ラクスと瑞葉
「これ! 買ってきました!」
あの後一頻り泣いたシトリンと別れ、私達はそれぞれ装備の点検などを行っていた。私はやることがなくて、しかしログアウトする気にもなれず宿屋でぼーっと水を飲んでいるだけだが。
そんな時だ。いつの間にかどこかへと行っていたシトリンが宿屋にやってくる。
そして私に見せたのは、一冊の本だった。
その小冊子のように薄い本のタイトルには“調薬の心得”と書かれている。どうやら調薬の手引書のようだ。
調薬とは森や草原に生えている薬草や、モンスターの体液などを混ぜ合わせて薬を作る生産システムの事だ。大半のプレイヤーにとっては、効率のいい薬をこの世界の住人よりも安く売って小銭を稼いだり、薬代を浮かせたりする程度のシステムでしかない。薬は使うが調薬はしないプレイヤーが大半だ。
ただその調薬で稼いでいる中でも特に真剣にやっている人は、自前の薬草畑と調合台で薬を大量に生産。上位陣に売って結構稼ぐらしいと聞いたことがある。
独自の薬も作れる夢のあるシステムだが、基本的には素材と効果の効率が悪くなるだけ。オリジナルの薬はまだまだ研究段階といったところだ。
「それでお薬の代金を安く済ませようと……」
「これでその辺の草とか混ぜればお薬ゲットですよね!」
「雑草をすり潰してもゴミにしかならないと思うよ」
シトリンのその認識は、本を読んで正してもらうことにして。
傭兵たちは最初から持っている知識以外にも、誰かに教えられたり本を読んで勉強した技術を身に着けていく。それは調薬や鍛冶、裁縫など様々だ。中には生産系システム以外の物を学ぶ者も居る。数学とか文学とかね。
傭兵の中にはそこらのプレイヤーなどとは比べ物にならない、凄まじい技術を身に付けた者も、少数だが居たりする。習得する技能がどれだけ成長するかは、マスクデータの才能値と練習量に比例するらしい。要するにある程度は運試しである。
当然だが、本人がやる気ならば必然的に練習量が増えるので成長しやすい。また、本を読むよりプレイヤーが的確なアドバイスで教える方が効率がいいので、傭兵のやりたい事をプレイヤーが教えられるのが一番なのだが……。
「私も教えたいんだけど、調薬なんてやったことなくて、ごめんね」
「いえ! 自分が勉強したかっただけですので!」
シトリンはそう言って大事そうに本を抱く。おそらくこの調子ならば頑張ってくれるだろう。
私が頷いた拍子に、ラリマールの手元が目に留まる。シトリンと共に本屋に行っていたらしいラリマールの手にも、一冊の本が握られていた。
この世界の本はこの世界の歴史や伝承が書かれた物と、さっきのように技術についてチュートリアルの内容に近い事が書いてある傭兵用の手引書のどちらかが大半だ。プレイヤーが発行している漫画なども一応あるが、どこにでも売っている物ではない。
少なくともシトリンと同じ店に行ったのなら、そのどちらかだろう。
「ラリマールは何の本買ったの?」
「ええ、その……表紙が美味しそうでしたので」
そう言ってラリマールにしては珍しくおずおずと見せたその本は、どうやらお菓子の作り方についての本のようだ。美味しそうだから買ったとは言うが、食べるだけに興味があるなら現物を買うだろう。
態々本を買ってきたということは、作る方にも興味があるのだろうか。
現実の私は料理ができない。正確に言うと難しい料理を作れない。お菓子作りももう何年もやっていないし、お菓子のプレゼントをするあの日も出来合いの物を買って送り合っている。
そんなこともあってラリマールの作る料理には興味があった。
「二人とも教えたりはできないけど、欲しい物があったら何でも言ってね」
「はい!」
「つ、作ると決めたわけでは……」
早速とばかりにレンタル調合台を借りに行くシトリン。それに引きずられる様にラリマールも宿屋を後にした。中々に珍しい光景である。
料理に調薬……頑張ってるなぁ。私もそいうこと出来たら良かったのだが。いや、ここではできるのだったか。
この世界ではもうじき日も沈むという午後四時過ぎ。
この町の酒場は今の時間が最も込み合う。この世界の住人が日が沈む前の憩いの一時として集まるためだ。
食事を取ったりパーティを編成するプレイヤーの姿も多少見える。彼らは割りといつでも居るが、休日は特別この時間に減るということはない。
その中には、私のように暇を持て余して黄昏ている者は一人もいなかった。
