2016年11月30日10時17分
2016年11月30日10時17分。
「わあ〜、すごい……!」
「ほんとに、綺麗……!」
巨大なアクリルガラス越しに、深い青の世界が広がっていた。
悠然と泳ぐジンベエザメ。その周囲を無数の魚たちが舞い、差し込む光の筋が、水面へ向かってゆらゆらと揺れている。
──美ら海水族館。
修学旅行シーズンのど真ん中。
水槽の前には、同じリゾートホテルに泊まっている高知や新潟の高校生たちの姿もちらほら。
みんな自然と顔を寄せ、同じように感嘆の声を漏らしている。
まるでこの空間だけ、時間の流れがゆっくりになったかのようだった。
その中で、第二甲府高校・二年二組・野球部キャプテンの三浦信二は、水槽の奥を静かに見つめていた。
心は妙にざわついていた。
水の中は静かでも、自分の中だけ落ち着かない。
──いや、たぶん理由はわかっている。だが、いまは考えないようにしていた。
「ねえ、信二もすごいと思わない〜?」
「そうそう! 三浦君もちゃんと見ている〜?」
明るい声がすぐ横から飛んできた。
同じ班の橘千紗と中本。
千紗は一年からのクラスメイトで吹奏楽部所属。ふんわり柔らかな空気をまとい、誰もが振り返る学校のマドンナだ。
反対に中本は放送部で、場の空気を読むのが上手く、いつもニコニコ。自然と人気が集まる学校のヒロイン的存在だった。
「はいはい、見てますよっと」
苦笑しながら答えようとした──そのときだった。
「おっ!」
「やった〜! 瑠璃ちゃーん!」
またしても千紗と中本のテンションが跳ね上がる。
その声につられて三浦も振り返った。
制服の袖をひるがえし、水槽の前に駆けてきたのは──吹奏楽部の山見瑠璃。
小柄で勝ち気な目つきは相変わらず。
その少し後ろには、野球部のお兄さん的存在、ピッチャーの東仁の姿もあった。
「……なんだ、東かよ」
「なんだじゃねぇよ。お前らも来てたか」
「各班ごとタクシーを借りて、一日自由行動って言っても、結局行き先は被るよな。修学旅行つっても、これじゃクラスの延長戦だ」
信二がそう言うと、案の定──
「ちょっとやめてよ、それ。すごくテンション下がるんだけど?」
と瑠璃が睨んでくる。
その声に、信二は内心でため息をついた。
──やっぱり、どうも山見は苦手だ。
千紗と同じく、一年のときからずっと同じクラスだけど、彼女とは……波長が合わない。
「はいはい、わるうございました」
「は? なにその言い方。マジで感じ悪いんだけど」
「へいへい、以後気をつけますよ」
と、半ば聞き流すように軽くあしらう。
そのやりとりを横目に、千紗がふいに声を上げた。
「瑠璃! あっちカメいるよ!」
「あ、ほんと!? 行こ!」
中本も「やば、かわいい~!」と笑いながらついていき、水槽の奥へ小走りで向かっていく。
そのとき──千紗が一瞬、信二にだけ分かるようにアイコンタクトを送った。
……やっぱ、いい奴だな。
その視線の意味に気づいたのか、隣にいた東がニヤリと笑った。
「──なあ、信二」
「……なんだよ」
「お前さ、橘さんのこと狙ってんだろ?」
「……はあ!?」
東はニヤついたまま、肘で軽く信二の腕を突く。
「ダメだぞ〜。あの子はもう“大気のもの”なんだから」
「……何その言い方。てかさ、まだあいつら、付き合ってねぇし。一応は内緒にしてるんだぞ?」
「うんうん、だからこそ、なんだよ。そういうのに手ぇ出すのは──完全に反則」
「……はは、言ってくれるじゃん。つーか、それ、俺よりも先に忠告すべき連中がいんだろ」
「おっと……なるほどね。松田、須賀、川場、それに向居。我が校の汚点・おバカ連隊か」
東が苦笑する。
「今朝の横峯先生の話、多分あいつらが主犯だろ。どうせ中田の知恵でも借りてさ」
「思った。朝食会場、あいつらの席だけ空気やばかったし」
「しかも四組の山井まで加えてさ、謎の作戦会議してたらしいぞ。なぜかコーヒー片手にドヤ顔で」
「……うわ、信二はそこに近づけたのか?」
「無理。俺、コーヒーの匂い苦手なんだよ」
「え、マジ? キャプテン、それは意外」
「悪いな。生産者にはほんと申し訳ないが……あれだけはどうしても、気持ち悪くなる……」
「ふっ。完全無欠のキャッチャー様にも弱点があると」
「うるせぇ。……ってか、あいつら水族館来てねーっぽいよな。どこで何やってんだか」
信二はちらりと水槽の奥を見やる。
「この修学旅行、マジで何も起きなきゃいいけどな」
「同感」
「三浦く〜ん! 東く〜ん! はやくこっち来て〜!」
振り向けば、中本が自撮り棒を構えて待っていた。
千紗も笑顔で手を振っている。
