第15話 癒すものと有象無象の願い①
暗闇の中をアサギリは必死に走っていた。
振り返ると、『何か』がアサギリを睨んでいるのが見える。毛は血で赤黒く染まっており、四肢は引きちぎられている。
肉塊に近い『何か』は生き物であった痕跡はあるが、元がどんな姿だったのかはわからない。
そしてアサギリがどんなに走っても、『何か』と距離が離れることはなかった。
血と腐った肉が地面と擦れる音が、嫌でも耳に入ってくる。そいつは足を使って歩けるはずもなく、体全体を使い這いずりながら近づいて来ているのだ。
汗が滝のように吹き出してきた。体中から流れ落ちる汗は、最初は透明であったがいつしか銀色に染まっていった。その銀色の汗から、洞窟に生える水晶のようなものが無数に生えてきた。
水晶は体中に生えてきて、いつしかアサギリは人の形でも、元のドラゴンの形でもない姿に変わっていく。
侵食は足にも及び、とうとう走ることも、歩くことも出来なくなってしまった。
歩くことができなくなったアサギリは、壊れた人形のように倒れ込んだ。
倒れた途端、痛みが目にはしった。水晶がアサギリの金色の右目を突き抜いて生えてきたのだ。
あまりの痛さにアサギリは呻いたが、声が出ない。喉にも異物感を感じる。氷のような冷たさに、アサギリの顔が醜く歪んだ。
呼吸もし辛くなり、逃げることが出来ない。
水晶の生えた目からぼろぼろと涙が溢れてくる。その涙も結晶化して、アサギリの周りに散らばっていく。散らばった涙を、アサギリは左目でぼんやりと見つめた。
水晶となった涙は、暗闇の中で虚しく輝いている。
『もう駄目だ』
そんな中、ふと、水晶が輝きを失ったように見えた。
気づいた途端、アサギリの心臓の動悸が速くなった。輝きを失ったのでは無い。上から大きな影が落ちてきているのだ。
見たく無いのに、体が言うことを聞かない。水晶の生えた体がギシギシと勝手に動き、影ができた方向へ顔を向けた。
そこには、追いかけてきた『何か』が嬉しそうに見下ろす姿があった。
「…リ」
「アサギリ!」
「…パ、パーチェ?」
「大丈夫かい? アサギリ」
パーチェの後ろに光る、小さなランタンが眩しい。
「ここは…?」
虚ろな目で尋ねるアサギリに、パーチェは優しげな声で「テントの中だよ」と答えた。
「テント…?」
暗闇の中で逃げ回っていた感覚が抜けない。
アサギリはパーチェの顔と、テントの中をしばらく見回して、やっと先程の光景が夢だと実感してきた。
ここは緑色のテントの中。
一行はリリアンと別れ、旅を再開していたのだ。
「ああ…良かった」
胸を撫で下ろし、アサギリは寝袋から這い出した。そして落ち着かせるように髪をかき上げる。髪は汗でベタついていて気持ちが悪かった。
「このところ毎日ね」
ボギーが心配そうにアサギリの顔を覗き込んでいる。
「嫌な夢を見るんだ。変な奴がいてさ…」
生きているのか、死んでいるのかさえわからない『何か』の姿が脳裏に浮かんだ。そのおぞましさに身の毛がよだつ。
アサギリはぶるぶると首を振った。『何か』の姿を頭から追い出したいのだ。
どうにか元気を出そうと無理に明るい声を出した。
「それよりなんか食おうぜ! 腹減った!」
「うん、そうだね。そうしようか」
パーチェはにっこりと笑うと、テントの隅に置かれたリュックサックに手を伸ばした。
「さて、今日は何味にしようかな…緑黄色味、ニュートリノ味、久々にパライバトルマリン味でもいいね」
ごそごそリュックサックを漁るパーチェ。その背中を見るアサギリの眼差しは、不満げだ。
「…その味のラインナップは、まさかまた完全食スープか?」
「ご名答。またというか、朝はこのスープが一番体にいいからずっとそうだよ」
「ええー…嫌だよ。変な味だし、たまに痺れる時もあるし…」
「食べられるだけマシでしょ!? 文句言わないの」
「うるさい鳥だなあ!」
「なによ!」
ボギーのキイキイ声を遮ろうと、アサギリはボギーに背を向け、両手で耳を塞いだ。
「アタシの声がそんなもんで遮られると思ってるの〜?」
と、ボギーがアサギリの顔まわりを飛び回る。
「あーーもう! 鬱陶しいな!」
「アサギリとボギーは仲良いねぇ」
夢の中の疲労感があるのに、さらにボギーの超音波声は堪えた。頭の中がガンガンしてきて、アサギリは堪らなくなってくる。
ボギーをひっつかんで、なぶり殺してしまいたい衝動が一瞬よぎった。…そんなことを考える自分が嫌になって、アサギリは苦し紛れに切り出した。
「俺、森に行ってきても良い?」
「一人でかい?」
「おう、うまいもの捕って食べてくる! な、良いだろ?」
その言葉に、パーチェはボギーと顔を見合わせた。そのうちボギーがアサギリに向き直って「ほんとに捕ってこれるの?」とからかった。
「ジョンに食べられる植物を沢山教えてもらったから大丈夫だよ」
パーチェはアサギリの様子をじっと見ていたが、柔らかい声で言った。
「行っておいで。太陽が真ん中になる頃には出発するからね」




