【お題短編】天国地獄【坂】
数年前に某所に投稿したお題執筆形式の短編です。
僕の通っている高校は、小高い丘の中腹に建てられている。
その為生徒は全員、住む所は違えども最終的にはこの、長く急な学校へと続く坂道を通らなくてはならない。
何もない、本当に何もないただの坂。広く長い一本道は歩く者に軽い絶望感を与える。
徒歩組自転車組問わず学校を目指す生徒達の体力を登校時にごっそりと奪うその憎き坂は、いつしか『地獄坂』と呼ばれるようになっていた。
そんな地獄坂を、僕は他の生徒の例に漏れず多少息を切らしながら、必死に駆け上がっていた。
嘘だ。僕はこの短い一文の中で二つ嘘を付いた。
まず一つ。他の生徒の例に漏れずと言ってみたが、今僕の回りには他の生徒なんか一人もいない。一人寂しく地獄坂を登っている。
早い話が遅刻したのだ。今頃生徒達は教室で朝のホームルームをやっている事だろう。
そして二つ。僕は地獄坂を必死で駆け上がってなんかいない。家を出る時点で遅刻が確定していたので、のんびりゆっくり歩いてきたのだ。
うららかな春の日差しと暖かな風が気持ち良い。普通に歩くと辛いこの坂も、考え方を変えればちょっとしたハイキング感覚にもなる。
「まぁその気持ち良さのせいで寝坊した訳ですが」
僕はなんとなしに呟いて、深い溜め息を一つついた。
いつの間にか機能が停止していた目覚まし時計を呪いつつ、僕は学校へ向けてのろのろと歩く自分の足に少しばかり喝を入れた。
地獄坂も中盤に差し掛かった頃、僕はふと気がつき、坂の上の方に視線を向けた。
目指すべき学校の方から、一人の女子生徒が坂を下ってきていたのだ。
最初ははっきりしなかったが、僕の方に近づいてくるにつれて徐々に輪郭が鮮明になってきた。相手が僕に気付くと同時に、僕もその女の子の顔が見えた。
同じクラスの、ちょっと不思議な感じの女の子。
そして、僕の好きな人だった。
「あら、おはよう。奇遇ね」
「おはよう。……えーっと」
彼女は僕が手を伸ばせば届きそうな所まで下りて来て、挨拶をしてくれた。坂の上にいる関係で、今は僕が見上げる形になっている。
にこりともしない事務的な声の挨拶だったが、彼女はいつもこんな感じなのだ。基本的にクールな性格をしている。
だが、僕はおはようと言ったっきり言葉に詰まってしまった。
彼女が坂の上から下りて来てから今までの短い間に、何か無視出来ない違和感があったからだ。
何だろう。僕は遅刻して坂を上っている。今は時間的にはホームルーム中。そして坂を下ってきた彼女……。
あ、わかった。
「あの、どうしてこんな所にいるの?」
「それは私が聞いても良い質問よね? じゃあ聞きっこしましょう。どうしてこんな所にいるの?」
多少ズレた会話だったが、彼女はいつもこんな感じなのだ。このズレた会話こそが彼女の不思議な感じの所以である。
「僕は遅刻したんだよ。で、どうせホームルームには間に合わないから一時間目に向けてゆっくりと歩いている所」
僕の方の理由は明白だ。平日の朝だから学校に向かう。ただそれだけだ。
「……で、君は何で下ってきたの? 言った通り、学校はもう始まってると思うんだけど」
しかし彼女の方の理由は不明だ。わざわざこんな時間に地獄坂を下ってきたのだろうか?
