第13話 愛すること想うこと⑤
ドアの先には、見慣れた景色が広がっていた。
すべすべしたテーブルに、奥の壁一面の本棚。それらは全て九十度反転して見えているが、確かにパーチェの家の中だった。
アサギリは口をあんぐり開けて、圧倒された。わかってはいたものの、床にできたドアの先にある光景が信じられないのだ。
ドアノブにはどんな技術が詰まっているのかしばし考えたかったが、彼にそんな時間は無い。
『こんなところで時間食ってちゃいけない』
開いた口を無理やり閉じ、もう一度ごくりと唾を飲み込んだ。そしてふう、と息を吐くと、アサギリはゆっくりと床にできたドアの中に入っていく。
「うおっ!?」
入った途端、床に叩きつけられた。九十度反転していたパーチェの部屋が、重力と同じ方向に戻ったのだ。叩きつけられた痛みに呻く横を、金色のドアノブが笑っているかのようにコロコロと転がっていく。
「なんだよ…」
床にぶつかった頭をさすりながらアサギリは体を起こした。そして転がっていたドアノブをポケットにねじこむと、本棚へ向かって歩き出した。
「久しぶりだなあ」
壁一面の本棚。アサギリが一番初めに目に入ったのは、黒革のカバーがかかった分厚い本だ。
人になって初めて読んだ、あの辞典であった。
彼は背表紙を指でなぞりながら「この一冊のおかげで、世界が広くなったんだよな」と呟いた。
アサギリは背表紙のタイトルを睨めっこしながら、目の治療法が書かれてありそうな本を探し始めた。
「…無いなあ」
一番上の棚から、下まで穴が開くほど見ていた。が、それらしいタイトルの本は見つからない。
しかもなんと本棚にある本の大半が、料理に関する本だったのだ。
「パーチェの言っていたことは、嘘じゃなかったのか…?」
不安になりながらも、もう一度本棚を探してみる。美味しそうなタイトルの本が並ぶ中、一冊だけタイトルが読めない本を見つけた。
文庫本くらいの薄さで、朱色の背表紙を身に纏っている。
彼は祈りながら本を抜き取った。すると周りの本がバランスを崩し、バラバラと床へと落ちていった。彼は落ちた本をほっといて、抜き取った本を開いた。料理本ではないようだったが、見たこともない文字が並んでいて、何が書いてあるのか読めない。
アサギリは目を細めてその文字を眺めた。最初に文字がわかったときのように、しばらく見ていれば理解できるのかと期待していたのだ。
だが、どんなに睨みつけても文字を理解することはできなかった。
彼の背中が丸くなった。諦めて落ちた本を拾い上げることにしたのだ。
床に散らばった本も、ことごとく料理本だ。いつもだったらアサギリは、喜んで読みふけるであろう…そんな本たちを、うなだれながら本棚に戻していく。
落とした本を全て戻した時には、いつのまにか本棚の端にきていた。
そうして彼の目に、自然と部屋の右側にあるドアが映ったのである。
『そういえばパーチェはあそこから、スープを持ってきたっけ』
アサギリは読めない本を持ったまま、そのドアに向かって歩き出した。
ドアは明るい部屋の中にあるとは思えないくらい、暗い藍色をしている。だがドアには、一点だけ明るい部分がある。ドアノブだ。
銀色のドアノブに小さなアサギリが映っている。ぐにゃりと歪んでいたが、それでも彼の姿は美しい。逆に彼の金色の瞳には、ドアノブが映る。ドアノブは彼の瞳の色に染まって、希望の光のように黄金色に輝いていた。
アサギリはそっとドアノブを握って、手に力をかけた。
ドアは静かに開いた。
「なんだぁ、この部屋」
細長い部屋は薄暗くて奥までは見通せないので、部屋はどこまでもずうっと続いているように感じる。そこに、壁に沿って置かれた細長いテーブルに、機械が均等に並んでいるのだ。
道具や機械と一緒に、実験台のようにアサギリ自身も部屋に並ぶ姿が脳裏をよぎった。
