火曜日と疲労
今朝は雨かぁ。
空を見上げてそんなこと思ってしまったが、思い返せばここのところずっと雨だ。どうもゲームの感覚でつい最近快晴の空を見たような気になってしまう。
瞳に映った雨傘からは、際限なく雨粒が流れ落ちる。私は何となくこんな景色を“あっち”でもみたいなと思って口を開いた。
「ねぇ紗愛ちゃん。あのゲームって雨の日とかあるのかな?」
「雨の日? 雨がずっと降ってるフィールドならあるらしいよ。行ってみる?」
「紗愛ちゃんは笠あるからいいとしても、私風邪引くんじゃないかなぁ」
紗愛ちゃんはゲームで風邪は引かないよ、なんて笑ってくれる。いやでも、ゲーム内で動くと現実で汗かくし、疲れると眠くなるし、割とありそうな気がする。
紗愛ちゃんは私から貰った斧を装備するためにレベルを上げて装備重量を鍛えているとか、来季は読んでいた漫画がアニメ化するから見なきゃとか、雑多な事を楽しそうに話す。
私もそれに応える様に笑った。
そんな話をしている内に学校へとたどり着き、下駄箱で紗愛ちゃんと別れる。紗愛ちゃんの教室は二階で、私の教室は一階だ。
多分、私が、階段を上らなくて済むように。
そのことを思い出す度にひどく……そう、ひどく惨めな気分になる。私は、気を遣ってもらうのが、嫌なのだと思う。
わがままな子供みたいだ。何でも、自分がやりたかったのに。そうやって他人の優しさに対して癇癪を起す。
私は鞄から教科書がインストールされているデバイスを取り出して電源を入れる。未だに紙のノートは“信者”の先生が居るため、何冊か取り出して机へと放り込んでおく。
高校は通信にすればよかったかな。そんな気にもなってしまう時があるが、それでも紗愛ちゃんと一緒に居る選択をしたことを後悔したくない。私は鞄に付いていた水滴をハンカチで拭き取ると、大きく息を吐いて担任の教師を待った。
「……」
「あら、今日は眠そうね。どうかしたの?」
私がぼうっと教室正面の電子黒板を眺めているのを見て、隣の席の汀さんが話しかけてきた。何かある度に話しかけてくれるこの人も、きっと優しい人なんだろう。
私はゆっくりと彼女に向き直り、話を聞く体勢を作る。つり目で意思の強そうな顔をしている汀さんは、何となくクラスの相談役みたいな立ち位置だ。
「眠そうに見えた? 連休明けだからかな」
「遊び過ぎたのかしら。課題はやった?」
「生物以外は提出したよ。生物はこれ」
課題はネット経由ですでに提出済み。物理媒体で提出するように言われた生物の課題もノートの中だ。
それにしても、眠そうか。もしかして私、ちょっと疲れてるのかな。思えば体が重い気もしてくる。この感覚はゲームとのギャップなのか疲れているのか分からないので放置していたのだが。
「うーん……疲れって、取るにはどうしたらいいのかな?」
「あ、やっぱり疲れてたの? 三連休どこか行ってたとか?」
「いや、出かけてはいないんだけど、ちょっとゲームをね……」
汀さんに天上の木の簡単な説明と、大体毎日やっていたことを話す。それは疲れて当然よ、なんて笑われる。
VR疲れというやつか。神経接続型のVR黎明期にはその健康被害は大きく話題になったらしいが、その頃はまだ生まれていないか、生まれたてくらいだったので詳しくはない。
確かにペースは考えなきゃいけないな。昨日なんて疲れて昼寝をしたら晩御飯の時間まで起きなかったほどだ。お母さんにはゲーム中にご飯が出来たら呼び出し機能で起こして欲しいと伝えてあるので、初日みたいなことにはならなかったが。
「それで、疲れを取る方法だっけ? やっぱりあれじゃないかしら。瞑想」
「瞑想……?」
私の意外そうな表情を見てか、汀さんが一瞬しまったとでも言いそうな顔をする。しかしすぐに取り繕って別の解決策を提示した。
「それじゃなかったらコーヒーとか」
「え、瞑想って……?」
