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2016年11月29日23時27分

『……そこで止まってください』


 その声は、ぬるりとした滑りで、背後から唐突に現れた。


 山田と田中を追って、全力で廊下を駆けていた松田、須賀、川場、向居の四人。


 まるでコマンド入力されたかのように、全員ピタリと足を止めた。


(な、なにぃ!?)


(まったく気配がなかっただと……!?)


(背後を取られた!)


(不覚ッッ! 我、未熟ッッ!!)


 まるで突如背後に出現した暗殺者。あるいは、突如リボルバーの照準に捉えられたような、ビリビリとした殺気。


 四人とも息を呑みながら、口には出さずに一歩後ずさった。息ぴったりである。


「い、今の声……誰だ?」


「おい冗談じゃねえぞ。まさか……さっきの目撃者以外にも何か、何か潜んでやがるのか……?」


 須賀の声は震え、松田は背中にじっとりと冷たい汗を感じながら、ゆっくりと周囲を見回す。


 振り返った先に──誰もいない。


「……いない!? いや、そんなバカな……」


「今の声、確かに聞こえたよな……!? もしかして……幽霊……?」


 向居が一番言ってはいけない言葉を口にした瞬間だった。


 ──かつーん。


 廊下の片隅に飾られていた花瓶が、ぐらりと揺れ、そして無念の重力に屈して落下。


 乾いた音を立てて床にぶつかる。


「す、スナイパーだ!!」


 川場が突如叫ぶ。


 全員、反射的にうつぶせになる。素早い。経験者か。


 だが──どこにも敵の姿はない。スコープの赤点も、レーザーサイトの線もない。


 つまり、完全に見えてない。完全に無防備。


「おい、どこから狙っている?」


「分からん」


「でも今撃ってきていないということは、相手にとっても死角だろう」


 この論理が通用するのは、たぶん漫画の中だけである。


 松田と川場は真顔。思考が戦場モードに入っている。何の戦場だ。


「待て待て、松田と川場よ。そもそもスナイパーだったのか? 冷静に考えろ。高校生の俺らを深夜、スナイパーが狙うか? しかも声が聞こえたろ。もっと近くなのに、スナイパーやるのか?」


 須賀のもっともな指摘に、松田と川場がふり返り、にやりと笑う。


「バカ野郎。そういう“無理ある設定”の方が燃えるだろ」


「ああ、全くだ。男子高校生ってのはな、常に脳内でテロリストと戦ってんだよ」


 須賀は思った。ああ、こいつらアホだ。全員、話の流れで普通にスナイパーを受け入れ始めてる。


 そのとき、向居がじわりと匍匐ほふく前進で近づいてきた。地味にうまい。どこで覚えた。


「おそらく十二時の方向だな。そっちは気をつけよう。でだ、何よりも冷静さが大切。そもそも先ほどの声を分析しよう。男の声だったぞ……なんというか……異様にモテなさそうな……陰のある……」


 川場は匍匐前進のまま、腕を組んで考え込む。


「俺の声に似ていたが……あれは……ちょっと、身に覚えのある響きだった……」


「つまり川場のような陰キャってことか」


「ああ、須賀、その通りだな」


「松田、須賀、黙れよ。俺の”中本さん大好き”で、”自称ボートレース部”で、”ムキムキ黒光り陰キャ”設定は、まじで洒落にならんから、そこだけ修正させて」


 すると、向居がぴくりと眉を動かした。


「……まさか……!」


「「「どうした?」」」


 向居は、にやりと笑った。


「精霊かもしれん」


「「「精霊!?」」」


 三人の叫びが美しくハモり、四階の渡り廊下にこだました。


 向居は匍匐前進のまま、なぜか胸元からスッと五円玉を取り出した。


「そもそも気になっていたが、貴様ら、”恋”とは、何だと思う?」


 松田、須賀、川場は互いに顔を見合わせる。誰が最初に狂気を口にするかの睨み合いだ。


 すると、トップバッターは松田。さすが授業中に「先生、うんこ」と宣言し、トイレに行く回数が県内一位を誇る男。その称号は伊達ではない。愛称はもちろん「うんこの松田」。その彼が、堂々と切り出した。