──その隣、瑠璃だけが少し微妙な顔をしていたけど。
「あーい、今行くー!」
信二はふっと笑って、東と歩き出した。
いいじゃん、修学旅行なんだし。
バカやって、青春して、写真撮って、笑って。
──明日どうなるかなんて、誰にもわからないんだから。
*
はいさーい。
わんねー、沖縄メガ観光タクシードライバーの玉城って言いますよ。
今年で53歳になるけど、毎年この時期は楽しみさー。
なんでかって? 修学旅行の生徒たちと、楽しく沖縄ぐるっとまわるのが、ほんとにうれしいからね〜。
特にさ、この第二甲府高校さん。ここは毎年、各班ごとにタクシーを一台ずつチャーターして、自由に観光するんだわけ。
これがまた、なかなかにちむどんどんするスタイルさ〜。
ほんと毎年いろんな班がいてよ、面白いさ。
食べ歩きが好きな班、自然に癒されたい班、お土産探しに命かけてる班、戦争遺跡をじっくり学ぶ班……いろいろさね。
それぞれが自分の“興味”を持って、沖縄の中で体験して学んでいく。うん、先生方の教育方針も、実に見事だと思うさ〜。
最初のころはよ、生徒たちとの距離感がわからんで、ちょっと悩んだこともあったわけよ。
でもね、だんだん慣れてきてからは、みんなと自然に話せるようになってね。
去年のグループなんてよ、途中で「アイス食べたくない?」ってなって、午後3時に一緒にブルーシール寄ってさ、笑いながら食べたわけ。
あれは忘れられんね〜。しに、うれしかった。
さてさて、今日はいつものリゾートホテルの玄関まで来たさ。
何しろ一台ずつの配車だから、わんは最後の担当になったんだけど、ちょっと時間も押してきてるね〜。
お? 男の子四人、玄関前で立ってるやしがいる。
はいはい、あの子らがわんの班かね。
──さーてと。
今日も一日、楽しんでいこうやっさ!
「どぉ〜ぞ〜!」
ドアを開けて声をかけると、男の子たちがぞろぞろと乗り込んできた。
なぜか全員、ジャージ姿であった。
「はいさ〜い!」
わんは、満面の笑みであいさつした。声も一段高く、これまでの経験からすれば、初対面時こそ明るくいくのがコツ。
うん、大丈夫。百戦錬磨の玉ちゃんにまかせなさいよ〜。
──が。
……しん、と静まりかえる車内。
「……」
……あれ?
なーんか、空気が……おかしい。
「え、えとよ……今日は朝ごはん食べたね?」
振り返りながら声をかけると、後部座席の一番右。クマの濃い男の子が、ぽつりと口を開いた。
「……松田です」
その声の低さに、一瞬ぎょっとする。え、なに? 葬式?
空気、重っ!
これ、ほんとに修学旅行のテンションか?
「おっ、班長の松田君ね? よろしくよ〜、わんねー、玉城。玉ちゃんって呼んでもいいからさぁ」
明るく返す。いつもならここで笑いが起きたり、「玉ちゃんか〜い」ってツッコミが入るんだけど──
「……」
返事なし。笑いもない。目も合わせない。
──じ、じごく……?
どんな事件が起きたわけ? 昨日ケンカでもした? それとも告白してフラれたとか?
ハンドルを握りながら、どうにも気まずい無音が広がっていくのを感じた。
車は、ゆっくりとリゾートホテルのエントランスを離れる。
走り出しても、誰一人スマホをいじらない。景色も見ない。会話もゼロ。
青く澄んだ沖縄の空、きらめく南国の海、照り返す陽射し──そんな眩しい光景とは真逆の空気が、車内に充満していた。
沈黙。重たい沈黙。
音がない。呼吸すら聞こえない。
──しに、こわいさぁ……。
後部ミラー越しにそっと視線を送る。
全員、まるで魂が抜けたみたいに座っている。目の奥に、生気がない。
特に、右端の松田君。背筋をピンと伸ばし、前だけをじっと見つめている。微動だにしない。肩すら揺れない。
まるで、何か──いや、誰かに追われているような。
それとも、もう逃げ場がないと悟っている目だ……。
玉城は、意を決して口を開いた。
「ち、ちなみによ? 今日の行き先って、確かまず、美ら海水族館で間違いないよね? 事前に計画表を貰ったけどさ~」
「……」
誰も返事をしない。車内の空気が、さらに一段冷える。
「じ、ジンベエザメがすごいんだよ〜? おっきくて、かわいくてさ〜」
「……」
「それに、水族館の前の海もよ〜、めっちゃ綺麗なんだよ。映えスポット、いっぱいあるさ〜」
「……」
ガン無視。完全なる、無の結界。
この感じ……きつい。しに、しんどい。
心が折れかけたそのとき、ようやく松田君が低く、淡々と口を開いた。
「……やめてください。我々は、遊びで来たわけではないので」
玉城の心に、風が吹いた。
……は? なんで?