『パーチェなら、やりかねんな…』
できれば入りたくない位嫌な気分になったが、背に腹は変えられない。
アサギリは目を瞑って一歩、部屋に足を踏み入れた。そしてもう一歩と、体が薄暗い闇の中に飲まれていく。
ドアを開けたままにして、彼は奥へと進んでいった。
細長い部屋をアサギリはゆっくりと歩いている。置かれている機械や道具が、目の病気に効きそうなものがないか慎重に確認しているのだ。しかし、どんなに見ても何が目に利きそうなのか、判断つかない。
それでも彼は、必死に探し続けた。
開けたままのドアから入る光が、遠く感じてきた。
『どこまで行ったってわからない…戻るしかないのかな…』
アサギリは自分の手を握ったジョンの姿を思い出していた。彼の真っ直ぐな瞳と、握られた手の力強さ。
『好きだから、怖がられたくない、嫌われたくないんだ…』
ジョンの言葉を思い出す。「好き」という言葉の意味は辞典で読んだから理解できている。だが、本心を伝えられると全く違う感覚がアサギリを襲ったのだ。
炎のようだが、少し恥ずかしいような気持ちもあった。
『ドラゴンだった時に、好きと言う意味に当たる何かはあったのだろうか』
思考の渦に落ちていきそうだったが、妨げられた。
突然、アサギリの目に光が飛び込んできたのだ。ぼんやりとした白く淡い光だった。そしてその光は、彼自身のどこからか放たれている。アサギリは驚いて光の源を見た。
「えっ!? 何で!?」
光の源は、持っていた本だった。
文字が何も書かれていないと思っていた表紙に、光の文字が輝いている。慌てて本を再度開いてみると、中の文字も光り輝いていた。そして光り輝く文字は、アサギリの読める文字に変わっていたのである。
「『目の治療方法』!」
弾んだ声をあげながら、彼は食い入るように読み始めた。目の治療方法には、専用の道具が必要だと書かれている。そしてその道具の挿絵も光の線ではっきりと描かれていた。ルーペのような道具だ。ルーペの持ち手から機械のコードのような導線が沢山伸びているものであった。
アサギリは輝く挿絵と部屋にある道具を見比べながら進んでいく。
「見つけた!」
もうドアから入る光は米粒くらいになっていた。
小さなテーブルの上に、挿絵と全く同じ形をした道具が置かれていた。大きなレンズは銀縁で、暗がりの部屋なのに持ち手は青く光っているように見える。
そして青く光る持ち手の先には、赤・黄の導線がいくつも出ている。ただ一本だけ、青い導線が特別長く伸びていた。その青い銅線はとても長く、テーブルから床にまで垂れている。
「早く持って帰らねぇと!」
アサギリはすぐに片手で持ち上げようとした。
「お、重い…」
さほど大きくない道具だが、うんともすんともしなかった。
歯を食いしばって、両手で持ち上げようとしてみる。アサギリの真っ白い肌が真っ赤に染まってしまうほど力を入れても、ピクリともしなかった。
「困ったな、これじゃリリアンの目を治せないじゃないか…」
力尽きて地べたに座り込むアサギリ。座り込んだ瞬間、アサギリは太ももに何かが当たるのを感じた。
「そうだ!」
すぐさまポッケにある物を取り出した。金色のドアノブだ。
ドアノブを取り出すと、部屋の壁にドアノブをくっつけた。すると植物が生えるかのように、またそこからドアが成長していった。
成長しきったドアは、ジョンの家のドアそっくりの形をしている。
アサギリは急いでドアノブを回して、足早にジョンの家に戻った。暗がりの小さな木の家は、何事もなかったかのように暖炉が燃えている…ただその全ての風景が、九十度反転した光景ではあったが…。
入った瞬間、勿論アサギリは床に叩きつけられた。だが痛がっている暇はない。床に眠るジョンを見つけると、勢いよく彼の髭をひっぱって起こした。