「恋とは……つまり“豆苗”だな」


 第一声から不穏である。松田は腕を組み、やけに神妙な顔で続ける。


「一度切られても、また芽が出る。陽の光を浴びて、ぬるぬる育つ。そしてまた切られる。だが、また育つ。俺の恋も、そうやって……ぬるぬる再生するはずなんだ……」


 沈黙。松田だけが満足そうな顔をしていた。周囲は、ぬるぬるという単語の圧倒的な湿度に耐えきれず、やや後退。


「……よ、よし、次は俺だな」


 二番手は須賀。ここまで一応、読者に“常識人枠”と思わせる描写を積み重ねてきた彼としては、ここが正念場。少なくとも“豆苗”を超える発言は避けたい。筆者の信頼を維持するためにも、誠実かつそれっぽいコメントを目指す。


「恋とは……新しい自分を発見する、通過儀礼だと思う」


 真面目だ。前置きがすでにうさんくさい。


「たとえば、下校中に橘さんの影を踏まないように気をつけて歩いてる自分に気づいた時……俺は、人として一皮むけたな、と思ったんだ」


 よく分からないが、無駄に美談っぽい。読者が「いや、だから何?」と思った頃には、すでに須賀は少し得意げになっていた。


 ……が、松田、川場、向居、全員ドン引き。いま確かに、小説内の“冷静ポジション”が、ぐらっと揺れた。


(須賀……お前、裏で泣けるアオハル恋愛小説読んでるタイプか……?)


 読者にも伝わる、地味に痛い設定がここで漏洩。不覚である。


「……お、俺か……」


 最後にバトンを渡されたのは川場。バカである。しかし、ここはトリだ。ある種の“締め”が求められている。


 彼の当初のキャラ設定は「中本さんファンクラブ設立者にして狂信者」。しかし、初めての自己否定という気づきの中、本人的にはそろそろ“まともな男子高校生役”に戻りたいと考えている。


 が、一度貼った変態キャラのラベルは、なかなか剥がせない。


 どうする、川場?!


 川場は深呼吸し、静かに語り始めた。


「……恋とは、一種の宗教である」


 松田が「来たな……」と呟く。嫌な予感しかしない。


「中本さんの名を唱え、通知を祈り、既読スルーを試練と捉える。その受難に耐え、立ち上がる。そこにこそ、自己の存在意義があるんだ……彼女のインスタのストーリーが一時間更新されなくても、俺は信じ続ける……愛とは信仰……信仰とは、ログイン通知……」


 顔がガチだ。内容がサイコだ。


 松田と須賀は、匍匐前進、いや匍匐後進で三歩下がった。全員ドン引きである。


 だが、筆者は泣いた。川場よ、お前は狂っている。だが、そのキャラを裏切らない覚悟、まさにプロの仕事。狂気に身を捧げたその姿勢に、胸が熱くなる。


 で、総論である。


 放課後、好きな女の子とスタバに行き、キャラメルフラペチーノを頼み、「一口ちょうだい」と言われてドキッとする――そんな健全でそこそこリアルな男子高校生であれば、恋についても、もっと地に足のついた回答ができるだろう。


 だがここにいる三名。心は健全だが、恋という神経回路に致命的なバグを抱えてしまった者たちである。ある者は恋を豆苗とし、ある者は影を避け、ある者は宗教の扉を開いた。ここには、もはや「常識的な恋」の定義を参照するサーバーが無い。DNSエラーである。非常に由々しき問題である。


 だが――。


 一番の問題は、おそらく彼らを描き続けているこの筆者自身であろう。


 小話となって恐縮だが、今回は更新の間隔が一週間以上も空いてしまった。理由はシンプルだ。筆者が他に高校生のアオハル系の小説(本作とはまったく毛色が異なる健全系)や、女子バスケを舞台にした本格ミステリの構想などに追われていたからである。そして何より、社会人としての出張と飲み会が重なり、夜の創作活動が困難になっていた。移動の新幹線で思った。


