夏休みの終わり
夏休みの最後の土日は予想通り、紗愛ちゃんの課題に付き合って過ぎて行った。
そして今日は月曜日の9月3日。我が校の始業式である。
私は久方振りに制服に袖を通し、休み中と同じ時間に朝食を取って家を出た。
残暑の厳しい外気に体が汗を噴き出す。私は9月の朝とは思えない日差しの強さに顔を顰めて日傘を広げる。
やや古いアスファルトは熱を返し、近代化の波に乗り遅れた電柱には蝉が止まっている。ため息が出るような、いつも通りの風景だ。
そんな光景に特に関心を持つこともなく、私はすたすたと住宅街を進んで行く。数分も歩けば次第に景色も変わり、少し大きな通りへと出た。
全国展開のチェーン店と地元のお店が競い合う様に建ち並ぶ大通りで、私は紗愛ちゃんの姿を探す。
いつもはこの交差点で待ち合わせなのだが、どうやらまだ来ていないらしい。
私は交差点手前にある和菓子屋の壁に体を預け、私と同じ制服に身を包んだ制服の男女の後ろ姿を見送る。
登校時間にはまだ幾分かの余裕があるとはいえ、私の足が速いとは言えないのでいつもならもう来ているはずの時間なのだが。私は連絡用のデバイスを手に周囲を見回す。もしかすると合流せずに先に行ってしまったのだろうか。
そんなことを考え始めた時、聞き覚えのある声が耳に飛び込んできた。紗愛ちゃんではない。
「加藤さん、おはようございます」
「あ、烏羽さん。おはよう。……珍しいね、この道通るの」
今日はいつも通りピシッと制服を着た烏羽さんが、神社の方向の道から歩いて来た。どうやら今から登校らしい。
いつも彼女とこの道で会うことはないので、別の通学路を使っているのだと思っていた。
しかし彼女は今日こうして私と同じ道を歩き、そして私達は出会った。
いつもと違う道を通ってきたのだろう。おそらくは私に会うために。
彼女は私の隣に寄り添うように立ち止まると、私と同じく学校の方を見詰めていた。
「今日は生徒会の仕事はないの?」
「打ち合わせは金曜日。挨拶の原稿もその時確認してもらったから、後は遅刻しないだけですね」
彼女はどこか、何かを確認する様にチラチラと横目で私を見る。
……つまりあれか。私達が本当に“言いふらさない”のか監視しに来たという訳か。
何となく察した私は他愛のない話題を振り、私達は課題やこれからの授業について話し込む。
話の内容は極めて真面目で、少なくともあの夏祭りの夜に語り合った品のない会話ではない。あんな赤裸々な話をしたのは初めてだったな。ソラとだってしなかったはずだ。
もちろん、私が忘れてしまっているというだけかもしれないけれど。何と言うか、ソラの方が私より色々と“早かった”記憶があるし、もしかすると気も遣われていたのかもしれない。
私が烏羽さんと話し合うこと数分。
私のデバイスが震えて、予定の時刻が来たことを伝える。どうやら紗愛ちゃんは遅刻らしい。彼女が特別に時間にルーズという訳ではないはずだが、休み明けで気が抜けているのかもしれない。
これ以上は待たずに出発することにしよう。私はデバイスのアラームを切って、和菓子屋の壁から背を離した。
「学校行こう。そろそろ走らないと間に合わなくなりそう」
「あ……本当ですね。逢沢さん大丈夫でしょうか……」
「んー……まぁ、最悪始業式は出なくてもいいからね。授業だけなら3時限目からだし」
しかし生徒会長はそうは言っていられないし、私もできるだけ真面目に学生生活を送るように心掛けているので、遅刻や欠席はしたくない。
私達は緑色に点灯する信号機に従って交差点を抜けた。
何となく流れで一緒に登校することになった私は、私の歩調を探る様に歩く烏羽さんの顔を覗き込んだ。
「そういえば、フランには何も言わないの?」
「え? 布津さんは……その……」
そもそもフランは家が別方向なので、私達3人全員に口止めするならば学校で待っていた方が楽そうだが。しかし、少し言いづらそうに視線を彷徨わせる彼女を見て、そういうことかと思い当たる。
あの場に居たのは私と紗愛ちゃんとフランの三人。単純に紗愛ちゃんは来なかったからだとしても、フランに再度の口止めに行かないのは少々疑問だった。
