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わたしと月と新聞紙

作者: 夏野景

 新聞紙を、四十二回折り曲げると月に届くらしい。たった四十二回だ。こんな薄っぺらな紙を、折るだけで、月にすら届いてしまうと言う。

 

 いやはや信じられない。そんな簡単にこの田舎町から逃れられるものか。ネットで物が買える時代だというのに商店街が繁盛してしまってるようなこの町から、まして地球から、逃れられるものか。

 いままで大地にとらわれて生きてきた十七年は強固で圧倒的な現実だ。

 

 そんな気持ちが、わたしを、そんな簡単に月にはいけないぞと証明してやろうじゃんという気分にさせた。四十二回折って証明してやろうじゃないか。てんで月には届かないはずだ。

 

 新聞紙。

 どの家庭にも毎朝配られる、ありふれたものの中でもずば抜けてありふれたもの。

 それを手に持つと、わたしの確信はより強固になる。こんなスーパーありふれたものが月に届いてたまるか。ここではないどこかにこれが繋がってるなんて思えないし、身近にそんなものがあるなんて、いやいや信じられんでしょ。

 

 こんだけデカけりゃ四十二回折るなんて余裕でしょ。というのは希望的観測に過ぎないのだと、折って三回目でわかった。

 一度折るだけで、あれだけでかいと思ったぺら紙が、なんと半分の大きさになってしまうのだ。いや当たり前?それはそうだけど、実際やってみるとものすごい勢いで新聞紙ってミニマムになっていく。八回目で、これは人類には不可能な偉業に挑戦しているな自分、という心持にならざるを得なかった。

 

 八回折った新聞紙は、なにか固体のような塊に変貌していてもはや紙とは呼べず、折ることはおろか折り目を付けることさえできない。これならNASAとか目指したほうがまだ月への近道じゃんかと思うほどに。

 

 でもたしかに、この質量が倍倍になっていくんだとしたら、たしかに四十うん回も折ったとしたら、月にたどり着ける……のか?

 

 いやいや月って何メートル先よ?大気圏がたしか、ええっと、わかんないな。ぐぐると五百キロメートル以内が大気圏。いやどうせぐぐるなら月への距離だ。三十八万四千四百キロメートルだ。

 

 三十八万!!!キロメートル!!!近い時は三十六万にまでなるとグーグル先生はおっしゃっているが、どちらにしろだ。こんな、ミリの十分の一もなさげなぺら紙が、折っていけば一キロに達すると言う想像すらできないのに、三十八万とか完璧無理。まったくなんてインポッシブルなの。

 

 四十二回折って不可能を証明することは不可能だったわけだけど、なんてことはない、三十八万キロだ。これは試すまでもなく、不可能だ。紙ぺらで月に行くなんて無理に決まってるって、証明できた同然。

 

 とはいえ、無理に決まってるっしょの一言を、手も動かさず言い切ってしまうのも落ち着かない。0.1ミリの新聞を、一回折れば0.2ミリ。二回折ったら0.4三回で0.8。倍になり続けるってことだから、0.1×2の42乗ってことね。

 電卓で0.1と打ち込み、2と×を交互に42回連打。4.3980465E11。このEはなに。ぐぐる。指数を表すらしい。つまり4.3980465×10の十一乗。だから、439804650000ミリ。キロメートルだと、ええと、439805キロ。


 げっ。四十三万キロになるじゃんか。月を五万キロも通り越してしまう。じゃあ、仮に四十二回きっちり折ることができれば、月に届くんだ。八回で限界だったわけだけど、出来てしまえば届いてしまうんだ。




 ()()()()()()()()()()()()()()



 月に届かないと証明せんとするわたしの気持ちは、圧倒的な数字の力の前に霧散した。もし仮に、折れれば、新聞紙は月に届いてしまう。ここではないどこかへこれは繋がっている。限界だった八回の、あと五倍折れば、月はすぐ近くなのだ。こいつはすごいぞ。


 今日返ってきた答案用紙を手に取る。日本史B80点。月がそんなに遠くないと証明できなかったわたしには、月が予想より手に届きそうだと知ったわたしにはこんな数字なんの意味もない。折ってみる。今度は七回が限界だった。答案だった紙は、何かよくわからない塊に変わってしまった。でも、なにか夢の詰まった塊。折ることは不可能だが、折りさえすれば宇宙に到達する塊。あと三十五回折ってあげれば月に届く塊。何もない日常に突如として現れた、非日常のにおいのする塊だ。

 

 そう思うといても立ってもいられなくて、わたしはそれを手に持って走り出す。テストは親に見せなきゃ叱られるとか、そんな地上の狭い世界の話は知らない。月に接続する塊だよ、これは。みんなが持ってる答案と同じじゃないんだ。わたししか知らない秘密が詰まってる。


 「帰ってすぐまたどこ行くの」という母親の言葉には、しっかり返す。ちょっとコンビニ!