「……俺は今、なぜ“ぬるぬる育つ豆苗の恋”を書いてるんだ?」


 いや、正確には、“どうして俺は深夜に、もてない男子高校生たちの異様にねじれた恋愛観を、ここまで真剣に描いているのか?”である。


 同年代は結婚し、家を買い、子供が生まれ、管理職になり、起業し、海外移住し、資産形成を始め、親の老後を考え始めている奴もいる。そんな中、筆者は夜な夜な、睡眠を削って、どれだけ男子高校生のゲロラップと恋愛儀式を気持ち悪く描けるかに全力を注いでいる。


 これは果たして、生産的なのか。誰のためになっているのか。創作を重ねるたびに、少しずつHPが削られていく感覚がある。が、それでもこの問題作を「重い」と思いながら書いてしまうのは、どうしようもなくくだらないからだ。人間とは矛盾でできている。


 そのため今回は、筆者の内面が若干漏れたメタ発言が多めであることを、どうかご容赦いただきたい。


 ――で、話を戻す。


 そんな彼らの「恋の定義」を聞いた向居は、ふっと口角を上げた。そして、まるで選挙カーの上から訴えかける候補者のように、静かに、しかし言葉に熱を込めてこう言った。


「……貴様ら、甘い。甘すぎるぞ。恋とは何か。そんな問いを、あろうことか感情で答えるとは……貴様ら、まだ“恋”の偏差値が30台だ。再試レベルだ。教壇の俺に注目しろ。今から、真理を授けてやる。聞け、これは“恋”の真髄だ!!」


 そして向居は、スッと、五円玉を揺らし出す。


「恋とはな……“儀式”だ。分かるか? 霊的儀式なのだ。すべては脳のホルモンの連鎖。そしてそれを誘発するのは――自己暗示。すなわち、“好き”という思い込みだ」


 松田、須賀、川場がその場でポカンとしているのをよそに、向居はさらに力を込める。


「例えばな、君たちが『あの子、かわいい』と思った瞬間。脳内ではセロトニン、ドーパミン、オキシトシンがドバドバ出てる。あれはもう合法ドラッグだ。恋は脳内麻薬。だから気持ちいい。だから依存する。だから振られたら、禁断症状のように苦しむ!」


 拳を握りしめ、床をバン! と叩いた。


「だがな、ただの化学反応と片づけるには、“奇跡”が過ぎるんだ。なぜなら、相手も同じように思い込み、同じようにテンションを上げて、同時に“好き”と思ってくれる可能性がある。それが両想い――これはもう、化学を超えた神学の領域だ!」


 松田が「えっ、宗教?」と呟いたが、向居は聞こえなかったふりをした。


「だからこそ、恋を見守る何らかの霊的存在がいる……そう考えて、何がおかしい? 我々は“精霊”の存在を無視してはいけない! この作品が”恋愛小説”であるならば、なおさらだ!」


 一拍、静寂。三人の顔が、完全に「???」で埋め尽くされていた。


(……な、なんなんだ今のは……)


 松田はそれでも勇気を出して口を開いた。


「いや、冷静に考えろ。今までこの小説でやってたの、天パ、生徒会長、お経ラップ、あとゲロの応酬だぞ?」


 須賀も眉をしかめる。


「恋愛要素ゼロだし、今のジャンル、明らかにコメディだろ。しかも、けっこう悪質なやつな! 筆者の高校時代を元にしてるとか言ってたけど、これ同級生が読んだら――筆者、地元で生きてけねぇぞ!? これが代表作になったら、葬式でゲロラップ流されるぞ!? クソ小説だぞ!」


