ひぃ……人間の戦いじゃねぇ……!」
兵士たちは震え、互いに目を見合わせた。敵も味方も、拳と拳の激突から目を逸らすことができない。
竜也は息を荒げ、笑みを浮かべた。
「やるじゃねぇか、長政! てめぇの拳、重ぇぞ!」
長政は唇を裂かれながらも、静かに応じた。
「俺は……義を捨てぬために戦う。浅井の名を守るために、この拳を振るう!」
◆
何度も拳が交錯し、血が流れ、二人の体はボロボロになっていった。
竜也の脇腹に長政の拳が叩き込まれ、肺から息が漏れる。
「ぐはっ……!」
膝が折れかけるが、竜也は踏ん張った。
「裏切りやがって……! だが義を通すてめぇを、俺は嫌いになれねぇんだよォッ!」
叫びながら渾身の左を叩き込む。
長政の顔が歪み、血が飛び散る。だが彼もまた拳を返す。
「竜也殿……! 俺も……あんたを裏切りたくはなかったッ!」
二人の拳は互いの頬を同時に撃ち抜き、倒れかけては再び立ち上がる。
その姿は、もはや戦国の武将ではなく、ただ拳で語り合う男たちの姿だった。
◆
やがて、竜也の瞳が炎のように燃え上がる。
「長政――これで終いだァッ!」
大地を踏み砕くほどの踏み込み。腰を捻り、全身の力を込めた渾身の拳が長政の胸を貫いた。
ドガァッ!!
轟音が戦場を揺らし、長政の体が宙に浮く。
「ぐっ……は……!」
長政は血を吐き、地に叩きつけられた。砂と血にまみれながらも、なお笑みを浮かべる。
「やはり……竜也殿は……俺の義兄弟だ……」
その言葉を最後に、長政は兵たちに抱えられ、退いていった。
◆
竜也は荒い息をつき、拳を見下ろした。血と泥にまみれ、震える手。
「……バカヤロウ。なんでこんな時代に……お前と出会っちまったんだよ……!」
目頭が熱くなる。だが涙を見せるわけにはいかない。
背後で竜也組の新次郎や大助が駆け寄る。
「竜也殿!」
「大丈夫ですか!」
竜也は振り返り、乱れた息のまま豪快に笑った。
「へっ……俺の拳に倒れたくらいで、長政が死ぬかよ。あいつはまだ立ち上がる。絶対にな……!」
その言葉を噛みしめるように吐き、竜也は空を仰いだ。
蒼天の下、義兄弟の拳が刻んだ絆は、決して消えることはなかった。




