ワニ園の猪山さん(短編 21)
四月。
ボクはワニ園に就職して働き始めた。
小学生以下は入園が無料ということもあって、日祭日になると親たちに連れられた幼い子らが大勢やってくる。ほかにもヤギやウサギなどもいて、子供たちは柵の中で気軽に動物と触れあえる。
ボクはワニの飼育係になった。
飼育場にはコンクリートの広場と水を張ったプールがあり、柵越しに見おろして見物するように造られてある。ワニは体長三メートルを超えるものから一メートルに満たないものまで、大小さまざま合わせると全部で十匹ほどがいた。
仕事はエサやりと掃除がメインだ。
ワニはとても怖い。
怖くて怖くて、逃げ出したいと思ったことが何度もあり、そのたびにこの仕事を辞めたいと心がくじけそうになった。
そんなボクをいつもそばで励ましてくれたのが、ワニ飼育係の先輩担当の猪山さんだった。この猪山さんがいなかったら、ぼくはとっくに逃げ帰っていただろう。猪山さんがいたからこそ、この三カ月間なんとか無事にやってこれたと思う。
ワニ担当は猪山さんと二人である。
猪山さんは五十歳くらい。その名前のとおり、がっしりした体と猪のようなごっつい風貌をしている。
ワニ園ではもっとも古参で、ここでもう三十年も働いているのだという。ほかの飼育員たちからも一目置かれている大ベテランの飼育員だ。
その猪山さんは口癖のようにいつも話している。
「ここでは愛情がなにより大事でな。自分たちが愛情をもって接してやれば、どんな動物もこちらの気持ちをかならずわかってくれるんだ」
猪山さんはそのことを、ワニ園での長い飼育経験から学んだのだという。
今日も開園前。
いつものように猪山さんは、肉がたっぷり入ったバケツを用意する。
これから朝のエサやりと、飼育場の掃除を同時に始めるのだ。
「今のうちだ!」
ボクに向かって声をかけ、猪山さんは柵越しにプールのひと隅に向かって肉を投げ入れた。
水の中にいたワニも、コンクリートの上で寝そべっていたワニも、落とされた肉にめがけていっせいに這っていく。
「はい!」
ボクはデッキブラシなど掃除道具一式を背中にしょって、内壁に設置された鉄梯子を伝って飼育場に降り立った。
ワニたちは肉にかぶりつき、それを大きな口で丸呑みにしている。あんな大きな口でかまれたら、腕の一本くらい一気にかみちぎられてしまいそうだ。
怖くてたまらない。でも、これがワニ飼育員の仕事である。猪山さんの教えのとおり、愛情をもってやっていればワニも襲いかかってくることはない。
猪山さんがエサでプールサイドの一カ所にワニをおびき寄せている間、ボクはワニがいなくなった場所の掃除を続けた。
飼育場の掃除は毎日欠かせない。
猪山さんによると……。
住むところが汚れていると、動物たちはすぐに病気になって死んでしまうのだそうだ。
「無理はするなよ。ワニは危険なんで、できる範囲をやればいいからな」
猪山さんが柵越しに優しい言葉を投げかけてくれた。
「だいじょうぶです」
それほど心配はない。
猪山さんが上手にワニを片隅に集めるので、ボクは安心して掃除をすることができる。
今日も掃除が無事に終わった。
ワニの飼育場から上がったボクに、猪山さんがねぎらいの言葉をかけてくれた。
「ごくろうさま」
「はい、ワニたちも喜んでくれてると思います」
ボクは笑顔を返した。
「それにしてもよくやるなあ。オマエ、ワニが怖くないのか?」
「そりゃあ怖いです」
「あんなのにかまれたら痛いだけじゃすまんぞ」
「でも猪山先輩だって、これまで長いこと、このプールの掃除をやってきたじゃないですか」
「オレ、一度もやったことないけど」
「うそでしょ?」
「うそなもんか。あんな怖いところに入れるわけないだろ」
猪山さんはひどく顔をしかめ、肉を食べ終わりゾロゾロと四方に散るワニたちを見ている。
「だって、これまでワニの……」
「いや、オレはずっとウサギかヤギの担当でな」
「えっ?」
「実は三月まで、ここは虎丸さんというワニ一筋の大先輩が一人でやっていたんだよ。でな、その虎丸さんが退職したもんで、ここでは次に古いオレに、ワニの担当がまわってきたというわけだ。新人を一人つけるという条件でな」
「はあ?」