「創造神を否定する気か! 黙れ小僧!!」


 唐突に声を張り上げた向居。手には、いつのまにか修学旅行のパンフを巻いた“巻物スタイルフリップ”が。


「お前たちは恋の儚さを、まったくわかっておらん!!」


 突如、向居が天を仰いで叫んだ。まるで地動説を見つけた預言者のように。


「恋とはな! 奇跡だ! 生まれることすら確率の壁を超え、育つなど神話! 成就するなど――宇宙!!」


 その“宇宙”の一言で、廊下が若干震えた気がした。空調ではない。向居の気圧である。


「そもそも松田よ。お前は中本さんに恋をしたな?」


「した……、したに決まってるだろうがッ!」


 松田はドンと胸を叩き、天井を仰いだ。


「俺は恋をした。爆発的に、鮮烈に、まるで彗星が俺の心臓に着弾したような恋をな!!」


「うるせえよ。彗星直撃してんじゃねえよ」


「須賀、黙れ! それぐらいの衝撃だったんだよ!」


 松田は何もない空間に向かってガッツポーズをキメた。


「考えてみろ! 俺みたいな一般男性(じつは怪しい)が! あの中本さん(もはや天界)に! 恋をしたんだぞ!? これはもう、奇跡のコラボ! 歴史的邂逅! 中本さんにとっても、なんか……すごく、名誉なことだろ!? 俺に好かれるって!!」