「聞きたい? それはね、私は今、地獄に向かっているのです」
意味のわからない返答だったが、彼女はいつもこんな感じなのだ。この意味のわからなさが、僕が彼女を好きになった理由である。
彼女が僕の隣まで下りて来てにこりと微笑むのを見て、僕は一時間目開始のチャイムを放棄する事を決意した。
彼女がこういう風に微笑む時は、僕と会話をする時の合図だった。
この意味不明な会話に乗る事が出来るのは、今の所、僕だけなのだ。
「地獄?」
「そう、地獄」
地獄と言う単語を聞いて、僕は今登っている坂の名前を思い出した。
「地獄って……この坂の事?」
地獄坂と呼ばれているこの坂の事を言っているのかと思ったが、彼女は首を横に振った。
「間違いじゃないけど、やっぱり違うわ。当たらずとも遠からずって奴ね」
「じゃあ、何さ?」
僕は再度彼女に聞いてみる。すると彼女はつい、と坂の上に向かって指を指した。
正確には、坂の上に建っている、学校に向かって。
「あそこが、天国」
彼女はさらりとそう言った。僕は一瞬考えたが、すぐに会話を続けた。
「あそこって……学校の事?」
「そう。学校が天国として、この下が地獄。そしてこの坂が天国と地獄を結ぶ連絡路って所かしら」
坂の下へと指を移動させながら彼女は言った。
「貴方は天国へと続く階段を登っていた。そして私は地獄へと続く黄泉路を下っていたの」
行きは辛い通学路、帰りは楽な下校路くらいしにか考えていなかった僕とって、その考えは衝撃的だった。
天国が学校で、この坂の下が地獄。随分と乱暴な考え方だったが、僕は違う所が気になった。
「なるほど。学校が天国で、坂の下が地獄、か。面白い考え方だね」
「でしょう?」
「じゃあ、何で?」
「ん?」
「何で天国から、地獄に行く必要があるの?」
ここだ。僕はここが気になった。
彼女が天国と呼ぶその場所から、黄泉路を通り地獄へと向かう動機が不明だ。わざわざ自分を貶める必要性がわからない。
「何だ、そんな事?」
彼女は僕の質問を聞くと彼女はくだらない事言うなと言わんばかりに冷めた目線を僕に送った。
「簡単な事よ。私、天国に飽きちゃったの」
ひと際強い春風が、彼女の長い黒髪を妖しくなびかせた。
「……天国に、飽きた?」
「そう」
僕は今度こそ言ってる意味がわからなくなり、言葉を詰まらせた。
いつもズレた話題を提供してくる彼女だったが、今日は特別ズレていた。天国に飽きたって事は、即ち学校に飽きたという事なのだろうか?
「貴方、学校、楽しい?」
僕が口をパクパクさせているのを尻目に、彼女からの質問が飛んできた。
「ん……まぁ、多少おっくうになる事もあるけど、友達と過ごしたり騒いでる時は割と楽しい、かな。うん、僕は好きだよ、学校」
僕は思ったままの感想を口にした。学校は嫌いじゃない。思いでもそれなりにあるし、好きな人も出来た。
片思いだけど。
「私も楽しいわ。いや……楽しかった、わ。心地よくて、毎日いろんな発見があった。正に天国と呼べる場所だったわ」
わざわざ過去形に言い直したのを聞いて、僕は疑問を確信に変えた。
「……天国に飽きたって、学校に飽きたって事でしょ」
「当たり。中々鋭いのね」
言って彼女はクスクスと笑った。珍しく裏の無い笑い方だったが、その表情はどこか寂しそうだった。
「朝起きて、天国へ向かって、楽しく時間を過ごして、家に帰る。その一連の繰り返し自体に私、飽きがきたの」
「随分贅沢な悩みだと思うんだけど」
「私ね、小さい頃に両親が死んで、親戚の人達と暮らしているんだ」
彼女は、急にそんな事を話し始めた。
「歓迎されてなくてね、正直家に居場所なんて無かった。ずっと一人ぼっちで、暇を潰していたの」
「……辛かったんだ」
僕は何て言ったら良いのかわからず、ただ話を合わせるだけだった。
「でも学校に通ってからは楽しかった。登校してから放課後まで、正に天国にいるような感覚で時を過ごせたわ」
「……でも、放課後が終わったら」
「そう。憂鬱な足取りで下校路を歩き、自宅という名の地獄に帰るの」
「……」
「高校生になって家を飛び出して一人暮らししている今じゃ自宅を地獄なんて言えないけど、学校以外はやっぱり地獄の様な恐怖を感じるわ」
「……なら、なおさらだ。何でなんだ?」
「何が?」
僕は彼女の身の上を聞いて、初めて自分の意見を口にする事が出来た。今の話を聞いて、どうしても聞きたい事があったから。
「何で、飽きたって理由だけで学校と言う名の天国から抜け出したんだ?