私が再度聞き返すと、彼女は諦めたように嘆息する。いや、あれは誤魔化し切れないと思いますよ。何ですか瞑想って。
「……お兄ちゃんが言ってたんだけど、VRゲーム疲れには瞑想が本当に効くらしいわよ。お父さんは運動しろって怒ってた」
汀さんのお兄さんはVRゲームをするのか。流石に学校内で瞑想はできないし、授業終わったら自動販売機でコーヒー牛乳買ってこようかな。
それから汀さんは、兄のゲーマーっぷりについて愚痴のようなものを語る。どうやら興味のない対戦ゲームの相手を半ば無理矢理付き合わされているらしい。聞いている限りは大変そうだが、怒っているというよりは呆れたような口ぶりで、口元には笑みが浮かんでいる。
「汀さん、ゲーム好きなの?」
「え、話聞いてた? 興味ないってば」
ということはつまり、お兄さんの方が好きなのか。そんな言葉がつい口からこぼれそうになるが、ちょっと怒られそうなので黙っておくことにした。
***
一時限目の休み時間にコーヒー牛乳を飲み、四時限目に体育で体を動かした私は、思ったよりも元気になっていた。
どうやら本当にコーヒーと運動が効いたようで、その効果を紗愛ちゃんに伝える。
「それで、こっちでも体動かすとか瞑想するとか色々やらないと、やっぱり私は疲れちゃうみたい」
「そっかー。ごめんね、私が誘ったから……」
「あ、ううん。それは気にしなくていいよ。今、私ちゃんと楽しいから」
帰り道は霧雨で、舞い上がった雨が傘を抜けて顔や髪を柔らかく濡らす。風に合わせて目を閉じながら、私は諦めて傘を閉じた。
体感的には濡れる量はあまり変わらない。大きく開けた視界に、ファストフード店の看板が入る。
そういえば最近ああいう所行ってないな。
「ねぇ紗愛ちゃん、雨止むまでちょっと寄ってかない?」
「雨止むまでって……ここで何泊するつもりですか、お客さん」
「それも二人なら楽しそうだね」
私がそう言って笑うと、紗愛ちゃんも釣られる様に笑って見せた。
店内に入ると、私はホットレモンティーとアップルパイを注文する。紗愛ちゃんはホットコーヒーとバニラアイス。疲れた時には甘い物だ。……運動しなきゃなぁ。
私達がピッと支払いを済ませている間に、店員さんは作り置きのアップルパイとアイスを三秒で用意、ホットの飲み物はちょっと熱そうにトレイに置いた。
私と紗愛ちゃんは商品を受け取ると、店内の良さそうな席を探す。あいにくの天候のためか狭い店内は空いていて、私達は窓際の席にトレイを置いた。
「あの店員さん、いくつくらいかな」
「んー? 三十……五?」
「そんなに年上にかなぁ。昔はこういうお店って高校生のアルバイトも居たんだってね」
「それいつの時代の話さ。学生のバイト先なんて私達が生まれた時にはもうなかったでしょ」
「えー、だってお父さんから聞いたよ? そんなに昔じゃないかも」
「瑞葉のお父さんってあれだっけ、考古学者」
「それお母さん。っていうかお母さんも古典文学の研究者であって考古学者じゃないけどね。国文学の先生だよ」
サクサクのアップルパイを頬張りながら、紗愛ちゃんと他愛もない事を言い合う。
それは確かに、劇的な時間ではないけれど、これもこれで幸せの形なのだとちょっとだけ理解できたような気がした。
きっと、仮想とか現実とか関係ないんだ。重要なのは誰と、どういう時間を過ごすか。
私はレモンティーのカップを両手で持つ。感じるはずのない熱が左腕から伝わって、胸が温かくなる。
私には、現実にも居場所がある。現実の私に魅力はないかもしれないけど、現実の私は綺麗に動けないかもしれないけど、それでも私はここから逃げない。
逃げ出すような場所に私はいない。
「紗愛ちゃん」
「ん? 何?」
「またこうして遊ぼうね」
「……当たりまえでしょ? 瑞葉の笑顔のためなら、私何だってするよ」
「うん。ありがと」
お礼を言った私の顔を見て、彼女は嬉しそうに笑みを浮かべた。