 草履をつっかけまた走る。

 テストはすべて消化して、あとは消化試合みたいな登校日程をやり過ごすだけの放課後のいま。

 日が長くなり、早めに地上に顔を出したひぐらしが、夜になる前にもう一声とばかりに合唱をしているいま、ここ。

 わたしはなにもない今ここを走る。

 手には塊となった答案を握りしめて。あと三十五回折れば月に到達する塊を、人が見たら丸まった屑にしか見えない塊を握って。

 走り続けてもこの何もない田舎町の景色はずっと変わらないけど、三十五歩歩くのではなく三十五回折れば月に行けると言う事実を胸に秘めて、走った。


 そんなに遠くないところに月があって宇宙があって、太陽系があって銀河があって、その銀河はたくさんあって、宇宙は膨張し続けていて、その宇宙はもっとたくさんあって、むかしむかしにはビッグバンがあって、今ここにわたしはいる。

 これから先無限に時間は流れて、人類が死滅しても地球がなくなっても時間は流れて、そのときにはとっくにわたしは高校を卒業しておばあちゃんになって死んだあと。

 でも、あんなに遠くにある月が、思ったより遠くない。ここじゃないどこかって、そんなに遠くない。

 いまじゃないいつかもきっとそんなに遠くない。

 走っても走っても景色は変わらないけど、わたしの行けるところとか可能性みたいなものって、案外そう少ないものでもないのかもしれない。


 そして右手の塊をぶん投げた。

 TSUTAYAさえない田舎町の、ひぐらしの声が降る森に向かって投げた。

 四十二回折った新聞紙から見るこの街を夢想する。

 月を五万キロも追い越してしまった地点から見る景色。月の裏側にはウサギはいない。映画によると宇宙人の秘密基地があると言うけどそんな非現実的なものは存在しない。ただ、いつもとクレーターの形が違う月が見えるだけ。

 わたしは新聞紙を四十二回折るのを繰り返しただけだから、そんなに疲れてはいないはず。ただ、一折ごとにだんだんと遠ざかる家を学校を森を街を、日本を、地球を見てちょっとだけ感慨深いかもしれない。

 新聞紙はきっとふらふらしてて怖いだろう。うまくバランスをとらないと地球に落っこちてしまう。


 そんな夢の詰まった紙を、わたしは極めて一般的な、何の変哲もない山に投げた。

 月はそんなに遠くないって教えてくれたあの紙も、腐食して、土に還って、この町に一体化して、もはや見わけもつかなくなるんだろう。それによって宇宙が地球に取り込まれる気がする。

 わたしは宇宙に繋がる塊を地上に埋めたのだ。




 わたしの、そう強くない肩で投げた答案は、そう遠くない地点にパサリと落ちた。




 瞬間、()()()()()()()()()()()。わたしは星空に放り出されていた。何が起こったか。簡単だ、地球が宇宙を食った。もはや地球が宇宙だ。わたしにはそれがわかった。


 放り出された先は、どうしようもなく何もないわたしの田舎町であり、そこから遠く離れた東京でもあり、月であり、火星であり、募金を待ってるアフリカであり、海であり、冥王星であり、今日テストが返ってきた学校でもあった。

 今、ここは、何もない田舎町であり、世界であり、銀河であり宇宙だった。

 どうやらわたしはどこにでも行けた。よく考えれば当たり前だ。新聞紙を四十二回折りたためば四十三万キロ先へ行けて、四十三回折れば八十六万キロで、五十回折れば一億一千八万キロ行けるのだ。わたしだけが世界の秘密を握ってて、どこでも行けて、無限の可能性だった。




 ひぐらしの声がした。目を凝らすと、わたしの投げた答案は、日本史B80点の答案は、十メートル先に落ちていた。答案が、風に吹かれて転がった。一億五千万キロメートル先の太陽は、そろそろ見えなくなるくらい沈んでいた。暗くなる前に家に帰ろう。


 わたしは五百メートル先の家に、千歩を費やして帰った。


 ほんとは新聞紙二十三回折れば帰れるんだけどね。でもこれは人類にはないしょでわたししか知らない世界の秘密。


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