翌日
あの後、俺はだれとも連絡先を交換することなくその場を後にした。
二次会にも誘われかけたが、あやめさんが「ごめんなさい、今日はもう帰らないと」というのを聞いたのもあり、適当な理由をでっち上げてそれとなく断った。
誘ってくれた人には悪いが、どうにもそういう気分にはなれなかったのだ。
駅で別れて電車にゆられ、一直線に帰路につく。
今日は、久しぶりにいろいろな人と話をしたな……
めちゃくちゃに楽しかったのは間違いないが、それと同時にものすごい、疲れた。
恋愛沙汰はもう十分と感じるのは、充足感から来るのだろうか。
それとも何か、別の理由があるのだろうか。
そのまま何事もなく家に着く。
一人暮らしの小さな小部屋。つけっぱなしのPCが「お帰り」とばかりにファンを回す音がする。
いつもなら、まだSNSや動画サイトを漁って時間を潰しているような時刻だが、今日はもう寝てしまうことにしよう。
玄関の鍵を閉めたことを再確認して、明かりを消してベッドに潜る。
目を閉じると、今日の出来事がまぶたの裏に再生されていく。
そういえば、最初はあんなに苦しい思いをしていたのに。
今は、あやめさんの顔を思い出すたびに胸が痛い。
だけどもう、二度と会うこともないのだろう。
一夜の夢だと諦めて。明日からは真面目でつまらない日常に。
所詮俺には高嶺の花だった。
見上げ続けると、首が疲れてしまう。
すぐに忘れるのは難しくても。
だけどきっと、そのうち「良い思い出だった」と割り切ることが出来るようになると信じて。
慣れないことで、疲れていたのだろう。
気がつくと意識は深く沈んでいって。
◇
目が覚めてもそこはいつもの自分の家だった。
貴族の住まう屋敷でも、成人が生まれそうな馬小屋でもなく。
夢が覚めたことに絶望し。今日も一人、会社に向かう。
連絡先も一つも増えず、昨日の会の参加費だけが、来月頃に口座から引かれるだろう。
何も変わらない、退屈な毎日が始まる。
大丈夫、元に戻っただけだから。
出社して、会社のPCに電源を入れて、作業さえ始めてしまえばすぐに調子も戻るだろう。
このときはまだ、そう考えていた。
◇
俺が務めるのは、規模の小さなシステム会社だ。
社員数は三十人ほど。社員全員の仲が良い……とまでは行かないが、人数が少ないだけあって全員が顔見知りぐらいの中ではある。
主要駅から歩いて数分の好立地にある建物の6階に、我が社のオフィスはある。
残業を強制されることもなく、ハラスメントもほとんどない、良い会社ではあると思う。
昨今のご時世で飲み会はほとんど行われなくなったが、社員同士の仲が悪いということもない。
忠誠を誓うとは大げさかもしれないが、今のところ転職を考えないぐらいにはいい会社だ。
仕事もまあ、大変だけど楽しいし、自分で言うのもなんだが、こういう仕事は向いていると思っている。
エレベーターのスイッチを押すと、上昇中だったケージが上層階で停車して、そのまま1階へと戻ってくる。
まだ早い時間だが、時差出勤を利用している人も多いのか、この時間からエレベーターはフル稼働をしているようだ。
そうして無心で、スマホの画面を眺めながら待機していると、背後に人の気配を感じた。
別に義務ではないが、挨拶だけはしておこう。
「おはy……ざいます」
まだ朝も早く、寝ぼけたような口調になってしまうが、なに。要するに伝われば良いのだ。
振り向いて見ると、服装からして女性社員のようだ。
うちの会社は男ばかりだから、別の階で働く別の会社の人だろう。
「おはよ……う……あれ、もしかして? ああやっぱり。……昨日ぶりですね、アルマさん」
「……あやめさ……武者小路さん!?」
「はい! 僧侶のあやめです! アルマさんも、このビルで働いてる人だったんですね! 奇遇です!」
私服からスーツに変わったせいか、最初は気づきもしなかった。
だが、その声も、その顔も、長くて綺麗な髪も、煌めく美しい瞳も、あやめさんに間違いなかった。
俺が読者なら間違いなく「ご都合展開、乙!」と言っているだろう。
夢でも見ているのかと思った。
何せ昨日の今日なのだ。
不覚にも運命のようなものを感じてしまう。
どちらかというと俺は仏教徒寄りの無宗教だと思っていたのだが、もしかしたら神様は実在するのかもしれないとさえ感じてしまう。
祈りは通じる。
神はいる。
証拠はあるのかだって?
今この状況こそが、その証拠だろうが!
……舞い上がっては、いけない。
見たところ、俺に会ったことを嫌がっている雰囲気ではないが、しつこい男は嫌われる……ということは、どの作品でも言われていることだ。
あくまでも冷静に、クールに行こう。
なにせ、こっちはあの時あやめさんを選んだけれど、結果、結ばれることはなかった。
ということは、向こうは少なくとも俺以外の人を選んでいたということだ。
チーン
あやめさんの美貌に見惚れていると、背後で空気を読まない電子音が鳴る。
どうする、まだ全く話せていない……もっとちゃんと話をしたいが、それでも無情にも扉は開く。これ以上は、不審に思われかねないか?
「……来ましたね。乗りましょうか」
「そう、ですね。アルマさん、お先にどうぞ」
ヘタレだ。
俺は、ヘタレだ。
自分で自分が情けない。昨日もそうだった。結局俺は、一人じゃ何も出来ない雑魚なんだ……
そのまま180度ターンして、先に乗り込んで6階を選択し、開くボタンに指を当てる。
あとから乗り込んできたあやめさんは、4階のボタンを押して、エレベーターの対角線に。
そのまま何事もなく、エレベーターは上昇を続ける。
……気まずい。
こういうとき、何を話せば良いんだ?
話をしたいと思っておいて、いざとなると何も話せない。
弱い自分に石を投げつけたくもなる。
あやめさんは、ニコニコ笑顔で黙って立っている。ここは、俺が男を見せる場面!
「あの、あやめ……さん、」
チーン
このクソ、エレベーターめ!
AIの発展しているこの世界なら、エレベーターにも空気を読む機能ぐらい搭載しろよ!
いや、無理を言っている。八つ当たりにも等しい考えだ。恥ずかしいことこの上ない。
「それじゃあアルマさん、お先に失礼……あ、そうだ。良かったら今日、お昼とか一緒しませんか?」
「……!? はい、喜んで!」
「それじゃあ、ここの1階で12時に待ち合わせ、しましょう!」
エレベーターにAIが宿るのはまだまだ先のことかもしれないけれど、この世界には神様がいた。
笑顔で手を振るあやめさんをアイリスアウトするように、エレベーターの扉が閉まる。
「……よしっ!」
誰もいない小さな小部屋で、思わず声を出して喜んでしまう。
あやめさんはきっと、軽いノリで誘ってくれたのだと思うが、こちらとしてはどうしても意識をしてしまう。
お昼にデート! お昼にデート! お昼にデート! お昼にデート! お昼にデート!
チーン
6階について扉が開くと、そこには順番待ちをしている同僚がいた。
小さくガッツポーズをとっている俺を見て、彼は不審そうな顔を向ける。
……嗚呼。とりあえずエレベーターには、一刻も早く空気を読むAIを搭載して欲しいところだ。