第22話 銀色の生き物は自我に目覚める:上
ルドたちが泉から立ち去った後、いつの間にか雨が止んでいた。
ツンと酸っぱい匂いが雨の匂いに混じって鼻につく。
まだ曇っている空の下、アサギリはゆっくりと立ち上がった。雨の中座り込んだせいで、身体中泥だらけだ。美しい銀色の髪は汗と雨水でぺしゃんこになって、薄汚れた灰色のように見える。
目は虚ろで今にも倒れそうな様子でも、アサギリは歩き出した。
胃の中にあるものを全て吐き切って、なんだか不思議な気持ちだった。体力的にはしんどいのに、小さな高揚感があるのだ。
雲の切れ間から、光が注がれる。
白い光は世界を彩り、水に濡れた雑草がきらめいた。
ふと、アサギリの足が止まる。雲の切れ間から落ちる光を横切る、生き物に似た物体の姿が目に写っていた。
それはドラゴンのように見えたが、ドラゴンの形に似た単なる雲だ。
しかしアサギリには本当の姿にそっくりな、翼を持った美しいドラゴンに見えていた。
『俺以外にも、翼を持ったドラゴンがいたのか…』
悠々と空を飛ぶ仲間に、どうしようもない気持ちが芽生える。
「おうい、俺はこっちだ! こっちだぞ!」
どんなに大きな声で叫んでも、ただの雲は答えてくれない。
「…俺を殺してくれよ」
虚ろな目にまた涙が滲んでくる。
アサギリは腕で涙を拭って、たどたどしく歩き出した。
頭の中に溢れる思考を何度も何度も反芻する。
『命を奪った生き物たちは、どんな生活をしていたんだろう。家族はいたんだろうか…なぜ、殺すことを楽しんでたんだろう、ああでも、楽しんでいなかったとしても、食べるものは全て生きていた何かだったんだ…』
周りを気にする余裕なんて無かった。
そのせいで最近は地面に這う虫を避けていたのに、今日は駄目だった。硬い甲羅が潰れた感触で、アサギリは足元に虫がいたことに気がついた。
立ち止まったが、靴の裏を見る気力はなかった。
「ごめん…」
掠れた声で呟いた。
謝っても生き返る訳では無いこともわかっている。でも、そうすることしか出来なかった。
アサギリは、辺りの景色を見渡した。一面木々に覆われた世界は、「生きている」ことを存在するだけで認識させる。しかし、少しでも歯車が崩れてしまえば、アサギリの足元で死んでいる虫になってしまうのだ。
『理不尽なきっかけに、俺はなってしまっている』
また気持ち悪くなってきた。
アサギリは片手で口を覆うと、ふらふらと、パーチェのいる方向へと動き出した。
足がおぼつかない所為で、時間だけがどんどん過ぎていった。
空は雲が流れて、アサギリの頭上を通り過ぎていく。また太陽が規則的に動き続け、日がくれる前のぼやけた明るさになってきた。
地面も少し乾き始めている。
少し先に、見慣れた緑色のテントが目に入った。
やっとパーチェのいるテントへ辿り着いたのだ。
「まあまあまあ! どうしたの!? 転んだの!?」
少し進むとぼろぼろになったアサギリの元へ、ボギーがすぐに飛んできた。パーチェは焚き火の前でうとうと居眠りをしている。
「転んでは無いけど…ちょっと吐いただけだよ」
「吐いた!? 大変!」
アサギリの言葉を聞いて、今度はパーチェの元へと一目散に飛んでいく。
「パーチェ! 起きて!!」
ボギーは主人の額をつついて、目を覚まさせた。パーチェはビクッと体を震わせて、目をぱっちりと開けた。
「ど、どうしたんだい?」
「アサギリが酷い様子なの! 来て!」
起きたばかりの足ではあまり力が入らず、こけそうになっていたが、パーチェはそれでも急いでアサギリの元へやってきた。
「ボギー、アサギリが大変って?」
「吐いちゃったらしいの。それに見て、こんなにボロボロになって…」
ボギーに言われて、パーチェはアサギリを上から下まで眺めた。
ボギーに割と強い力でつつかれたようで、パーチェの額が赤くなっている。そんな額を摩りながら、「確かに、酷い様子だ…」と少し驚いたように言った。
「まだ吐きそう? 気持ち悪い?」
「うん…考えてしまうほど、どんどん気持ち悪くなるんだ、でも胃液が無くなるくらいまで吐いたから、しばらくは吐けないと思う…」
パーチェの瞳の奥がキラリと光った。
「何を考えると気持ち悪くなるんだい?」
「………」
アサギリは躊躇いながらも、途切れ途切れで言葉を紡いだ。
「…パーチェは、俺が腕を引きちぎった時、痛かったか…?」
「え?」
「すごく、痛かったんだろうな…今まで殺してきた生き物たちも、そうだったんだ…そうしてその生き物がどう生きていたのかも知らずに、命を奪っていた…」
そう言ってアサギリは、声を詰まらせた。
パーチェはじっとアサギリを見つめると、静かに話し始めた。
「もちろん、痛かったさ…でもその時君は、ドラゴンだ。相手の持っていた世界なんて考えるほどの知能は持っていないじゃないか」
「そうだけど、今はわかってしまう…それがどうにも苦しくて、辛くて、吐きそうになっちまうんだ…」
アサギリはすがるようにパーチェの服を掴んで尋ねた。
「なあパーチェ、殺してしまった生き物たちは、どうすれば俺を許してくれる? 教えてくれよ…」
グリーンの瞳を煌めかせながらも、パーチェは子供を見るような眼差しをアサギリに投げかけている。
「教えることは簡単だ。でも、僕が教えた方法で何かしたとして、アサギリ君の心が救われるかはわからないよ。何故なら君の心を救う方法は、最終的には君しかわからないのだから」
「……そんなこと言われても、俺も、わからないよ」
アサギリの目から、涙がこぼれ落ちていく。
金色の瞳から落ちる雫の意味は、純粋で残酷な願いだ。その願いがすぐに叶わないと知った今、服を掴んだ手は救いを求めて硬っている。
パーチェは、そんなアサギリの背中をそっと撫でた。
彼の背中はとてもか細かった。
「考えてどうにか答えを出してご覧。ともかく、今日は疲れただろう。ゆっくり休むんだ」
その言葉に、アサギリは一瞬、信じられないと言うような表情を浮かべた。だがすぐに、また疲れた顔に戻っていた。
「無理だ…眠れない…森を歩きながら考えてみる」
そう言って、アサギリはパーチェとボギーに背を向けた。
そして再び森へと向かって行く。
「そんな体で言ったら、倒れちゃうわよ!」
「心配しないで、倒れそうになったらその場に横になるから」
精一杯の明るい声だった。
「その場に横になるって…もっと心配するわよ…」
ますます不安げになるボギーに、パーチェが柔らかい声が降りてきた。
「ボギー、アサギリ君の後を追ってくれないかい? そしてまずいことになったら連絡して」
その言葉を待っていましたと言わんばかりに、ボギーは「わかったわ!」と承諾すると、すぐにアサギリの後を追って飛んでいった。
ボギーとアサギリが見えなくなると、辺りはまた静かになった。
一人きりになったパーチェは、空を見上げた。夜になり始めの空は、紺色の絨毯が広がっているかのようで、そこにちらちら光る星が、模様のように輝いて見える。
夢のような夜空を見つめて、パーチェは穏やかに微笑むのだった。




