第32話「裏切りの決断」
永禄十三年――。
夏の空はどこまでも蒼く澄み渡り、だが地を覆うのは戦火の煙だった。
織田と浅井の同盟は、もはや形だけのものとなっていた。
信長が朝倉義景を討たんと進軍すると、長政はついに決断する。
「……浅井は、浅井の義を守る。父祖の縁を裏切ることはできぬ」
その声は震えてはいなかったが、胸の奥に重い痛みを宿していた。
◆
姉川の河原。
鬨の声が轟き、地を震わすほどの軍勢が対峙する。
織田の旗、浅井の旗、そして朝倉の旗が入り乱れ、乱世の縮図のごとき光景が広がっていた。
「……な、なんで浅井が敵に立ってやがる……」
竜也は目を見開き、信じられぬ思いで叫んだ。
その先頭、堂々と馬を進める長政の姿――義兄弟と誓い合った男が、確かに敵の陣に立っていた。
「てめぇ……長政ッ!」
竜也の怒号が戦場を貫いた。兵たちが一瞬たじろぎ、ざわめきが広がる。
「竜也殿……!」
長政は馬を降り、静かに前へと歩み出る。その手には太刀があったが、彼は鞘ごと地に置いた。
「義のためだ。織田に背を向けても、我が家の縁を守らねばならぬ。竜也殿、義兄弟だからこそ……俺はあんたと拳で決着をつける!」
兵たちの間に道が空く。敵味方を超えて、二人の拳に注がれる視線。
「……てめぇ……本気でやる気かよ」
竜也の拳が震える。怒りか、哀しみか、自分でも分からなかった。
◆
「竜也殿!」
背後から竜也組の新次郎が叫ぶ。
「裏切り者なんざ、俺たちでやってやります! 竜也殿は行くな!」
だが竜也は振り返らず、前へと進んだ。
「……義兄弟のケンカは、俺がケリつける」
大助もまた拳を握りしめたが、その背中にかける言葉を失っていた。
◆
長政と竜也、二人は戦場中央に立つ。
周囲の兵たちは槍を下げ、呼吸すら止めて見守っていた。
「長政ォ……! 俺はてめぇを信じてたんだぞ!」
「分かっている! 俺とて裏切りたくはなかった! だが浅井の義を捨てるくらいなら……友を裏切るしかなかった!」
竜也の胸が抉られるように痛んだ。
――裏切りやがった。だが、それが義だと言うなら……。
「……分かったよ。だったら拳で確かめるしかねぇな!」
二人の拳が同時に構えられる。
戦場は静まり返り、ただ蝉の声と川のせせらぎが響いた。
◆
「竜也組、構えろォ!」
信長の声が飛ぶ。
「全軍、この勝負を見届けよ!」
敵も味方も、誰一人動かない。
竜也と長政、義兄弟の拳が交わる瞬間を待っていた。
「来い、長政ィッ!」
「応えよう、竜也殿ッ!」
二つの拳が、乱世の空を裂いた――。




