存在証明
二杯目の水を飲み干した私は、誰も立っていない寂しいステージをじっと見つめる。
「あの、ラクスさん大丈夫ですか? 様子が……」
「ショールさ、確か楽器できるよね? あれ弾ける?」
「……あなたに言いましたか? 鍵盤なら何曲かは」
楽器が趣味なのは私が決めた設定だからね。知っていて当然なのだ。
私は訝し気な彼女の手を引いてステージに向かう。
「何ですか。いきなり」
「まぁまぁ、私が自信をつけるための儀式だと思って協力して」
「えぇ? 本当に酔っていないのですよね……?」
私は鍵盤の前に彼女を座らせる。
楽器はリードオルガン。別名ハーモニウム、所謂オルガンだ。どうやら足元のペダルを踏んで演奏するタイプのようだ。これの本物初めて見たなぁ。
彼女に試しに弾かせてみるとリードに空気が流れ、綺麗などこか懐かしい音が鳴る。ピアノよりも優しい、丸っこい印象を与える音だ。とりあえず調律などはしなくても大丈夫そう。まぁフリーリードの調律など、絶対にやりたくないので多少狂っていてもそのまま演奏してもらったのだが。
鍵盤楽器だがピアノよりはハーモニカの仲間で、仕組みは笛に近い。実際鍵盤と空気を送る機構を繋いだ大きな笛だ。簡易版パイプオルガン、大きな鍵盤ハーモニカと言ってもいい。
兎にも角にも、これさえあれば音楽はバッチリである。
私は体を解すように準備運動をする。あまり必要ないのだが、気分の問題だ。
「適当に踊るから、即興で何か合わせてね」
「突然合わせろって……大丈夫なんですか?」
「無くても踊るから、あれなら弾かずに見ててもいいよ」
オルガンの位置からは一応ステージが見える。何とかなるだろう。私はショールに軽く手を振ってステージへの一歩を踏み出した。
夕暮れの喧騒の中、私は誰も居ないステージに上がる。
暇そうにしていた数人の視線が私に集まる。どうやらこの世界の住人も、一応見るという反応はしてくれるようだ。反応してくれなかったら寂しいので助かる。
私はステージ中央へと歩みを進める。外から見るよりも意外に狭いが、やはり悪くない場所だ。
こうしてステージに立つのはいつ以来だろうか。いや、今日がラクスの初舞台ということになるのだろうか。
私は静まる事のないその場所で、そっと動きを止めた。
大きく息を吐く。
特に緊張はしていない。気分も悪くはない。こんな気楽な気持ちでステージに立ったのは、本当に初めてである。あの時はいつも隣に……。
私は、過去を振り切るように大きく体を動かした。
それと同時にショールがオルガンを弾き始める。
最初は数名だった見物人が、突然の演奏に気付いて一気に増える。
彼らのざわめきが、気付いていない人の目を引き寄せ、ステージの上は瞬く間に注目の的となった。
私はやや軽い曲調のオルガンに合わせて体を動かす。
振付など考えていない、体の赴くままに手足を動かすだけの踊りだ。
遠い昔に習っていたバレエでも、中学の時に皆で練習したダンスでもない。気分に合わせて何となくで、ステップがリズムを刻み、両腕は情緒を表す。
ただただ気の赴くままに自由に動く。それだけの振り付けなのに、酒の入った観客はやや品のない歓声を上げた。
ああ、良いなぁ。
ずっと私はこの視線を求めていたような気がする。
私の踊りが徐々に激しくなっていくのに合わせて、ショールの曲もそれに引っ張られる様にテンポが早まる。
気付けばプレイヤーも私の事を見ている。何人かは欲の透けて見えるような笑みを浮かべて私を撮影をしていた。
ぞくりとした快感が背筋を震わせる。
熱を持った冷たさが甘く甘く体に溶け出してしまう様な感覚に、思わず笑みが零れる。
その時、目線があった男の顔が変わる。彼の心音まで聞こえてきそうな、奇妙な“繋がった”感覚。
私は今どんな笑みを浮かべているのだろうか。
私は観客を煽る様に姿態を見せつける。
観客の興奮が私に伝わって、冷静を装った怠惰な私を消していく。
それが堪らなく気持ちいい。
今、私は踊っている。
一身に視線を集めている。誰もが私に価値を感じている。
それは何と甘美な事実なのだろうか。
***
私は何とかVRマシンから起き上がって、ベッドに体を転がす。
あの後、数十分に亘ってラクスはステージの上で踊り続けた。まるでそうしなければ自分が消えてしまうかのような激しい不安と、淫靡と呼んでも過言ではない甘い快感に釣られて。
私が体を動かしていた事実はないのに体中が汗だくだ。それに全身が重い倦怠感に包まれている。心臓は跳ね回る様に脈打っているし、とても立ち上がる元気はない。
「疲れた……」
これから予定が何かがあったような気がする。あまり働かない頭でぼんやりと考える。
しかし結局それを思い出すこともなく、私は夢の中へと落ちて行くのだった。
***
目が覚めたのは、次の日の午前六時。
私は着替えもせずに寝ていた事実に首を傾げ、義足だけ装着してリビングへと向かう。
まだ両親は就寝中なのか、リビングには誰も居ない。私は冷蔵庫を開けて今日の朝ごはんを探した。
何も無ければトーストにしようかな。
そんなことをぼんやりと考えていた私の視界に、見覚えのない一人分の食事が映り込んだ。
「昨日の残り……?」
確か昨日の夕飯は……と考えが至った所で、昨日は疲れて寝てしまったのだということを思い出した。思えば、食事どころかお風呂にも入っていない。
食事、お風呂……まだ何かあったような……。
「あ、約束……」
昨日、晩御飯食べた後に紗愛ちゃんとフランと3人でもう一度集合する約束をしていたのだった。結局晩御飯も食べずに寝てしまったので、完全にすっぽかしてしまった形だ。
私は慌てて二人に送るメールの文面を考え始めるのだった。