夕食には早すぎるし、かといってどこかへ行くという気分でもない。ユリア達とは夕食後に会う約束をしているし、フランに至っては既にログアウトしているようだ。
カナタでも連れて観光でもしようかな。そんなことを考えていた時だった。
「ラクスさん、酒場好きですよね」
雑踏の中に耳慣れた声が響いて、私は振り返りもせずに笑みを浮かべた。
「毎日いるショールに言われたくないなぁ」
「宿屋に宿泊している人全員が、酒場が好きだとでも仰るつもりですか」
カウンターの私の隣の席にショールが腰を下ろす。牧場でも洞穴でも一緒ではなかったので、ちょっと久しぶり。ここのところ毎日一緒だったので尚更そう感じるのだ。
彼女は何を注文するでもなく私の事を見る。私は水を飲み干し、カウンターにカップを置いた。
二人で話していると他の喧騒が遠のくような、そんな感覚になる。心地いいような、くすぐったいような気持ち。
少し素っ気ないような彼女と話すのが、私は結構好きだった。今までは居なかったようなタイプの話し相手である。
私はふとあのお城の地下での事を思い出して、再び礼を言う。何かお返しがしたいな。
「あの時は助けてくれてありがとうね」
「それはもう聞きました」
「改めて言わせてよ。お返しは何がいい?」
「不要です。助けたのは仲間として当然の行為です」
断られてしまったが、お礼はその内何かを見繕おう。
私はお城の地下での話から、この町までの道程、牧場での出来事、雷鳴の洞穴でのことをショールに話していく。
彼女は何を言うわけでもなく、ただそれを黙って聞いていた。
さっきのシトリン達の話をして、私は何となくぼんやりとした頭で言葉を続けた。
「……最近、楽しいんだ。皆と色々な場所に行くのが」
「カナタさんみたいなこと仰いますね」
「んー……確かにカナタとはちょっと境遇が似てるかもね。まぁ特別な一族とかではないけど、鳥籠の鳥だったってのは一緒かな」
ふと、そんな思っても居なかったはずの言葉がこぼれる。私はそんなことを、いつどこで思っていたのだったか。
話した言葉と自分の認識が乖離して、どこか空虚なその言葉が頭の中を反響した。
私は鳥籠の鳥ですらないはずだ。地を這う、翅をもがれた醜い蟲である。
もはや飛ぶこともできず、ただ惨めに地を這って、生きているというよりは死んでいないだけの“イキモノ”。
私は全身から体温が抜けていくような感覚を覚え、思わず身震いする。
気が付くと、ショールが心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「大丈夫ですか? 顔色が悪いですが……」
彼女が触れた左腕が、温かくなる。
その熱が全身を巡って、私を“現実”へと引き戻した。
「あー……大丈夫。酔っちゃったかな?」
「未成年は飲めませんよ」
「私なんかと一緒にされたら、カナタが可哀想だね」
自分自身から何かを誤魔化すように乾いた笑い声が喉から溢れる。こうして笑っていないと“何か”に気が付いてしまいそうだったから。
「……あまり、自分を卑下しないでください」
「え?」
左手に重ねられた手に、きゅっと力が籠められる。
私はその突然の言葉に、ショールを見ることも出来なくなっていた。
「あなたは時折、自分が価値のない物かのように振る舞いますが、私はあなたを尊敬しています。そう長くない付き合いですが、あなたが優しくて気遣いができる人だということを知っています。
だからどうか、自分に自信を持ってください」
「それ、は……」
彼女はいつから、そんなことを思っていたのだろうか。私はまだ何も話していないはずだ。
それなのに彼女は的確に、私に向かってそう言った。
それは私にとってあまりにも理想的で、残酷な言葉だ。
自信を持つ。言葉にすればそれだけの事だけれど。
左手の温かさとその言葉の心地よさに、思わず笑ってしまう。“あること”にようやく気が付いた。気が付いてしまった。
ショールは私と話しているのだ。これは決して瑞葉に掛けられた言葉ではない。
「うん、ありがとう。そうだね」
私は左手を握り返しながら、空いた手でカップを弄ぶ。
私の言葉と瑞葉の認識が違うのなんて当たり前だ。だって私はラクスなのだから。
瑞葉と認識が、意識が、思考が違っていて何の問題がある?
私は瑞葉と違って、きっとまだ踊れるのだから。