「理由だけ、ね……」
「そうさ。そんなに外の世界が怖いのだったら、ずっと天国にいれば良かったじゃないか」
そこまで外界を畏怖していて。やっと学校と言う名の天国を見つけて、今現在高校2年までの11年間を、何故今日になって放棄したのか。
彼女は僕の言葉を聞いて、一瞬顔を伏せたが、直ぐにいつもの無表情で答えた。
「退屈って、貴方が思っている以上に怖い事なのよ?」
「……」
「なーんにも無くて、まるで時が止まった様な感じなの。天国どころか地獄にまで置いていかれた様で、そう……まるで、虚無ね」
「虚無、か」
「そう。それが嫌で私は私の天国を探した。そして、そこに順応し過ぎてしまった」
そして今日、彼女は初めて自分の意思で黄泉路を歩いてきた。
彼女はいつの間にか僕より一歩下に立っていた。坂の下を見据え大きく一回、伸びをする。
「何だかんだ語っちゃったけど、つまりは居場所が欲しいのよ、私」
「新しい、聖域か」
「上手い事言うわね」
彼女は僕を見上げ、僕は彼女を見下ろす。
「怖がってる場合じゃないわ。私は私の意志で地獄に向かう。そして地獄の中で一筋の光を見つけて、そこを天国に変えてやるわ」
彼女の言う地獄。即ち外の世界。
彼女は今、自分の為に自分の意思で聖域を切り開こうとしている。
「とりあえず今日はこんな時間に飛び出してきちゃったけど……明日から放課後は街に出てみる事にするわ。楽しみを発見して、行動範囲を広げてみる事にするの」
坂の下を見ていた彼女は僕の方へ振り返り、今まで見た事の無いとびきりの笑顔を僕に見せてくれた。
僕は彼女が好きだった。
彼女と言葉を交わすたび不思議な会話に引きずり込まれるのを喜びとしていた。
毎回ちゃんとした結論が出ないまま曖昧で終わる別れの時間を悲しみとしていた。
そして好意を胸にしまったままの毎日が過ぎていった。
今日、彼女は行動を開始する。
僕は坂の下を見た。長い長い春の黄泉路を、意気揚々と彼女は下っていく。
地獄を体験する為に。そして天国へと変える為に。
そんな自らの意思で動く彼女の後姿が僕の意志を強く突き動かした。
「待ってよ」
「……どうしたの? もう授業、始まっているわよ」
気が付くと、僕は一人でに坂を下っていた。
重力に押されるままに走り、彼女へと追いつく。彼女は特に驚く訳でもなく、冷静な返答を返してきた。
「僕も、行くよ」
「……貴方が? どうして?」
無表情で聞いてくる彼女だったが、僕は言葉に詰まらない。
「君が、好きだから」
彼女は言葉の意味を理解できていないように目をキョトンをさせたが、すぐに僕から視線を逸らしてクスクスと笑い出した。いつもの彼女だ。
「そうね……地獄の水先案内人、お願いしちゃおうかしら。なんせ初めてですもの」
僕は返事を待つ気は無かった。彼女の横に並び、自分から彼女の手を取る。
「……ついて来てくれるかしら?」
「もちろん。お望みとあらば、地獄の底までお供します」
僕と彼女は坂の下へと向き直り、駆け出した。
-終わり-