声に出さなかっただけで、完全に内心は叫んでいた。
なにこれ? このテンションで一日? いや無理でしょ? これもうある種のカスタマーハラスメントだはずよ?
あらためて見れば、他の三人も異様だった。
みんな、なぜか無言で腕を組み──その腕で、口元を隠している。
なんで? なんで全員、碇ゲンドウスタイル……?
特に助手席の子。小柄で日焼けしていて、筋肉質なのに、その姿勢、正直苦しそう。
いや、それさ、デスクないと成り立たんポーズよ……?
玉城は、もうなんというか、笑いたいのか泣きたいのかわからない気持ちで、そっとハンドルに視線を落とした。
「ちなみ……」
ぽつりと声を出したのは、後部座席の松田君の隣に座る、やたら分厚い本を抱えてる細身の男の子だった。
ん? え? その本なにね? 修学旅行でよ? 国会図書館かや……。
思わず心の中でツッコむ。てっきりこの子はずっと無口系かと思ってたのに、いきなりの発言でびっくりした。
「事前に共有したコースは、変更でお願いします」
「へっ?」
あ〜〜〜☆ そういうことね〜! なるほどなるほど、当日プラン変更ってことね?
うん、いいさ〜いいさ〜、それも旅の醍醐味さ。
おじさん、そういう柔軟さ、大好きよ。
「まかせなさい!」
その声に続いて、今度は顔立ちの整った子が、カバンから……え、フリップボード? を取り出した。
なんかもう、プロのプレゼンターみたいな流れに、つい信号で車を停めながら見入ってしまう。
「ここに──」
……って、えっ?
「今すぐに、ここに」
背筋にぞわっと寒気が走った。
声は小さいのに、やけに圧がある。
「こ、ここですか?」
慌てて地図と照らし合わせる玉城。そこにあったのは、まさかの文字列。
「ええ。早く」
「で、でもよ……ここは──」
そのとき。
松田君が、後部座席からゆっくりと上体を乗り出し、運転席のすぐ後ろまで顔を寄せた。
目が、完全にイッていた。
「那覇市内にある、“五十嵐ゴールドジム”に急行してください」
……いやいやいやいや! ジム!? ジムって、あの筋トレのジムやみ!? なんで!?
玉城の脳内に一斉にクエスチョンマークが踊る。
なに? 筋肉修学旅行? 心も体もビルドアップコース?
だけど、四人の顔を見ると、誰一人ふざけてる様子はない。
むしろ──全員が「命をかけてる」ような顔をしていた。
だけど、それでも……どこか、ひっかかる。
命をかけてる“目的”が、筋トレであるはずがない。
何か、もっとこう……狂気的な“覚悟”が、ある気がするわけよ。
ん〜〜〜……しに、なんかヘンさ。おじさん、勘が働くタイプなんだわけよ……
玉城はそっと後部座席のミラーを見た。
窓の外には、燦々と照る太陽、青い空、白い雲。
それとは真逆の世界が、車内で静かに広がっていた。
「君たち……筋トレ好き?」
玉城はなるべく明るく、軽〜い口調で尋ねてみた。
すると、日焼けして筋っぽい体の助手席の子が、一拍置いて、ぽつりと答えた。
「……あ、はい」
いや、今の“あ、はい”は絶対ちがう。嘘。今の声はウソのトーンよ……。
玉城の警戒レベルが一段階上がる。
おいおい……もしかして、脅されてるんじゃないか? この子たち。
もしかしてよ、大人が絡んでるわけ? なんかヤバい組織とかさ〜。
いやよ、ありえる話さ。
なんせよ、「五十嵐ゴールドジム」っていえば、沖縄中でも筋肉バッキバキの変態ばっか集まるって有名どころさ。
ほんとに何かあったのかもしれんね〜……。
だとしたら、自分が守らんといかん。修学旅行生に何かあったら、沖縄観光業の一大スキャンダルになるさ〜!
覚悟を決めて、玉城は意を決して提案した。
「や、やっぱりよ? みんな体調悪そうさ〜。いったんホテル戻ろうね? まだ間に合うよ? ホテルで冷たいさんぴん茶飲んでよ、ベッドで横になったら──」
「ふざけんなよ、このクソジジイ!!」
「てめぇ、殺されてぇのか!?」
「タクシーごとぶっさらうぞ、こらァ!!」
「うおおおおおおおおおおおおお!!!!!!!!」
──え?
数秒前の沈黙が嘘みたいだった。
全員、爆発したように叫び始める。
日焼け助手席の子はなぜか助手席を立ち上がろうとしてるし、
フリップ持ってた子はマジで窓から身を乗り出しかけてるし、
松田君に至っては、拳を震わせながら何かの“覚醒”モードに入ってる。
車内に、熱気と恐怖と狂気が一気に吹き込んだ。
「ご、ごめんなさい……!!」
玉城は思わず小さくなった。
ここは沖縄の観光タクシー内……ではなく……“戦場”だった。
なんねこれ……これが、Z世代ってやつか……。
玉城は運転席で震えながら、ハンドルを握り直した。