「…!」
ジョンは何か言おうとしたが、アサギリが彼の口を両手で塞いだ。
「ジョン、来て! リリアンも一緒に来るんだ!」
もごもごとジョンは呟いていたが、アサギリの異常な様子を見て察しがついたようだ。最終的にコクリと頷き、ジョンはリリアンの眠るベッドへと向かった。
「…リリアン、起きて」
そう言ってジョンはリリアンの羽を優しく撫でた。彼女のまつ毛がピクピク動いたかと思うと、小さなくちばしから声が漏れた。
「どうしたの? ジョン」
起きても目が見えないため、リリアンは何が起こっているのかわからない。そんな彼女に「…静かに、一緒に行こう」とジョンが低い声で囁いた。
リリアンはじっと何か考えているようだった。
しかしすぐに、あの透き通った声が響いた。
「ジョンが行くのなら、ついていくわ」
「…ここは、一体」
床に生えたドアノブにも驚いたが、部屋に入ったジョンはさらに驚いた。
自分の部屋ではない空間が続いているのだ。そして、見たこともない機械が整然と並んでいる。あるものがジョンの目に止まった。細長い試験管をたくさんくっつけて、円形になっている物体だ。
何に使うか想像がつかない。ジョンはつい、その物体に手を伸ばした。
「ジョン! リリアン!」
アサギリの声で我に帰り、ジョンは触ろうとしていた手を引っ込めた。アサギリはジョンの様子を気にせず、早口で喋り出した。
「俺見つけたんだ。目を治す道具を! これ、これなんだ。でも重たくて一人じゃ持てなくてさ」
「目を治すって、私の目が治るの…?」
「そうだよリリアン! ジョンがね、君の目を治してほしいって俺に頼んだんだ」
リリアンは、「まぁジョン、あなたって…」と曖昧な表情を浮かべる。ジョンは彼女を見つめ、小さな声で言った。
「…また君が、飛んでいる姿が見たいんだ」
ジョンはリリアンに顔を背け、アサギリの指差す道具に視線を移した。そして道具の前に立つと、ルーペの持ち手を両前足で握った。
「おおすげぇ! 流石!」
ルーペはゆっくりと持ち上がった。目を輝かせているアサギリに、「…持つのはいいが、どうやって使うんだ…?」と尋ねた。
「あ、そうか。ええっと…」
再びアサギリは本を読み始める。
「一番長い青い銅線を患者の目にあてて、取手にある赤いボタンを押すって書いてある!」
言いながらアサギリは、青い銅線を手に取った。手に取った銅線をリリアンの目元に当てると、銅線がすぅっとリリアンの中に溶けていった。
「ジョン、ボタンを押して!」
ジョンはゆっくりと目を瞑った。彼の表情は固く、何を思っているのかは読み取れない。そのまま彼は、己の指に力をかける。
ジョンが赤いボタンを押した。
ボタンを押すと、ルーペが勝手に動き出した。ジョンの手を離れ、ふわりと浮かんでいる。リリアンに焦点を合わせているようだ。
空中に浮かぶルーペを、訝しげに見ているジョン。慌ててアサギリはジョンに「大丈夫だ。きっとリリアンの目は見えるようになる!」と声をかけた。
焦点が合うとルーペから赤い光が輝き出した。赤い光は大きくなり、リリアンをすっぽり包んでいく。白色の羽が赤く染まるにつれて、ジョンの表情はさらに険しくなった。
数分後、赤い光がふっと消えた。
「リリアン!」
ジョンが叫びながら駆け寄った。赤い光が消えた途端、リリアンも力が抜けたように倒れ込んだのだ。
ジョンはリリアンの体を優しく抱き起した。彼女はすやすや眠っている。錆色のジョンの体毛の中で眠る白い小鳥の姿は、まるで居心地の良いベッドの上に寝ているみたいだ。
腕の中で眠る美しい生き物の羽を、ジョンはそっと撫でた。柔らかくて暖かい、ちょっと力を加えてしまえば壊れてしまいそうだ。
そんな白い小鳥を見つめるつぶらな瞳は、水に濡れた硝子のように煌めいていた。