「この犯罪予備軍がァ!!」と叫びかけた須賀だったが、寸前で声帯を封印。


 いや、まずい。ここで言ったらフラグが立つ。


 最終日、松田が『中本さんへの本気のラブソング〜転調で愛して〜』とか歌い出す未来が見えた。


 それを描く筆者が精神崩壊する。いやマジで。


 ……それだけは避けねばならない。


 須賀は静かに、現実からログアウトした。


 だが、向居が続ける。


「松田よ。その恋に落ちる確率を考えてみろ。人が人に恋をする――そんなの確率で測れない。でも、だからこそ、とんでもなく愛おしい。まさに宇宙の神秘だと思わないか?」


「た、たしかに……」


 松田の反応に、向居は満足げに笑うと、今度はぐるっと皆を見渡した。


「つまりな。恋をするとな、それを応援する“精霊”が現れるってことさ」


「せ、精霊!?」


「そうだ。二人をそっと後押しする、運命の小さな使者……それが、恋精霊(ラブピクシー)だ」


 名前ついてんのかよ。


「たとえば恋みくじが唐突に出てくるのも、精霊の仕業。俺が精霊と交信できるのも、まあ当然っちゃ当然」


「向居……お前……」


 松田は感極まり、向居と肩を抱き合った。完全に“友情”のBGMが流れそうな雰囲気。


 だが――背景を知っている須賀からすれば、ただのバカふたりの情念空回り会である。


 須賀はそっと、隣の川場に視線を向けた。


 中本さんのことを、誰よりも長く、誰よりも真剣に想っていた川場にとって、この現状はもはや地獄絵図――なのではないか。


「川場、大丈夫か?」


 気になって、つい口に出た。だって親友だから。


「何が?」


「いや、向居のあのアホ理論で、松田が完全に調子に乗っててさ……。もし、中本さんに何かあったら……」


 川場はふとスマホを取り出し、一瞬だけ画面を見て、ポケットにしまった。


 そして、静かな声で言った。


「ああ、それなら心配ない」


 さらっとしていて、やけに落ち着いていた。


「俺は、中本さんを信じてる。松田の告白? たぶん、普通に断ると思う。あの人は、いきなり『好きです!』って言われて、はい喜んで! って返すような、軽い人じゃない」


 そして少し間を置き、ゆっくりと言葉を続けた。


「もちろん見た目も大事だろう。でも、それ以上に大事なのは相性とか価値観とか……中本さんは、そういう“目に見えないとこ”をちゃんと見れる人だと思うんだ」


 真顔だった。冗談のかけらもない。


 いつものアホが嘘のような、真剣モードだ。


「しかもな」


 川場はもう一度スマホを開き、少し得意げに画面を見せる。


「もし万が一、中本さんがご乱心して、間違って松田と付き合ったら――そのときは、この今までの愚行集をまとめて提出するつもりだ」


「愚行集?」


「向居とのスピリチュアル交信、恋=宇宙理論、あと告白練習とか。俺、全部スマホで録音してる。証拠として」


 その目は、完全に私情を捨てた諜報員。


 いや、国家機密を守るCIA級の冷徹さがあった。


「間違った形のゴール(交際)は……絶対に許さない。それが、俺なりの“友情”のかたちだ」


 須賀は泣いた。男子高校生なのに、涙腺がばがば。


 あまりにも成熟していて、あまりにもバカで、あまりにもかっこよかった。


「――川場、お前……ちゃんとしてんな……」


 そんな感動のさなか、後方で何やら異音がした。


「ちなみに松田よ。精霊の声、2000円で代行して聞いてやってもいいぞ」


 真顔で、向居が商売を始めていた。


「なに!? 聞けるのか!?」


「もちろん。しかも今なら月額サブスクもある。2万円で精霊の声聞き放題、恋愛運アップ、金運は……不明。初月無料、継続縛りなし。ほら、このQRコードからどうぞ」


 須賀はもう止める気力すらなかった。


 というより、途中から川場との感動のシーンの尺すら返せとすら思っていた。


 そして――そのときだった。


『……あの、無視しないでくれます?』


 あの声が――また聞こえた。


 盛り上がっていた空気を、まるでぬるぬるのナメクジが通過したようなねっとりボイスがズブリと貫いた。


 全員、即時・顔面蒼白。


 息を呑むどころか、肺が自主的に沈黙を選んだ。


「おい……須賀、今の……誰だ……?」


 松田が、声帯の震えだけでしゃべるような音量で訊く。全員、答えを知りたがっていたが――誰も、わからない。


 須賀は、ゆっくりと向居のほうを向き、声を絞り出した。


「……向居。霊視、できるか?」


 向居は無言で頷き、リュックをガサガサと漁る。


 そして、霊視用サングラス(眼鏡市場で税込12,800円・UVカット仕様)を神妙な手つきで取り出した。


 ス……と、無駄にカッコよく装着し、じっと周囲を見渡す。


 そして数秒後――静かに呟いた。


「……ああ。見える……見えるぞ……」


「な、なにが!? なんだよ!? 俺死ぬの!?」


 松田がワナワナと震える。向居はサングラスの奥でうっすら笑った。


「松田を……祝福する……精霊たちがな……」


「おおおおおおおお!!!」


「黙れお前らァ!!! そのノリもう2回目だ!!!」


 須賀が全力でツッコむも、すでにこの集団、“理性”というOSをアンインストール済みだった。


「川場! お前はどうなんだ! 何か感じないか!?」


 須賀が最後の希望を託すように振ると、川場は鼻を押さえ、どこか遠くを見る目で言った。


「すまん……俺の“フィジカルギフテッド(野生嗅覚)”は……海パンアタックの衝撃で完全に死んだ……。細胞レベルで、嗅覚がサイレントモードだ……」


「くっ……! ここまでか……!」


 須賀が崩れ落ちかけた、そのとき――。


 ――ドスン……ドスン……ドスン……。


 不気味な足音が、廊下の奥から、ゆっくりと、しかし確実にこちらに向かってくる。


「……な、なあ……」


「なあ……なあ……これ、ガチのやつじゃねえか……?」


「南無妙法蓮華経!!!!!!」


 一斉に祈り出す男子高校生たち。現代日本においてもっとも信仰心のないカテゴリにしては、すさまじい念のこもりよう。


 そして――“それ”は、音もなく現れた。


「ぎゃあああああああああああ!!!」


 叫ぶ叫ぶ叫ぶ! 今まで使ってなかった肺の力、ここで全解放!


