黒い風船
賑やかな人の声、大きな音楽。テントやゲームコーナーがあり、全てがカラフルで視覚的にも聴覚的にもうるさいところだ。俺は昔からこういうのは好きじゃない。ただ姪に、この町で年に一度開かれるサーカスフェスティバルに行きたいとせがまれ、仕方なく連れて来たのであった。この姪は姉の子なのだが姉は既に離婚しており、今日も仕事で忙しいらしい。それで俺がこの役目を引き受ける始末となっているのだ。姪はかわいいし姉にも感謝はしている。だから断れなかった。昼頃から開始したサーカスを二人で鑑賞し、夕方までは移動遊園地の観覧車に乗ったり射的ゲームをしたりして過ごした。もうそろそろ姉の仕事が終わる頃だろうと思った俺は愚図る姪の説得に必死だった。すると目の前に大きな黒い物が降ってきた。風船だ。顔を上げるとピエロがたくさんのカラフルな風船を片手に持ち、もう片方の手で真っ黒な風船をこちらに差し出していた。姪はそれでもまだ帰りたくないとの一点張りだった。するとピエロはピンクの風船を姪に差し出した。
こうしてなんとか機嫌が直った姪を連れ、俺は姉の家まで車を走らせる。車の天井でピンクの風船が揺れており、姪はそれを笑顔で見つめていた。機嫌が良くなって良かった。しかしあのピエロはなぜ初めに黒い風船を差し出したのだろう。あれだけカラフルな風船をたくさん持っていて小学生くらいの女の子に渡す風船として、黒の風船が適切だと思ったのだろうか。そんなことをふと考えていると姉の家に着いた。姪を帰し、俺も帰宅する。玄関を開け電気をつけると急に背筋が凍った。部屋の隅、天井近くにさっきの黒い風船が浮かんでいたのだ。どうして。あの時黒い風船は貰わずにピンクの風船だけを受け取り、それは姪が持って帰ったはずだ。奇妙に思いそこにあったペンで風船を割ろうと試みたが、不思議なことに全く破れない。ペンの形に沿って風船が変形するだけだ。俺は諦め今日はもう寝ることにした。風船など時間が経てばすぐに絞れてしまうものだ。それまで待とう。
次の日目覚めると目の前に真っ黒な景色が広がっていた。風船が移動していた。昨日は確かに部屋の隅にあったはずなのに。ペッドの上に移動している。しかも気のせいか昨日より大きくなっている気がする。俺は少し怖くなったが気のせいだと信じ仕事に出掛けた。
仕事中もあの黒い風船が気になって仕方がなかった。もし本当に肥大し続けているとしたら。そもそもなぜうちにあったのか。そしてなぜ夜の間に移動していたのか。空き巣にでも入られたのだろうか。だとしたら夜中俺が寝ている間にも部屋にいて風船を動かしたということなのか。仕事が手につかない。今日はそのせいで残業して帰ることとなった。ようやく仕事を終え、家に着いた俺は一つの不安を抱えながら恐る恐る玄関を開けた。そしてその不安は実際のものとなっていた。大きくなった黒い風船は既に部屋の半分以上を埋め尽くす大きさになっていた。何度もペンで刺す。包丁も使ってみた。手で破こうともしたが、割れる気配はない。残業のせいもあり疲れ果てた俺は諦めて寝ることにした。朝起きたら消えていますようにとの一縷の願いを持って。
次の日起きるとまた目の前に真っ黒な景色が広がっていた。しかし今度は違う点があった。明らかに体全体に圧力を感じる。ベッドから起きあがろうとしても風船が邪魔で身動き一つ取れない。さらにその感じていた圧力は増していく。遂には顔を覆ってしまい。息がしづらくなってきた。俺は諦めた。自分の力ではどうにもならないと。そう覚悟を決めて目を閉じた。数秒後、先程までの圧力が一気になくなった。助かった。そう思い目を開けるとそこには絶望の黒い景色が広がっていた。まさかと思い辺りを見回す。ベッドやテレビ、部屋の壁や天井全てが黒い。そして風船が張り付いたように所々湾曲した空間がある。風船に飲まれてしまったようだ。中から抜け出すにはどうしたらいい。この風船は何をやっても破けなかった。汗にまみれ呼吸が荒くなる。待てよ。風船の中はヘリウムガスではないのか。通常風船は中にヘリウムガスを注入することでぷかぷかと浮かび上がる物だ。しかし息ができる。ということはこの風船の中は酸素があるということだ。ということは風船の中の気体が変化しているということなのか。初めは浮いていた。しかし今はその風船の中で呼吸ができている。そう考えるといつか今度は酸素が別の気体に変わるかもしれない。焦るのに比例して呼吸が荒くなる。まずい。ただでさえ呼吸で酸素を減らしてしまうのに。呼吸のせいで酸素が二酸化炭素に変わる。意識が朦朧としてきた。ついには気を失ってしまった。
次の日の朝、ニュースが報じられた。26歳男性が自宅のアパートで窒息死の遺体となって発見されたというものだった。警察によると検死の結果、遺体には傷跡ひとつなく、人の入った形跡もなかったとのこと。死因は窒息死で間違いないが、なぜ窒息したのかは原因不明。そのニュースを見た女性とピンクの風船を持った少女は泣き崩れた。