私はもう我が子を抱けない
私は無学なので、他国の職業や軍隊の仕組みなど知りません。
だからこれは、フィクションです。
フィクションですが、訴えです。
何の力もない、知恵もない、知識もない私には、こんなことしかできません。
目の前に、ひとりの少年がいる。
許されるべきではない者を見る目で、私を見ている。彼に銃口を向けている、私を。
少年は両手を後ろ手に拘束され、座らされている。それほど遠くない島国で「正座」と呼ばれる座り方だ。
隣にいる上官が、私に冷たく言った。
「やれ」
この少年を、殺せ。
引き金を引け。
徴兵され、私はこの戦争に参加した。
ほんの数週間前から。
戦争は、突然始まったのだ。
ある日、母国が、姉妹国と呼べるこの国に攻撃を仕掛けた。
理由など知ったことではない。
そんな事情などどうでもいい。
戦争が始まる予兆なんて、気にもしていなかった。
私は、平和に暮らしていたのだ。
妻がいて、五歳と三歳の娘がいて。
仕事から帰ると、いつも彼女達を抱き締めて。
愛してるよと言って。
そんな私にとって、戦争の始まりは突然だった。
姉妹国に攻撃が始まって間もなく、私は徴兵された。
三十五歳。戦える年齢の私が駆り出されるのは、ある意味では当然だったのかも知れない。
戦地は地獄だった。
漂う黒煙。
暗い空。
ミサイルが落とされ、建物が破壊されていた。
瓦礫が山となっていた。
車が黒焦げになっていた。
もう動くことのない人が、倒れていた。
私は、人を殺したことなどない。
むしろ、人を助ける職に就いていた。
救急隊員。消防に属し、事故などが発生した際は現場に駆けつけ、被害に合った人を助けていた。
私が生きているのは、誰かの幸せを奪うためじゃない。
私が生きているのは、誰かの命を奪うためじゃない。
人の命を救う職に就いていることが、私は誇らしかったのだ。
娘達に、自分の仕事を誇らしく語れたのだ。
「パパは、人の命を守ってるんだよ。もし、お前達に何かあっても、パパが必ず守ってあげるよ」
そんな私が、自分の半分くらいの年齢の少年に、銃を向けている。
この少年は、私の母国の兵を自国から追い出すため、デモを行っていた。
こんな若い少年が、デモ隊の中心人物の一人だった。
自分の国を守るため、少年は必死だった。
自分の家族を守るため、少年は抵抗していた。
自分の愛する者を守るため、少年は命を賭けていた。
デモの中心人物の一人と見なされた少年は、私の母国の軍に捕えられ、拘束された。
見せしめに、殺されるため。
引き金を引く役目として上官に指名されたのは、私だった。
少年の目に宿る光は、強い。
決して許されるべきではない者を見る目。
そんな目で、私を見ている。
ここに来るまでは、人の命を守っていた私を。
今は、人の命を奪おうとしている私を。
この世に、普遍的な正義など存在しない。
正義の価値など、時代時代によって変わる。
それでも、これだけは断言できる。
理不尽に人の幸せを奪うことが、許されるはずがない。
理不尽に人の命を奪うことが、許されるはずがない。
命と平和の重さを知る若者が、理不尽に殺されていいはずがない。
この国と私の母国は、姉妹国だ。
三〇年ほど前までは、ひとつの国だった。
もし、その国が崩壊し解体していなければ。
この若者と私は、親しいご近所さんだったのかも知れない。
歳の離れた親友だったのかも知れない。
そんな彼に、私は銃を向けている。
「早くしろ」
やや苛立った声で、上官が私に言った。
ブルッと、肩が震えた。
恐ろしい予感が、頭を過ぎった。
もし、私が、ここで引き金を引かなければ──
母国に残っている妻や娘達に、何か罰が与えられるかも知れない。
私の妻や娘だという理由で、残酷で理不尽な目に合わされるかも知れない。
私の家族を守るためには、目の前の若い命を奪う必要があるのかも知れない。
恐怖を覚える予感。
けれど、心のどこかで、それを否定する。
そんなのは言い訳だ。
ただ上官が恐ろしいから。
自分の国が恐ろしいから。
妻や娘を言い訳にして、人殺しを正当化しているんだ。
心にいるもう一人の私が、引き金を引こうとする指を押し返していた。
この少年を殺した手で、お前は娘達を抱けるのか?
上官に反論さえしなかった口で、妻に「愛してる」と言うのか?
妻を愛するのは夫だ。
子を育てるのは親だ。
若者を育てるのは年長者だ。
人殺しを正当化し、実行した者が、若い世代を育てられるのか。
未来を作る彼等の、指針となれるのか。
愛する者を守るために戦った、目の前の少年。
彼を殺す者に、誰かを──何かを愛する資格などあるのか!?
葛藤と恐怖を抱え、私の体は大きく震えた。
手にした銃が、カチャカチャと金属音を立てていた。
この若者を殺してはいけない。
この若者を殺したら、私は、命以外の全てを失う。
グッ──と、私の肩に手が置かれた。
上官だった。
彼は、鬼のような形相をしていた。
彼の視線から逃れるように、私は固く目を閉じた。
彼の視線からだけではない。
目の前の現実から逃れるように。
真っ暗になった視界。
肩に置かれた上官の手の感触が、恐ろしい。
震えはますます大きくなった。
まるで、極寒の地にいるようだった。
恐怖が、私を動かした。
ほんの数センチだけ、私の指先を。
銃声が、響いた。
上官の手が肩から離れて、私は、恐る恐る目を開けた。
少しずつ開けてゆく視界。
目に映ったのは、大量に流れ出る血だった。
少し前まで、生きた人間に流れていた血。
これから冷たくなってゆく人間の血。
私は、もう、妻も娘も抱けない。
愛する資格も、親である資格も失った。
失われた命の前で、私は天を仰いだ。
この作品について、反論や批判は山ほどあるでしょう。
ただ、どうか教えて下さい。
国や社会に振り回されて守られるべきものが守られない理不尽さは、どうしたらなくなるのでしょうか。