あの中で一番噂として広めそうなのは紗愛ちゃんかな。周りに聞こえていないと思って普通に話題として出しそう。
しかし次は、いやもしかすると同率くらいでフランだと思う。彼女の場合、烏羽さんが悩んでいるから良かれと思って色々と口にしそうなのが怖い。彼女に対する期待値を下げるために数学の笠井先生が嫌いとか、一人遊び用の結構刺激の強そうなおもちゃを隠し持っているとか……後者は男子からの不愉快な人気が高くなりそうだが。
しかし、それを口止めするにはそもそも彼女との会話で主導権を握らねばならない。
烏羽さんのあの様子と、隠している内容からそれは半ば不可能に近い気もする。公衆の面前で口止めなどしようものなら、夏祭りの事をポロっと周りに聞こえる様に確認しかねない。
彼女もそれを危惧しているのだろう。
不安そうな彼女を前に、私は教室に着いたらフランへの口止めをもう一度しておこうと心に決めるのだった。
***
2学期初日の放課後。
私は人の疎らな教室で、生物の課題のノートを順番に並び替える作業をしていた。
汀さんともう一人の学級委員がやるはずの作業だったのだが、汀さんに任せて帰ってしまったらしい。そこで暇な私とフランが手伝いを買って出たのだ。
「大した量じゃないから別の良いのよ? あいつからは後でお菓子とか貰うし」
「でも一人だと大変」
「本当にね……。何で生物の猪川先生って紙に拘るんだろうね」
私は積み上がった紙のノートとプリントを五十音順に並べながら、ずっと疑問だったことを口にする。
生物の猪川先生は老年の先生で、現代では珍しい紙のノート至上主義者だ。
当然自動採点もできないので本人の負担も増えていて良いことなど一つもないと思うのだが、それでも紙のノートに板書を書き写すことや文字通りのペーパーテストを止めようとしない。
授業は分かりやすいし、図式の描写も上手いのでいい先生ではあると思うのだが、荷物が増えると生徒からは不評である。いくら老年とは言え今時の教師は教師用のデバイスの操作くらいできるはずなので、流石に何か考えがあってのことだと思う。しかし今まで特に納得のいく説明がされたことはなかった。
今まさにこうして手間がかけられている汀さんも、ため息を吐きながら私の言葉に頷いて見せる。
「この学校であの人くらいよね、紙のノート使わせる教師。薄くて高いのしか売ってないし、止めて欲しいわ」
「授業受けるのにお金払うの不満」
「デバイスも教科書も政府が買ってて無償の時代なのに、きっと誰だっておかしいと思うわね」
「生物にしか使わないのに、筆記用具も必要だからね……」
綿谷さんのノートを積み重ねた私達は、全員分のノートを二つに分けて教員室に持って行く。
まぁ私は完全に付き添いなのだが、今日はフランと紗愛ちゃんと一緒に帰る約束をしていて手持無沙汰だ。ちなみに紗愛ちゃんも教員室に居るはずである。なぜかは知らないが、さっき校内放送で呼び出しを受けていた。多分委員の仕事か何かだろう。
西日の射しこむ廊下を歩いて一階正面玄関前にあるその部屋までたどり着くと、フランは持っていたノートを汀さんの山に重ねた。どうやらこの部屋には入りたくないらしい。
やや呆れ顔で扉を開けた汀さんを見送り、私達は何となく窓の外の景色を見た。少しぼんやりとした頭で会話を続ける。
「そういえばフラン、最近何してるの?」
「最近? ゲームとジョギングと……日課」
「いや、そういうことじゃなくて……というか、日課ってあれ? その、一人でする……」
ゲーム内で何をしているのかという話だったのだが、どうやら伝わらなかったらしい。
私は西日で赤く照らされながら、ちょっと気になってしまった話を聞き返してしまう。フラン、こんな性欲とかありませんって顔してるのに3時間だもんね……そりゃ授業中眠くなっても仕方ない……。
そんな話をしていると、教員室の扉が開いて中から人影が飛び出す。
汀さんかなと思いきや、それは意外な人物だった。
「何の話をしているんですか……!」
どうやら教員室の空いている窓からこちらの声が聞こえていたらしい。
血相を変えた烏羽さんの登場によって、私はそんな事実を知るのだった。