第21話 癒すものと有象無象の願い⑦
次の朝、アサギリはすぐにセイラのいる泉へと向かった。
生憎雨がシトシトと降っていたが、アサギリの気持ちは晴れやかだった。
悪夢も見ずにぐっすり眠れたおかげで、足取りもしっかりとしている。背筋をピンと伸ばし、地面を蹴るように歩いていた。
泉が見えてきたときには、もうアサギリの体はずぶ濡れだった。
銀色の髪から、雨の雫がぽたぽた落ちていく。少し体が強張ってきた。雨に濡れた寒さもあるが、セイラに会うことに緊張していた。
立ち止まって、一度深呼吸をする。
「…よし。貰った石を返して、お別れの挨拶をするんだ。それで終わりだ」
ポケットに手を入れる。セイラから貰った石があることを確認すると、再び歩き出した。泉は目前だ。雨で霞んだ視界に、開けた場所が見えてくる。
だがセイラの姿を見る前に、小さな後ろ姿が視界に入った。見慣れた茶色い毛玉のような後ろ姿、そしてあの細長いしっぽ。
間違いなくルドだ。
思わず声を掛けようと口を開く。が、彼の周りに知らない生き物が居たので、アサギリは言葉を飲み込んだ。そうして、なんとなく近くの岩陰に隠れることにした。
「酷いじゃないか」
ルドの声だ。
続いてセイラの澄んだ声が聞こえる。
「酷いって、何が?」
「おいらの贈り物をアサギリにあげちゃっただろ」
「ああ…そうか、君から貰ったものだったんだね」
「酷い! 忘れてたんだ」
「ごめんね……?」
セイラは謝ってはいるものの、あまり反省しているような声ではなかった。見つからないよう、岩陰からセイラの姿を見る。
セイラはいつものように、夢を見ているような遠い目をしていた。
「じゃあ俺の贈った花も、何色だったか覚えてないの?」
猪のような生き物が尋ねた。
「僕の贈った綺麗な羽は?」
「僕の贈った赤く染まった葉っぱは?」
「私の…」
「俺の…」
「僕の…」
様々な生き物たちの問いに、セイラは抑揚の無い声で答えた。
「ごめん、ごめんなさい……一つ一つは覚えてないけど、どれを貰った時も、とっても嬉しかったよ…でも、どうしてみんなそんなこと言うの? セイラが貰ったものだから、好きにしたって良いでしょう?」
耳鳴りするような、苦しい沈黙が流れる。アサギリは隠れていることも忘れて、ルド達を食い入るように見つめた。
愛らしいルドの瞳は、灰色に濁っている。
セイラも他の動物達も何も話さない。
「それじゃ足りない」
結局、沈黙を破ったのはルドだった。彼は泣きながら、途切れ途切れに言葉を紡いだ。
「セイラ様の言う通り、あげたものを、どうしたって良い……だっておいらは、セイラ様を独り占め出来ないことはわかってるんだ。でもね、でも…覚えてて欲しいんだ。とてつもなく美しい君の心に、一片だけでも良いから、おいらとの思い出を…ただ、それだけなんだ…でも、それも難しいのかな…」
セイラは少し困ったように言った。
「…セイラは、癒すだけなんだ。その瞬間に感じることはあるけども、自分自身の心には何も残らないよ」
ルドの周りにいた誰かが、悲しそうに呟いた。
「結局セイラ様の心には、あの蛇しかいないのか…」
セイラは何も答えず、小さく微笑んだ。その微笑みさえも、惹きつけられるような魅力があった。
ルドは大粒の涙をぼろぼろ零している。他の生き物達は皆、泣いていた。しばらくすすり泣くような音が響いていたが、誰かがぽつりと言った。
「それなら俺たちの中に、セイラ様を残そう」
「…え?」
「残すって、どうやって?」
誰かの問いに、「こうするんだよ」と言って、一匹の生き物が動いた。
熊の形に似た生き物だった。そいつは泉の中にまで戸惑いなく入ってきた。大きな波紋が何十にも広がり、生き物の周りが波立っていた。
セイラの目の前にやってきた。セイラよりも何倍も大きく、鋭い牙と爪がぎらりと光っている。
そいつはセイラが何か言おうとする前に、前足を彼女の首元へと振り下ろした。
一瞬であった。次の場面では、セイラの首元がぱっくりと切り裂かれていた。切り裂かれた部分から、液体が溢れてくる。セイラは餌を求める鯉のように、口をぱくぱく開けたり閉めたりしていた。
中から出てきた液体は、様々な色をしていた。青色に見える時もあれば、赤に輝き、また別の色に変わっていく。
セイラの体がばたりと崩れ落ちた。二度と動かなくなった体が、泉の水の上でふわふわ浮いている。彼女の液体が泉に溶けてセイラの浮かぶ周りの水は、虹色に濁っていた。
セイラを殺した生き物は、前足についたセイラの液体を幸せそうに舐めた。
「これで、俺の中にセイラ様が残る」
それを聞いた途端、泣いている生き物達が、みるみるうちに笑顔になっていった。
「そうか! 俺の一部にしてしまえばよかったんだ!」
「私も欲しい!」
「おいらも欲しい!」
馴染みの声が聞こえた後、柔らかいものがぐちゃりと壊れていく音が聞こえた。「これが、セイラ様の目…なんて美しいんだ!」とルドは無邪気に喜んでいる。
宇宙を閉じ込めたような目の周りには、赤い肉片がついていた。魚の目玉にあるような、ゼリー状の肉片だ。ルドはそれを丁寧に指で取り、口元に運んだ。
べちゃべちゃと、耳障りな咀嚼音がアサギリの耳にまで届く。
アサギリの体は雨に打たれ続けて、どんどん冷たくなっていく。
しかし彼は動けなかった。幸せそうにセイラの目をむさぼる、ルドの姿をただ眺めていた。
茶色い毛は、セイラの体液と雨水が混ざってきらきら輝いていた。彼は目玉の周りについていた肉片を食べ切ると、嬉しそうにセイラの目だった物体にキスをした。
そして飴玉のように口の中へと放り込んだ。
「ああ! おいらは何て幸せなんだ!」
ルドが興奮しながら叫んでいる。
その一方で、アサギリは岩に体を預けて荒い呼吸をしていた。体がガタガタ震えて、言うことを聞かない。
『そうだ、俺も、似たようなもんだったんだ…』
金色の瞳から、一雫の涙が溢れ落ちた。
『元の体で、沢山の生き物を殺して食してきた。罪悪感もなく、楽しんでいたんだ』
『−−殺した生き物は何を感じて生きていたんだろう』
そう考えると、気持ちが悪くなって立っていられなくなった。
とうとう座り込むと、頭がぐらぐらして胃袋から生暖かい何かが逆流してきた。アサギリはどうにか押し留めようと、今度は四つん這いになってその場に生えていた雑草を握りしめる。
額から水っぽい汗が噴き出してきた。苦しくて、涙が止まらなくなる。しかし雑草をどんなに握りしめて、我慢してもだめだった。
アサギリはとうとう、その場に嘔吐してしまった。吐瀉物には固形物が何も残ってなくて、白っぽい液体がぼたぼた地面に落ちていった。
遠くで、ルドたちの笑い声が聞こえていた。
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