 だが、ただ一人、須賀だけが“それ”の顔に見覚えがあった。


「……お、お前……津田じゃねえか!? バスケ部の津田!!」


 廊下の柱と一体化して立つ、2メートル超えの影。


 バスケ部の津田――通称『歩く電柱』。


 二組所属。影が薄すぎて、文化祭のクラス集合写真ですらフレームアウト。


 でも心は誰よりも優しい。放っておけず、道端の迷子犬を100%保護する性格。


 そして試合中、存在感がなさすぎて敵のマークを一切受けず、ゴール下で得点を量産するという、孤高の“ミスディレクションの申し子”。


 ちなみに仲間からも気づかれず、パスされないこと多数。


 当然、彼女もいない。


「……津田、お前、こんな時間に何してんだ……?」


 須賀の問いに、2メートルの長身男は、夜の闇に綻びができたような、ねじれた笑みで応じた。


「うはは。深夜の散歩です」


「……散歩?」


「そう。じゃないと……眠れないんです」


 そのテンションは、どこかが外れたオルゴールのようだった。ゆっくりで、不気味で、でもなぜか明るい。


 須賀たちは無言で互いを見た。全員、内心一歩どころか五歩くらい引いた。いや、すでに心は靴を履いて玄関を出ていた。


「な、なるほど……」


 須賀は微笑んだまま、背中越しに、小声で囁いた。


(……お前ら、どうする?)


(何をだよ)


(さっきの俺らの珍行動、見られてた可能性あるだろ……あの“海パン”とか、ゲロとか……)


(……たしかに……)


(向居、お前、見えてるんだろ。あいつの“オーラ”)


(……濁ってる。すごく。透明なのに濁ってる……理屈じゃない)


(川場、あいつを止める作戦は?)


(……中庭の電柱に縛って、人間かどうか判別不能にする)


(さすが脳筋肉……!)


「何をこそこそ話してるんですか?」


「ひいいっ!」


 津田が、静かに、まるで首だけテレポートしたかのように、顔を差し込んできた。本当に近い。距離感ゼロ。というかマイナス。


「べ、別に……ほ、ほら! このリゾートホテルって、でっけぇなぁ~って!」


「あはは。ですね。僕も歩き疲れました。なんせ、ホテル全体、全部回ったので」


「ぜ、全部!?」


 須賀の声が裏返る。男子たちの背中に冷や汗がつーっと流れた。


「ええ。北も、南も……すみずみまで」


「ま、まさか……女子部屋がある北七階のフロアも……?」


「もちろん。足音を消して通りました。“静かなる電柱”の異名は伊達じゃありませんから」


「異名がホラーなんよ!」


 向居が素でツッコんだ。


「てか、どうやって行けたんだよ……?」


「ふふ。北館と南館をつなぐ、八階の渡り廊下。夜は誰もいませんからね。まさに……無法地帯」


 男子たちは静かにどよめいた。


 だがそのどよめきは、半分恐怖、半分尊敬で構成されていた。


「でも、みなさん」


「……ん?」


「あなたたちも……女子部屋、行きたいんでしょう?」


「ばっ、バカ言ってんじゃねぇ!」


「そ、そそそそんな下心で動いてると思うなよな!」


「俺たちはだな、純粋にホテル内の平和を……だな……」


「不審者を取り締まる使命感から……!」


「ふーん、そうなんですね」


 津田はあきれたように笑って、ちらりと上目遣いで言った。


「でも、さっき廊下を通ったとき……女子の部屋から、聞こえたんですよね。話し声が」


「……話し声?」


「うん、なんか……キャーキャー言ってて。盛り上がってる感じ。まあ……アレはちょっと、男子禁制な話題だと思いましたけどね」


「な、なんだそれ……」


「……どんな話題なんだ……?」


「知りたい……わけじゃないけど、あくまで警備の一環として……」


「ぜひ、その目で確かめてください。たぶん、いいもの見られますよ」


「「「「「お、おう!!」」」」」


 まんまと乗せられた。ちょろいにもほどがある。


 だが須賀は、まだ目を離していなかった。


 津田の、“人知れず何かを見てきた者の目”を、じっと見ていた。


「ちなみにだが……」


「はい?」


「さっきの廊下の花瓶。お前、倒した?」


「花瓶?」


「川場が“スナイパーの暗殺予兆”って勘違いしたやつ」


「……ああ、あれ。僕、触ってませんよ」


「え?」


 その瞬間、全員の背筋がスッと冷えた。


「えっ、でも、めちゃくちゃ不自然に倒れてたじゃん」


「あはは。僕、何もしてません。ただ、見てただけです」


 そのとき初めて、須賀たちは――“ポルターガイストってこういうことか”と、心の底から理解した。


 修学旅行あるある。


 なんかよく分からんけど、心霊っぽい体験をする。



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